2011年6月25日土曜日

さかのぼり日本史 昭和~明治 挫折した政党政治 第3回「もたれあう政党と藩閥」

さかのぼり日本史 挫折した政党政治 第3回「もたれあう政党と藩閥」

前回の放送から、さらに時代はさかのぼって、日露戦争後の「日比谷焼き討ち事件」から「桂園体制」と言われた「政党政治(西園寺公望)」と「藩閥政治(桂太郎)」が交互に政権を担った17年間の事を取り上げている。

私にとって、やっと「坂の上の雲」と時代が繋がって少し理解出来る範囲になった。「坂の上」の最後に、チラリと触れられる「日比谷焼き討ち事件」。
ポーツマス講和条約で日本は、ロシアから一切の賠償を得られず、それに不満をもった民衆が数万という単位で暴動を起こしたのだが、司馬さんはこの事件を境に、明治の「それなりに正直で賢明な時代(坂の上の雲を目指して登って行ってた時代)」が終わって、昭和初期の日本敗戦へ向って、大きく曲がり始めた起点ではないかと書いている。

番組の感想からやや脱線してしまうが、「坂の上の雲」でも、しきりに「資金調達」の事が書かれている。ともすると、名も無き明治の男達が、各自の持ち場で粉骨砕身する姿ばかりに目が行ってしまうが、司馬さんは全編を通し、いかに苦しい台所事情だったかをしっかり描いている。

陸軍は兵站を軽視する体質が災いして、満州の野でへたり込んで動けなくなってしまい、実際はこれ以上戦争が続いたらとても持ちこたえられないギリギリの状態だった。
目端の効いた海軍にしても、必要な軍艦を購入する最後の資金に苦慮し、山本権兵衛は思い余って、西郷従道に予算流用の相談をする。(「ああたと私、二重橋で腹を切りましょう」という有名な下り、、)

生糸とお茶ぐらいしか輸出出来る物は無く、農村では裸足で歩いているような駆け出しの国家が無理に無理を重ねて、国家予算の40%以上を軍備に費やした

これに耐えた国民も、相当なものだったと思う。その不満が、焼き討ち事件へと繋がったのだが、問題はその実情

「自分達の国家は貧しい。日露戦争もはっきり勝ったと言えるかどうか怪しい。今が停戦のチャンスなのだ。」

と正確に伝えるジャーナリズムも無かった、軍部も政府も内情を良く知っている癖に、不正直に群衆の方にピントを合わせた気分が出て来る。。と司馬さんは別の機会に語っている。

番組では、このポーツマス講話条約の少し前から、戦争遂行内閣である「桂(藩閥)」に民衆の不満を盾に、後の首相となる原敬(政友会のナンバー2)が「政権委譲」を引き換えに民衆を押さえる(静観して加担しない)という密約を交わしていた事が明かされる。
この焼き討ち事件の翌年から「桂園体制」が始まるのだが、桂(藩閥)は軍備拡張を、西園寺(政党)は今で言う公共事業の拡張を、それぞれにある程度譲り合いながら、持ちつ持たれつの関係を保って、安定した政権運営をして行く。

番組では、この期間は「政友会が政権遂行能力を養う期間だったのではないか。」と言う。明治維新を担った、薩長出身者が政治を行う時代から、農村の地主層が支える政党が政治を行う時代に、いかにも日本的に緩やかに渡されて行くプロセスだったのかも知れない。
しかし、この桂園体制が終焉するのは、危機的な財政難からだった。肥大する軍備に国家予算が耐え切れず、民衆の目が藩閥政治にアレルギーを持ち始める。。。「藩閥」という看板を下げて、陰から実行支配をした方が有利と見たのか、政友会に潜り込んで行く印象を持った。(だって、政友会の総裁で桂の後に首相になった山本権兵衛は薩摩閥だしね)

「日本人は外圧が無いと変われない。」

というフレーズをこの所、毎日聞いている気がするが、歴史を振り返っても、悲しいくらい日本人の思考の癖が見えて来る。
小さいお金にはシビアなのに、大きいお金にはどこか鈍く、とことん立ち行かなくなるまで、突っ込んで行ってしまう。
作った当時はそれで良かったけれど、いずれ不具合が生じてしまう事を見越して、仕組みのバージョンを上げない融通の効かなさ、、。

歴史を学ぶという事は、自分と自分の国を見つめるのに、非常に有益だなといつもながら思う。

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