2011年6月28日火曜日

「古典で読み解く現代経済」池田信夫著書

池田先生は、いつもブログ、Twitterで切れ味鋭い(鋭過ぎて読む側は鮮血にまみれてしまいますが、、)論調だから大好きである。出来の悪い生徒のつもりで果敢に読んでみる。
基本的な経済学の古典と言われる有名な著作を、章ごとに取り上げて構成されているから、読みやすい。(元はアゴラセミナーの内容を書籍化している模様)

そもそも、経済のイロハも解らないまま、取り敢えず会社なる所で働いてうん十年。「へぇー、マルクスの資本論ってそんなものだったんだ、、!」と初めて知る事ばかり。古典も古い物は考え方がシンプルで、高校時代の古い知識で何とか理解出来たが、時代が新しくなって来るとなかなか。。。
フリードマンの章なぞは、池田先生の例え話は解るけど、著書の解説となるとヤッパリむずかしい、、とても原書や翻訳本を読み下せる力は私には無いが、こんな風に東奔西走、満身創痍で経済の事を解説してくれる先達はとても貴重だと思う。池田先生、もっと精進します。


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2011年6月25日土曜日

さかのぼり日本史 昭和~明治 挫折した政党政治 第3回「もたれあう政党と藩閥」

さかのぼり日本史 挫折した政党政治 第3回「もたれあう政党と藩閥」

前回の放送から、さらに時代はさかのぼって、日露戦争後の「日比谷焼き討ち事件」から「桂園体制」と言われた「政党政治(西園寺公望)」と「藩閥政治(桂太郎)」が交互に政権を担った17年間の事を取り上げている。

私にとって、やっと「坂の上の雲」と時代が繋がって少し理解出来る範囲になった。「坂の上」の最後に、チラリと触れられる「日比谷焼き討ち事件」。
ポーツマス講和条約で日本は、ロシアから一切の賠償を得られず、それに不満をもった民衆が数万という単位で暴動を起こしたのだが、司馬さんはこの事件を境に、明治の「それなりに正直で賢明な時代(坂の上の雲を目指して登って行ってた時代)」が終わって、昭和初期の日本敗戦へ向って、大きく曲がり始めた起点ではないかと書いている。

番組の感想からやや脱線してしまうが、「坂の上の雲」でも、しきりに「資金調達」の事が書かれている。ともすると、名も無き明治の男達が、各自の持ち場で粉骨砕身する姿ばかりに目が行ってしまうが、司馬さんは全編を通し、いかに苦しい台所事情だったかをしっかり描いている。

陸軍は兵站を軽視する体質が災いして、満州の野でへたり込んで動けなくなってしまい、実際はこれ以上戦争が続いたらとても持ちこたえられないギリギリの状態だった。
目端の効いた海軍にしても、必要な軍艦を購入する最後の資金に苦慮し、山本権兵衛は思い余って、西郷従道に予算流用の相談をする。(「ああたと私、二重橋で腹を切りましょう」という有名な下り、、)

生糸とお茶ぐらいしか輸出出来る物は無く、農村では裸足で歩いているような駆け出しの国家が無理に無理を重ねて、国家予算の40%以上を軍備に費やした

これに耐えた国民も、相当なものだったと思う。その不満が、焼き討ち事件へと繋がったのだが、問題はその実情

「自分達の国家は貧しい。日露戦争もはっきり勝ったと言えるかどうか怪しい。今が停戦のチャンスなのだ。」

と正確に伝えるジャーナリズムも無かった、軍部も政府も内情を良く知っている癖に、不正直に群衆の方にピントを合わせた気分が出て来る。。と司馬さんは別の機会に語っている。

番組では、このポーツマス講話条約の少し前から、戦争遂行内閣である「桂(藩閥)」に民衆の不満を盾に、後の首相となる原敬(政友会のナンバー2)が「政権委譲」を引き換えに民衆を押さえる(静観して加担しない)という密約を交わしていた事が明かされる。
この焼き討ち事件の翌年から「桂園体制」が始まるのだが、桂(藩閥)は軍備拡張を、西園寺(政党)は今で言う公共事業の拡張を、それぞれにある程度譲り合いながら、持ちつ持たれつの関係を保って、安定した政権運営をして行く。

番組では、この期間は「政友会が政権遂行能力を養う期間だったのではないか。」と言う。明治維新を担った、薩長出身者が政治を行う時代から、農村の地主層が支える政党が政治を行う時代に、いかにも日本的に緩やかに渡されて行くプロセスだったのかも知れない。
しかし、この桂園体制が終焉するのは、危機的な財政難からだった。肥大する軍備に国家予算が耐え切れず、民衆の目が藩閥政治にアレルギーを持ち始める。。。「藩閥」という看板を下げて、陰から実行支配をした方が有利と見たのか、政友会に潜り込んで行く印象を持った。(だって、政友会の総裁で桂の後に首相になった山本権兵衛は薩摩閥だしね)

「日本人は外圧が無いと変われない。」

というフレーズをこの所、毎日聞いている気がするが、歴史を振り返っても、悲しいくらい日本人の思考の癖が見えて来る。
小さいお金にはシビアなのに、大きいお金にはどこか鈍く、とことん立ち行かなくなるまで、突っ込んで行ってしまう。
作った当時はそれで良かったけれど、いずれ不具合が生じてしまう事を見越して、仕組みのバージョンを上げない融通の効かなさ、、。

歴史を学ぶという事は、自分と自分の国を見つめるのに、非常に有益だなといつもながら思う。

「戦争が遺したもの」鶴見俊輔/小黒/上野千鶴子著

鶴見俊輔、上野千鶴子、小熊英二著
なぜ、この本を読もうとおもったのか、どうして買ったのか、すっかり忘れてしまったが、私の積ん読コーナーに置かれていた本。
かれこれ半年以上この状態で、この夏やっと手に取った。恥ずかしながら、この共著に名を連ねているお三方のうち(鶴見俊輔、上野千鶴子、小熊英二)上野氏しか存じ上げず、この座談の主人公である、鶴見俊輔氏を初めて知った。

鶴見氏は、戦後、雑誌「思想の科学」を創刊し、数々の知識人と交流があり、ベ平連(ベトナム平和連合)の主要メンバーという来歴の持ち主で、その筋(現代思想?)の人々の間ではスター的存在だったそうだ。(wikiによると哲学者の分類)

本には「面白くてすぐ読める」物は多いけど、これはきっといつまでも心に残る一冊だと思う。

私はとにかく、昭和から現代までの知識が薄い(特に生まれてから物心つく60〜70年代後半まで)と思っているので、この座談で語られた戦後から連合赤軍事件の頃までの話は、ボンヤリとしか知らなかった。非常に興味深い内容である。

鶴見氏は、母方の祖父が後藤新平(台湾総督府民生長官を務めた明治の大物政治家)で、父は鶴見祐輔−戦後厚生大臣を務めた政治家。いわゆる政治一家に生まれた。自らを
「悪人で、ヤクザでいえば仁義の世界に生きているんだ」
と、座談の間、一貫して語る。その視線は率直で飾る事無く、歴史と世情を見つめている…であるが故に言葉の多くが心に響く。

話が前後してしまうが、この著書は、小熊英二という社会学者(現慶応大学教授、小熊氏の講義はどれも人気で、受講が困難らしい)が発起人で、戦後の思想家を代表する鶴見氏に三日間みっちりインタビューしたその記録である。(収録は2004年)

この小熊氏の質問がどれを取っても恐ろしく詳しい。鶴見氏が書いた物は全て、そしてそれ以外の文献も半端無い分量を読んでいると思われ、とにかく、詳しく鋭く斬り込んで行く。(上野氏も恐らく知っている内容が多いのだろうが、若い小熊氏に多くを譲って見守っている)

とても、この本の感想を簡単に書けるものでは無いが、とにかく印象に残った事柄をトピック的に、、

一番病
鶴見氏は、自身の父鶴見祐輔を「一番病の人」だと言う。
戦中は大政翼賛会で演説し、戦後はアメリカが来たら自分は総理大臣になれると無邪気に信じていた。貧乏学生から頭脳一つで東大まで一番で登り詰め、妻の実家をバックに政界へ打って出る。時流が軍国主義ならそれの一番たろうとし、戦後民主主義になったら、いとも簡単に転向してしまう。実父のそれを嫌悪し、永らく実家には帰らなかったそうだ。

恐るべき強い人それは母親
インタビューの冒頭、生い立ちを鶴見氏は語るのだが、母親の存在は大きく、重かった。姉弟4人居る中で一番折檻され、それでも
「動物の感で自分が一番愛されているのが分かるんだ、だから辛い。愛されるのは辛いと物心つく頃から気が付いてしまって、その先はどうしようも無い不良少年だった。何度も自殺未遂をするんだけど、本当に死にきれる所まではやらない。死んでしまったら母が壊れるのが分かったから、そこまで出来無いんだ。」と語る。
十代で女性関係を持ち、学校は放校、自殺未遂と、親の手に余る息子を見かねた父親が、母親と離す為にアメリカへ留学させたのだそうだ。
母親から植え付けられてしまった女性に対する一種の憎しみは、永く鶴見氏を苦しめ、成人してから発症してしまった鬱症状の根底には、その苦しみがあると言う。
「不良少年だった反動で、成人してからの私は、女性に何も反応しないようにと、自分を追い込んでしまったんだ。」
と赤裸々に語る。なるほどなぁと思えるし、切ない。
私にも息子が居るので、思い当たる部分があったりして、母親の存在が子どもに与える影響の大きさを思うと考え込んでしまう。

それでも日本へ帰国する
鶴見氏が米国留学中に日米は開戦してしまう。
「あの国と戦ったら日本は必ず負ける。」
と思っていたそうだが、負けると思っていても
「ズボンに手を突っ込んで、英語なんぞをしゃべりながら、アメリカと一緒に日本に上陸しなくない。」
と思って、日米交換船に乗って帰国する。聞き手である小熊氏は、その動機を不思議がるが、シニカルに世間を見つめているのに、ギリギリの所で「仁儀」へと行動の舵を切る鶴見氏は、とても人間臭いと感じた。

人を見る目
連合赤軍の事を語った下り。イデオロギーの為に、それまで仲間だった人を吊るし上げてリンチにする等と言う愚行を、まして、心ではおかしいと思っているのに、仲間の命令に従ってそれを実行するなぞは、くだらないと語る。
「逃げる器量を持たなくちゃ。」
「大義というような抽象的なものによって決断を下すべきじゃない。人間にはそんな事判断する能力は無いんだ。誰となら一緒に行動していいか。それを見るべきだ。普段から人をよく見るんだ。」

特にこの言葉がとても印象深かった。

2011年6月23日木曜日

「嫌われ者の流儀」堀江貴文 X 茂木健一郎著

ホリエモンの収監前に読み終わって、タカポンRTをもらおうと思ったのに、タッチの差で間に合わなかった。(botなのかも知れないけれど、拾いまくるRTは本当に凄い、RTされなかった事もあるので、botじゃないのかな?)

「収監」も良かったけれど、茂木さんとの対談本も面白い。この本を読んで気が付いたのだが、堀江氏は誰か相手が居た方が、より冴えている気がする。一人で理論を磨き上げたり、職人技でワールドを築くよりも、カウンターがあった方が、アイデアがスパークしている様に思う。茂木さんが良き質問者であるのも優れた要因だろう。(伊達にNHKプロフェッショナルで経験を積んでいない。)

やっぱり社長業をしていただけあって、堀江氏の周りには自然と人が集まりチームが出来てしまう強い吸引力があるのだろう。アイデア豊かで知識も豊富。「どうしてそんな事知ってる?」というアカデミックな内容から、本当に俗な話まで、上下左右縦横無尽に語られる内容は、読み応えがあった。

私が堀江氏を「この人は信頼出来る。」と思ったのは、 科学者/技術者を本当にリスペクトしている事、そして、リスペクトだけでは無く「もっと商人と組まないとダメだ。」とハッパも掛ける所。
曲がりなりにも、メーカーに務めている身としては、エンジニアの良い部分、弱い部分が肌感覚で判る。そう、やっぱり世の中を変えるのはテクノロジーしか無いのだ。世のエンジニアよ(特にソフト系)仕様書ばかり書いていないで、時にガリガリプログラミングしようぜ!(私には逆立ちしても出来無いけど)
堀江氏は、メルマガでも著書でも一貫して「プログラミングは自力で勉強せよ、丸投げするな、自社でやれ!」と説く。その理由もこの著書では語られているが、私も大賛成。

丸投げのさらに丸投げで出来上がってしまった、ナサケナイ自社製ソフトを見るにつけ、
「もっと、社内のエンジニアに『書いてみてよ!出来る!』と仕事させた方がいい。」
と暴言を吐いているので、我が意を得たりと思う。

畑も違うし、四十を過ぎた私には、もはや「茂木塾」や「堀江塾」でワクワクする機会は無いと思うが、我が子がそんな私塾に行けたらなぁ、、と妄想するのである。

2011年6月21日火曜日

この国のかたち

いつか読みたいと思っていて、後回しにしていたシリーズ。
司馬さんが晩年の10年を費やした連載なのだが、亡くなった後にファンになった私としては、このシリーズを読んでしまうと、もう司馬さんの書いた物が無い事を認識しなければならない。。というわけで後回しにしていた。
でも、読み時が来たと思う。

奥さんのみどりさんは、司馬さんの小説が本当に好きで、晩年書かなくなってしまった事を残念がっておられる。司馬さんは講演会でたびたび

「小説は空気中のエーテルを結晶化させるようなもんで、とてもシンドイ。」

と語る。年齢と共に書かけなくなる、、とも。

司馬さんの小説は、人物をリアルで魅力的に描き、読者をあっという間に、時代の中に連れ込んでしまう。一方、筆任せに軽やかな筆致で書かれる随筆は、

「趣味で書いているようなものだ。」

のだそうだ。ウッカリそうなのかと思って読んでいると、ズキリっと釘付けになる言葉にしばしば出会って、何度も文章を反芻してしまう。

「この国のかたち」もそうだった。「街道をゆく」のように、少し離れた距離から見つめる視点では無く、もっと踏み込んだ調子で書かれている。

冒頭の章で印象深いのが、決して小説に書かなかった「日露戦争以降」の事にいろいろ言及しいる点である。
昭和軍閥の事を語ると、どうしても肩に力が入り「唾棄」する口調になってしまうのを、司馬さん自身も良しとしていなかった。
(坂の上の雲で、陸軍の硬直化した組織を執拗に描く自分を恥ずかしいとも書いている。)
後世、この点を「鬼の首」でも取ったように批判する人も居るが、(司馬史観という言葉を持ち出して、、)この本を読むと、否応なしに「おまえは死ぬのだ」と国家から強制された人間だけが持つ、身体的緊張がありありと伝わって来る。

学徒出陣で、勉学の途中で陸軍へ入れられた司馬さんは、「死」を20歳そこそこで覚悟したという。どう考えても納得出来ず、悔しいとも思い、それでも、仲間の前で恥ずかしい死に方だけはしたくないし、そうしない自信だけはあったそうだ。
親鸞が晩年に書いた「歎異抄」を繰り返し読んで、この不条理をどう受け入れたらいいのかと、ずっと考えていたそうだ。(もうこの時点でレベルが違う)

配属された戦車部隊で
「もし、アメリカ軍が関東地方の沿岸に上陸してくれば、銀座のビルの脇か、九十九里浜か、厚木あたりで、燃えあがるじぶんの戦車の中で骨になっていたにちがいない。そういう最期はいつも想像していた。」

この一文は本当に怖い。司馬さんは、腹の奥底から怒っていたのではないのか。私にはそんな風に思える。日本人は本当に昔から愚かな民族だったのか、その厳しい問いを考え続け、歴史を追い、眩いばかりに飛翔する主人公達を幾人も生み出した訳だが、その根底には深い問いがいつも横たわっている。

司馬さんは、この一連のシリーズを、宿題として後世に残した。オファーを受けた時、連載に逡巡したそうだが、
「書きたい事もあるしな。」と承諾したとか。。
時代はバブル経済前から、その崩壊を迎えた後まで、国の在り方を憂慮しながら綴られている。

ボンヤリと20代を過ごしてしまった私は、遅ればせながら、司馬さんの問いの意味を考えたいと思う。

2011年6月19日日曜日

「成金」堀江貴文著

「拝金」に続いて「成金」も早速読んでみたが、これまた違った雰囲気で面白い。未読の方にはおすすめ。「拝金」以前の時代、2000年頃が舞台だが、IT業界が活況を呈し、非常に流動的だった頃の話だ。

「ああ、この頃こんな事があったんだ。」

と思いながらも、知らない事、おぼろげにしか意識していなかった事が多くて
「私、この時何してたんだろう。。 」と少し情けなくなった。

でも、思えばITの恩恵を大きく受けた人間の一人かも知れない。丁度、長女が生まれて1年目、必死に新幹線で長距離通勤をしながら、仕事と子育ての両立に四苦八苦していた頃だ。
時間が無く、場所の制約も多い生活に突然投げ込まれて、必死で役に立ちそうな事なら何でもチャレンジしてみた。メール、ネット、携帯、、もし、あと5〜6年早く生まれてしまっていたら、子育て時期がもう少し早い頃だったら、たぶん、今の私はもっと違った人生を送っていただろう。まがりなりにも仕事が続けられたのは、IT技術のお陰である。

さて、成金。
「成金」って言葉の本当の由来を恥ずかしながらこの本を読むまで知らなかった。 丁々発止の攻防戦は、読み出したら止まらないが、ラストの「坂の上の空の雲を、、、」の下りは司馬ファンとしては、ビリビリとシビレてしまった。
「誰だってその気になれば、坂の上の雲を見つけられる。」本当にそうだ。

今まですっかり、堀江氏の事を誤解していた。(ごめんなさい)
この物語を読んでしまうと、メルマガ連載中の「起業記」にもとても期待してしまう。

2011年6月18日土曜日

さかのぼり日本史 昭和~明治 挫折した政党政治 第2回「原敬 政党内閣の光と影」

さかのぼり日本史 第二回「原敬政党政治の光と影」

この番組、地味だけどとっても気に入って毎週NHKオンデマンドで観ている。尺が20分ちょっとと、隙間時間に観るのに手頃で、アウトラインを捉えるのにはうってつけ。たぶんテキストが売ってるんじゃないかと、探してみたがどうやら書籍連動はしていない模様。惜しい!これは絶対に書籍と連動すべき。
毎月4回を1グループとして現代から時代をさかのぼってゆくのだが、もう少し突っ込んだ考察や事象を知りたいなぁと、毎視聴後思う。

特に、加藤陽子先生の時はもっと話が聞きたい!と思うほど。

それでも、日本人は「戦争」を選んだ」
http://www.amazon.co.jp/dp/4255004854

加藤先生の著作を読んだ事があるので、もっともっと解説を加えたいだろうに、かなり端折っていて、やや消化不良の感は否めない。

  でも、映像の力は強い。 きっかけとして概略を頭に入れるのにはとても良い。

今回は、初の政党内閣で任期中暗殺されるという非業の最期を遂げた原敬(はらたかし)。

そもそも、私は政党って何なのかよく分かっていない。選挙で代議士一人一人が選ばれるのになぜ「党」を組むのか???
「みんなで代表を決めて、その代表が集まって本会議で話し合って決めるんじゃないの?」と小学校の時は思っていたwww。(まあ、大枠その通りか、、)

明治維新から始まった近代国家は、当初薩長の藩閥が全てを牛耳っていた。
今とは逆で、選挙で選ばれた代議士による「衆議院」は「カヤの外」。実権は、貴族院、官僚、司法省全て薩長が抑え、そのドンが明治の元勲達で、これは死ぬまで永久入れ替え無しの「特別倶楽部」みたいなもだ。(それぞれに非業死を遂げてる人が多いけど)

この元勲の中で陸軍のドンだった「山県有朋」が、衆議院の最大政党である、「立憲政友会」の総裁(原)を、指名した所から政党政治は始まる。

  司馬さんに言わせれば「山県有朋如きはツマラヌ輩」と身も蓋もないが、権力闘争において政治的機敏を捉えるのに抜群のセンスを持っていた山県は、対抗勢力である、政党党首に表向きは政治を取らせ、実際に肝心な所は藩閥が握っていたと言う。

ただ、原も負けてはいない。貴族院の最大会派の党首に自分が兼任していた要職を渡したり、議席を増やす為に、選挙法を改正して参政権資格に必要な納税額を下げ、地方のインフラ整備を積極的に行って、それまで、立憲政友会が取れなかった地区まで、ドンドン手中に納めてゆく。この下り、戦後の自民党と変わらないなぁと思う。

  肥大化した組織はやがて、目が届かなくなり、汚職が横行。国民の為に政治が成されていないと世論が傾いて、最期は首相暗殺という非常手段に行き着いてしまう。

  原の死と前後して、山県も亡くなり、元勲の生き残りである西園寺一人が、その後首相を任命(表向きは天皇に「助言する」という形で事実上指名する)し 二大政党の党首が交互に首相になる、、という流れになるのだが、これは前回放送の内容。。。

  次回はいよいよ、藩閥政治の回であるが、、これはいよいよ「跳ぶが如く」を読まねばならん時期に入ったのかなと思う。(判らなくなった時の司馬さん頼み)

  とりあえずは、読みかけの「成金(電子版)」(ホリエモン著)を読まねば。。

ブログ再開

何と四年ぶりのブログ再開少し余裕が出て来たので、読んだ本の感想を簡単にメモ書きして行こうかと思う。