「中国化する日本」與那覇潤著 |
それにしても、著者である與那覇先生(@jyonaha)は弱冠32歳!凄い32歳が居たものである。
私が32歳の時は、、、と思い返すと、二人目を産むにはどうすれば良いか、仕事と子育てを両立するにはどうしたらいいのか、目の前の事に汲々としていて、これほどリッチで遠大な視点は持ちえ無かった。でも、それは著者が言う所の「一人中国化」状態で、生きのびる為に使えるものは何でも使っていたのかも知れない。
與那覇先生は中国化を
「可能な限り固定した集団を作らず、資本や人員の流動性を最大限に高める一方で、普遍主義的な理念に則った政治の道徳化と行政権力の一元化によって、システムの暴走をコントロールしようとする社会」と定義している。なるほど、そんな風に考えた事も無かった!
「この本は高校の歴史教育と、大学の歴史教育を繋ぐ役割であれば良い。」
とtwitterでつぶやいておられるが、例えば私が高校生だった遥か24年前にこの本を読んでも、恐らく1割も内容は判らなかったろう。当時は受験戦争の雰囲気がまだ濃く、共通一次からセンター試験に移行した時代。歴史の先生は日本史/世界史各2人=4人も居て、授業時間はそれなりに多かったけれど、それでも「学び足りない」不足感を持ちながら、専門的な勉強(実技系)の道に進んでしまった。
成人して、それもしばらく経って(子育ての暴風雨が薙いだ頃)コツコツと読んだ物から得た知識にで、何とか理解出来たかなと思う。
グダグダと何が言いたいのかと言えば、ハイティーンにだけ読ませていてはもったいないと言っているのである。以下、思いつくままに感想など。
平家・海軍・国際派
twitterでもどなたか指摘していたが、この本を貫くテーマである「中国化(オープンシステム)」「江戸化(クローズドシステム)」をキーワードに歴史の事象を切り分ける様を見て、すぐに思い出したのが「平家・海軍・国際派」の言葉である。これは、司馬さんが、大前研一さんと対談した時に
「昔から、日本では平家、海軍、国際派はどうしても主流になれない。」
と話していた。「ああ、そうかも。日本ってそうよね。」と妙に納得した。
なぜ勝てないのか、與那覇氏は「みんなの大好きな江戸」という言葉で表現している。
イネ(稲)とイエ(家)で構成された集団単位に、それぞれ「家職/家産」を担わせる方法しか日本は取りようが無かった。律令国家までは、中国からの先端事物をずっと輸入して来たが、宋の時代(960年 - 1279年)に中間支配層である「貴族」を彼の国は滅ぼして、皇帝直轄の「官僚機構(科挙によって選出)=群県制」を作ってしまい、1000年世界に先駆け自国内に「ミニグローバル化市場」を確立させた。が、、日本はそこまで行き渡るだけのメディアが発達していなかった。具体的には印刷技術や言語教育といった基本的な知的インフラが無かった事が影響しているらしい。
司馬さんは対談の席で、しばしば(あ、だじゃれ)
「日本史は鎌倉以降から始まる。」
と断言するが、與那覇氏も同じ事を、違う視点で見ておられる。
「既得権益勢力(貴族や寺社)と国際競争に適した主要産品がなく、没落必至の坂東武者が、宋朝の仕組みを取り入れようとした平家一門を瀬戸内海に追い落とした。」(與那覇氏談)。。。鎌倉で青春期を過ごした私としては、司馬さん的解釈の
「己が耕した土地は自分の物と言って何が悪い。荘園主など一度も顔を見た事が無いではないか。鎌倉らしいリアリズム。地方農園地主が都から落ちて来た貴種である頼朝を担いで平家を追い落とした。」、、と表現する方が心情的に合うのだけれど、やはり、物はリアルに見なければならない。
数年前の大河ドラマ「義経」(タッキー主演)でも、清盛の貿易に対する考え方が描かれていて新鮮に映った(描き方が弱かったけれど)。来年の大河ドラマは奇しくも「平清盛」またどんな描かれ方をするだろうか?
明治維新は中国化のさきがけ?
明治維新の解釈も面白い。曰く
日本だけが中国や韓国に先駆けて西洋化した、、、というよりも、そもそも先延ばししていた「中国化」がいよいよ保たなくなって「西洋化」と看板を挿げ替えただけ。中国/朝鮮にとってはそれほど西洋化は魅力的では無かった。と説く。ほほ〜。これもなかなか新鮮な視点だ。
私は、生半可な知識しか無いが、
儒教の「身体を動かす事を蔑む」傾向が少なからず影響したと考える司馬さんの解釈にも、一定の共感を持っている。
士大夫たるもの身体運動を要するものは、下僕にさせる。。江戸時代に毎年訪れていた朝鮮通信使は
「武士等と言っておるが、あれは「兵士」だ。」
と蔑むような滞在日記を残していたり、韓流ブームのドラマ「チャングム」では医術を学ぶ女性達が
「看護婦なのに売春婦的な事までさせられるのが嫌だ。」
と苦情を訴える台詞がある。
日本は「技巧の練達」をむしろ尊ぶ所があって、鍛錬を要する事に熱中する気質があるのではないか、、と司馬さんは言う。
黒船に他国の脅威を覚えたのとは別に、目の前に現れた「メカニカル」な造形物に、それまで押さえ込まれていた「エンジニアリング」の好奇心が一気に噴出したのではないか。。。これは学術的に照明された訳では無いけれど、寡黙なエンジニアを沢山抱えたメーカーに勤めているから、多分に身贔屓で考えてしまう、、(あ!これが江戸化か!)そう、実感としてそれはあったろうと思えるのだ。歴史的に見ても、何でも国産化にこだわる所も、気質かと…。だから、オープンシステムに負ける時もあるのよね。。
やっと掴めた「陽明学」
本書を読んで一番理解しやすかったのが、陽明学の思い切った説明!下手な事を言って妙な議論に巻き込まれるのを嫌がる為か、これまで、陽明学を端的に説明してくれる文書に出会った事が無かったが、これは凄い。
「結果オーライならぬ、動機オーライ」純粋で高邁ピュアな動機に基づいていれば、結果が破滅的でもオッケー‼
こんな説明、多分與那覇先生しか出来ない!どーも、司馬さんが吉田松陰について語る時に、ぼんやりとしか理解出来なかったのだが、大雑把な陽明学の本質を私が掴み損ねていたかららしい。いるよねぇ、、こういう人。妙に透明な眼差しで思い込んでしまう、、な人。
女性の存在を忘れていない
さすが、若い方である。後半につれて、社会における女性の立場とその影響についてもしっかり言及している。この視点が、今の40代後半以上の世代にはスッポリ無い(キッパリ断言!)学究的な大学の職場は、ジェンダー差別なんて遠い昔の話だろうが、民間はまだまだ、既得権益者がウヨウヨ居るので、表だって失言しないだけ、一皮むけば「江戸よ再び」と夢見ている。
「ああ野麦峠」に描かれた民間製糸工場の苛烈な能力主義(上手に紡げない女工は徹底して給与を差っ引かれる)と、それでも家に居るよりずっとマシだったという女工達の証言は、同性として深く共感してしまう。
誰が、洗濯機も、炊飯器も、湯沸かしも、冷蔵庫も無い農家の生活をしたいと思うだろうか。宮尾登美子氏の小説だけで沢山だと思うのがホンネである。
今の中国を知りたければ、、
「今の中国を知りたければ、日本び明治を調べろ。(その逆も真)」いやぁ、この事を知りたかったビジネスマンは沢山いるだろう。とにかく、数字は正直だ。購買力をつけ始めた中国市場を証明する数字に
「とにかく、乗り遅れてはならない。」
と焦るビジネス界。でもその付き合い方がわからなくて(気持ち的にも障壁があって)グズグズと立ち止まっているのが実態ではなかろうか。
表面的な事象を説明するレポートはいくらでもあるが、根本的な成り立ちを全く知らず、理解もしていない不安を、巨大な隣国に感じていると思う(私も含め)。
政治ってそういう物なのね
今に限らず、日本人って政治とか外交とか「下手だなぁ」と薄々気が付き始めていたが、、
曰く
本来、西欧近世の身分制議会というのは、もともと貴族が既得権保護のために王様と話し合うための場所です。したがって、近代西洋産の政治学で考えても、アクターがそれぞれに利権を持っているのは最初から前提で、政治とはそれらをネゴシエートするためのプロセス、という事になる。ところがこれが今日の日本では通用しない。「こいつらこんなに汚く儲けている。」と清廉潔白の士が汚職を徹底追及するワンサイド・ゲームの方がウケる。。
には本当に「目から座布団が落ちる」思い。いい歳してよく判らなかったのだから、自分でもナサケナイ。。本当に「床屋政談」してる場合じゃないし「戦国だけファン」とか寝とぼけた言ってる場合では無いなぁと痛感。
しかし、巻末の文章はさすが若々しくて良かった。こんな頼もしい次世代がやって来ているのだから、多少なりとも我が子らも後に続いて欲しいなと思うばかりである。(とやや過大な期待)
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