2012年5月26日土曜日

アゴラ読書塾Part2第7回「東條英機と天皇の時代」保阪正康著 〜凡庸な独裁者?〜

読めば読む程、東條英機は誰の中にも居ると思う。
近代史の研究や著作と言えば、保阪氏の名前は必ず出て来る。これまで、半藤氏は読んだ事があるが、保阪氏は初めてなので良い機会だった。
単行本の上下巻を一冊にまとめた文庫版なのでとても分厚いが、前々回の「地ひらく」(福田和也著)と同時代を、東條を中心に描いているので、昭和初期の重層で複雑な状況がよく判る。(今回の読書塾はボリュームの多い物が続くので、咀嚼力が鍛えられる!)
レポーターの阿部氏はいみじくも、東條の『作られた時代』『利用された時代』『捨てられた時代』」と表現した。
彼はまさに時代に翻弄されてしまった人物で、この浩瀚(こうかん)な書物はそれを浮かび上がらせている。


偉大な父を持つ息子
本書は、東條家の成り立ちから始まる。盛岡藩に請われて東北へ能楽師として赴いた東條英機の曾祖父の代から同家の苦悩は始まる。支援者である当主の失脚や、維新の煽りを受けて没落した家から、英機の父である英教(ひでのり)は活路を見いだそうと、18歳で単身東京へ出て来る。(明治6年)
当時出来たばかりの「陸軍教導団歩兵科」に入って、一軍曹から軍歴を積み上げた叩き上げの人である。
明治と言えば「薩長閥」の時代。賊軍側とされた東北藩出身者は栄達の道は厳しく、英教が学んだ教導団は「士官学校」や「兵学校・兵学寮」よりも低く見られていた。
後に創設される「陸大(高級指揮官養成目的の大学)」の第一期生に教導団出身者からたった1人選ばれ(陸大一期生は総勢14名)卒業時には「成績一番」、軍人としての能力が最優秀であると証明する「参謀職務適任証書」の第一号という輝かしい「不滅の金字塔」を手にした人物だった。
この英教が、山縣閥が牛耳る陸軍内で、順調に出世を重ねるのは難しかった。実力一つでのし上がった彼は、あろう事か山縣に面と向かって、陸軍の人材登用の長閥偏重傾向に苦言を呈して左遷人事の憂き目に合う。
それでも、英教の才能を愛する先達や後進もそれなりにいて、冷や飯を食いながら、そのルサンチマンを息子の英機に注ぎ込んだ。東條にとって、父は物心つく頃から眼前に立ちはだかる偉大な岩だったのだろう。
東條は、両親にとって三番目に生まれた男の子で、上二人の兄は一歳の誕生日を迎える前に夭折している。石原莞爾の時も思ったが、明治期の乳幼児の死亡率の高さには驚かされる。生まれた子どもの半数以上が5歳前に死んでしまう(出典:「歴史人口学で見た日本」清水融著)のだから、現代とは随分死生観が違うだろうと思う。山縣有朋の子ども達も、成人出来た娘が一人というのだから、親の貧富に関係無さそうだ。

父親が果たせなかった思い、夭折した兄達の代わり、その重たい想いを生真面目に受けて育った東条英機に、痛々しさを感じるのは私だけでは無いと思う。
学校ではそれほど成績優秀で無く、ただただ「暗記」する事で何とか期待に答えようと必死に努力した。同時代の石原莞爾が「楽勝」で通過していく痛快さと比べると、後に満州で「上官(東条英機)」「副官(石原莞爾)」という微妙な関係で、互いに蛇蝎の如く嫌い合うのもしかたないと思えて来る。
「努力の人」vs「天才肌」は古今東西「上手く行かない組み合わせ」の典型で、小さな組織の中でやり合っている分には、周囲に格好の「酒の肴」を提供して他愛も無いが、影響が大きくなると笑い事では済まされない。

そもそも、東條英機と日本の不幸は
「このような、努力型で定見の無い凡庸な人が、軍人になるしか道が無かった。」
というオプションの無さにある。
「凡人がトップに立ててしまう日本の制度設計の欠陥」
が本書の最も訴えたい事であり、今回の読書会のテーマでもあった。
もし仮に、東條英機が軍人にならなかったとしても「第二の東條」が同じようにトップに押し出されてしまったであろう。
日本的組織の構造は、そんな性格をはらんでいる。歴史はそれを教えてくれていて、単に「戦争は悲惨だから止めましょう。」と表面的な事をなぞっていては本質を理解出来ない。
「戦争から学べるものは、意思決定の在り方なのだ。」
池田信夫氏の言葉は重い。


投げ出された権力の空白
東条英機は日米開戦時の首相であったが、彼は自発的に戦争を望み、権力の中枢にありたいと、のし上がったわけでは無かった。 言わば「たまたま」そこにハマってしまった感が強く、前政権の近衛文麿がもう少ししっかりと、国の舵取りをしていれば、、とか、陸軍のエース永田鉄山が惨殺されていなければ、、とか、数々の不運が重なった上に「危険な賭け」として「東條陸相を内閣総理大臣へ」というカードが切られた。

当時の大日本帝国憲法下では、総理大臣への指名は表向き天皇からの「大命」という形で下され、誰にすべきかは「明治の元勲(元老)」達の推挙によって決められて来た。
最後の元老、西園寺公望亡き後は、内大臣を務める人間が「何となく」その任に当たっている。そもそも「内大臣」は明治政府が発足した時に、功労者であった三条実美(お公家さん)の処遇に困って作られた「後付け的ポスト」で「天皇の相談役」という曖昧な役割だった。
それがいつしか「天皇への取り次ぎ」という性格を帯び、明文化された権限を持た無いのに、重要な役割を担って来る。

「東條の首相指名」に動いたのは、当時の内大臣木戸幸一(明治の元勲、木戸孝允の係累)が深く関与している。
東條は天皇への忠誠心が篤く彼が首相になれば、何かと「陸相現役制(陸軍大臣は現役武官が務めなければならない制度)」を盾に辞任をちらつかせて倒閣をほのめかす陸軍を牽制出来ると考えた。(昭和天皇はこの策を「虎穴に入らずんば虎児をえずだね。」と微妙な言い回しで誉める)
木戸は終世「自分が考えて天皇に進言した。」と繰り返していたが、作者の保阪氏はこの証言の裏に「昭和天皇の強い関与」があったのだろうと推測している。 池田信夫氏も「昭和天皇独白録」は非常にはっきりと関係者への好悪が語られていて、面白いと語る。

理系で生真面目な昭和天皇は、これまた事細かに報告をし、数字を諳んじる東條の事を信頼していた節がある。それまでの、陸相はいい加減に言い繕ったり、前に報告した事と辻褄が合わなかったりで、天皇は陸軍に対し不信感を持っていたが「東條なれば」とやや期待していたのかも知れない。その期待を震える思いで受けた東條は、その後、目も当てられない振る舞いへと転げ落ちて行く。

そもそも「与えられた仕事を正確にこなす」だけが得意な人間が、自分の能力を越えた権力を無自覚に握ってしまうと恐ろしい。
憲兵隊を手足のように使い、自分への不満分子がどこに居るのか猜疑心の塊になって探し出し、片っ端から検挙したり左遷したり、潰してまわる人事を断行し始める。
物資の枯渇が目に見えているのに、無謀に始めた戦争を「精神論」「英霊に申し訳ない論」で、ただただ時間を空費して最悪な状況へと押し流してしまう。
戦争が上手く行かないのは「作戦本部の怠慢」と、果ては参謀総長まで自分が兼任すると言い、強引に通してしまう。1人が多くの役を兼任しだす組織は末期的だ。
酷いエピソードは枚挙にいとまがないが、結局周囲に不満が蔓延し「東條外し」が画策され、東條は辞任へと追い込まれる。

詳細に見て行くと、ドイツのヒトラーやイタリアのムッソリーニとは随分違う。確かに、最悪期は非人道的な独裁者の感も否めないが、「確固たる思想(一歩間違うと危険な)」があって行動しているというよりは、ねずみが袋に入り込んで「わけが分からなく」なっている印象が強い。それを周囲は判っていながら、誰も何も出来無くなる。東條の向こう側に透けて見えるのは
  • 優秀な人材を潰しにかかる(主君押込
  • 小利口な人間は中心からすっと身を引く(強い中間集団)
  • 中心あるいは頂点を「空」にしておいて、責任の所在を不明確にする
という日本的集団の特徴だ。あの戦争ではこの特徴が最悪の結果を招いてしまった。

自分が受けて来た教育を振り返っても、この本質を学んだ記憶が無い。。。最も社会生活を営んだ事が無い学生時分に聞いても、実感を伴わないから、右から左へと忘れてしまっただろう。つくづく思うが、現役真っ最中に内省する事の大切さを最近強く感じる。


東条英機と石原莞爾の共通点
、、、などと言うものは無さそうに思うが、二人の伝記を読んで一つだけ、気になったのが、共に兵士に対する愛情の注ぎ方である。この場合、軍人として専門教育を受けた将校達では無く、徴兵された一般兵卒の事だ。

石原莞爾は晩年「兵は神だ」という深淵な言葉を残している。人の命を預かる将校は、これを心しなければならないと言いたかったようだ。
自分の連隊を持った時、微に入り細に入り、兵士の生活に心を配る姿は、東條にも見受けられる。最も、東條は石原ほど崇高な考えがある訳では無く、もっと素朴でプリミティブな感情に突き動かされていたようだ。
水と油ほどに違う二人が、共に心を砕いた「兵士=一般の人々」の存在はどんな意味があるのだろう。

二・二六を起こした青年将校達もそうであったが、日本人は「他者の感情」と「自分の感情」との隔てが薄皮一枚しか無い。
ヒリヒリと痛みや喜びを、センシィティブに感じ過ぎてしまうのは、この目まぐるしく変化する気候が育んだものなのだろうか?(山本七平曰く)
日本人は「いつものおなじみさん」が顔付き合わせて永く暮らして来たからか、 集団が大きくなり過ぎると、どうして良いのか判らず、結局「村の寄り合い」方式が通用する範囲に集団を小分けにして、それらが強い自律性を持ちはじめる。

この特性を理解しないと、どんな借り物のシステムを移植しようと思っても、結局根付かないのではないかと、最近気が付いた。

村落からこぼれ落ちてしまった労働力を、大正期の工業化が吸い込んで、安い大量の労働力として、戦中/戦後の復興期を支えた。(兵隊として、工場労働者として)
そこで使われたシステムは、軍隊でも工場でも、案外村落の共同体で育まれた意識とさほど代わりは無さそうだ。
そう思うと、最早「安い労働力」では海外の生産拠点に太刀打ち出来ない昨今、日本の産業構造はどうやって生まれ変わったらいいのか、改めて問題の難しさに立ちすくむ思いがする。

歴史のIF
「歴史に『もし』は許されない。」のだが、最後に少しだけ歴史の ifを夢想してみた。

東條英機がもし軍人にならなかったら、、、今ならさしずめ、メーカーの工場長だったろう。現にご子息は戦後、三菱重工業でYS11の設計プロジェクトを率いたエンジニアだ。緻密で手続き主義で、コツコツと精緻に積み上げる資質は、工業の世界でこそ遺憾無く発揮出来る。このタイプは、メーカーの「生産ライン設計管理」とか「品質保証管理」とかがぴったりで、間違っても総務や法令部門に行かない方が良いと思う。(総理大臣に座った時の東條の資質が出てしまい、社内は疲弊しまくり!!)
結局、戦争は回避出来なかったとしても、彼はもっと有意義な人生を送れたのではないかと思えてしまうのは、それだけ「東條英機」の中に我々自身を見いだしてしまうからだろう。

もう一つのifは、永田鉄山の暗殺が阻止出来たら、、だ。永田の事はまだよく勉強していないので、何とも言えないが、池田信夫氏も
「誰がどうみても次期陸軍大臣。」
と目された人物が、派閥抗争の末に惨殺されるというのは尋常では無い。
それだけ、時勢が不穏だった事を意味しているのだが、彼がどんな事を考え、存命だったらどう舵取りをしたのか、NHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向ったのか」でも
「永田さんが生きていたら、あんな事にはならなかった。」
としみじみ証言者が語るのを聞くと、一時じっくり読んでみたいと思う。

さて次回は「高橋是清」
またまた、レポーターの役を仰せつかったので、大急ぎで読まなくては。経済音痴の私としては、どうしてもこの人は理解したい人なのである。来週を乞うご期待!

2012年5月20日日曜日

アゴラ読書塾Part2第6回「森のバロック」中沢新一著 〜南方熊楠 博覧強記異色の天才〜

24歳渡米した時のポートレートを元に作画。驚く程イケメン! 
毎回「噛みごたえ」たっぷりのお題本な読書塾であるが今回も、ひえぇの本である。池田信夫氏曰く
「そんなに難しいかなぁ、この文体は格好付けてるだけですよ。」
とサラリ言ってしまうのがさすがである。

著者の中沢新一氏は「チベットのモーツアルト」を1983年に発表して、メディアからは「ニュー・アカデミズム・ブーム」ともてはやされたらしい。
「チベットのモーツアルト」というタイトルを何処かで見たなと思ったら、うちの書棚に昔からあった本だ。夫の学生時代の荷物にあったもので「内容を覚えてる?」と聞いたら、
「全く覚えて無い。何が書いてあるのかさっぱりわからんかった。当時はあれでも読まないとインテリとは認められないから、格好付けてみた。でも、挑戦しただけエラいだろ。」
とのたまったので、なぁーんだみんな同じジャン!とホッとする。
色々な意味で80年代っぽい感じの書物だ。(「みんな、当然こんな単語知ってるよね。」の前提でバンバン学術用語が説明無しに続くので、辞書をひかないと文意をあっという間に掴み損ねる。)

とにかく根性で読通した感想は、文字だけで表現するとわかりにくいもの(例えばビジュアルとかミュージックとか)を無理に文字で表現していると感じた。なので、今日のエントリーは出来るだけビジュアルを沢山援用しようと思う。


南方熊楠の不思議
2012.05.18Google Top ページより。熊楠生誕145周年
熊楠(くまぐす)をどこで知ったのか、何かを読んだ時だったと思うのに、それが見つけられずちょっと気持ち悪い感じである。この「いつの間にか知っていた。」というのは熊楠らしい。読書会をした日が生誕145周年というのは恐るべき偶然だ。
彼の人となりを、池田信夫氏のブログが端的に語っているので、詳細はそちらに譲るとして、この「森のバロック」から受けた印象をいくつか述べたい。


大樹の子 熊楠
熊楠は、慶応三年(1867)江戸末期に生まれ、昭和16年(1941)日米開戦の年に亡くなっている。命日が12月29日なので真珠湾攻撃の報を聞きながら亡くなったのだろう。見事に時代の節目から節目へと生きた生涯だった。それなのに、この時代の王道とされた「末は博士か大臣か」のエリートコースからは早々に見切りを付けてドロップアウトしている。
大学予備門に合格し、同期生には正岡子規や夏目漱石らが居て、それだけでもとんでもない事なのだが、学校が大嫌いで二年後には中退してしまう。
父親に懇願して、私費でアメリカ留学をしたのを皮切りに、キューバからロンドンへ渡る。途中、恐慌のあおりを受けて実家からの送金が滞り、時にジプシーと一緒に放浪したりもしたそうだ。語学のセンスが良かったのか、先々の言葉を会得して18〜19カ国語も操れたというのだから、恐るべき頭脳の持ち主だ。雑誌ネイチャーへの論文掲載(池田氏によれば『コラム的』性格の論文だったらしいが)記録はいまでも破られていないらしい。
NHK「日本人は何を考えてきたのか」より
丁度、今年の一月に「日本人は何を考えてきたのか」という地味ながら興味深い番組が放映されていた。その中で熊楠が取り上げられている。(左図)
 田中正造と合わせた扱いだったので、内容はやや薄めになってしまうものの、熊楠が終世暮らした和歌山県田辺の映像もあり、直筆の書簡が紹介されたりもして、熊楠入門にはうってつけだ。
熊楠は「エコロジー」という言葉を初めて日本に紹介した人物とされているが、彼の言うエコロジーとは
「自然と人類は一帯のシステムである。」
というものだ。ともすると「守らねばならないひ弱な自然」と思いがちな昨今のエコロジー感とは随分と違う。本書「森のバロック」の冒頭に印象的なエピソードが紹介されている。
「(熊楠が)四歳で重病の時、家人に負われて父に伴われ、未明から楠神へ詣ったのをありありと今も眼前に見る。また楠の木を見るごとに口に言うべからざる特殊の感じを発する」(「南紀特有の人名」)
モチーフが宮崎アニメを彷彿させた
熊楠が生まれた南紀州の故郷では、楠の巨木をご神体に祀った神社があり、重篤な病を患った熊楠が、巨木に平癒してもらおうと、願掛けに連れて行かれた時の様子である。かれの「熊楠」という名前も、この御神木から付けられている。この話を聞いてすぐに思い出したのが、数年前に話題になった、映画「アバター」である。
「樹木に平癒してもらう。」
というモチーフは、映画後半のクライマックスに出るシーンだし、さらに踏み込むならばこの映画全体が、日本の「宮崎アニメ」の影響を色濃く受けていると感じた人は多いだろう。
(Googleで「アバター/宮崎アニメ」と検索するとわんさか記事が出て来る)



大地と人間は決して切り離せない、聖なるものも、俗なるものも、それは全てが渾然と一体化している。。
と熊楠は言いたかったのかと思うが、そもそも、陳腐な言葉の羅列ではとても太刀打ち出来ないのが、自然なのである、、と感じた。


南方曼荼羅
熊楠が記した「科学的方法論の曼荼羅図」
この、書き損じのような「ぐちゃぐちゃ」っとした図が「南方曼荼羅」と言われているものだ。何だかさっぱりわからないというのが、本音であるが、本書の中で熊楠が唯一「まともに結論まで書いた論文」として紹介されている「燕(つばめ)石考」の解説と合わせるとやや理解出来る。(第三章:燕石の神話論理)
この部分だけは、他の章よりも読み易く面白かったので、おすすめである。

南方曼荼羅は、多数のコード軸(思考の軸のようなもの?)を複雑に組み合わせて、その間に生ずる「類推(アナロジー)」を使って大きな変換体系を作ろうと試みたらしい。

「燕石」という燕が巣の中に持ち込む石に関する、言い伝えや神話/伝説とそれに関係しそうなエピソードを組み合わせて、次々と話が縦横無尽に展開して行く。
  1. 燕がある特定の石を海辺から運んで、その中にしまっておく。
  2. その燕石は、ひな鳥の目の病気を直す力を持っている。
  3. 燕石を身につけた女性は、安全に子どもを出産出来る。ほかにもこの石にはいろいろな医療効果をもつ。
  4. 燕は「燕草(草の王:セランダイン)」と呼ばれる植物を使って、子燕の眼病を治す。
  5. それとは別に「石燕」と呼ばれる民間医療用の石がある。これは実際にはスピリフェル種の腕足類の化石で、その形は燕の飛ぶ姿に似ている。この石は酸性の液体に入れると、生き物のように動きだし、まるで両性が愛の交歓を行っているようにみえる。
  6. 「眼石」と呼ばれる、眼の病気を治すための民間医療用の石がある。これは貝類の「へた」にほかならず、「石燕」と同じように、酸性液の中でエロティックな運動をする。
  7. 燕石は、鷲がその巣の中に大切にしているという「鷲石」とも深い関係がある。この鷲石も女性の出産を助ける魔力を持つと言われている。またヨーロッパの伝承世界の中では、鷲と燕は深い関係をもっていると考えられていた。
何だか、ちょっとづつは関係ありそうだけど、明確に因果関係があるとは言いがたい要素である。でも、それぞれが「おや?」と興味をひく「地下的な魅力」に富んでいないだろうか。(この話がどう展開していったのは、とても語り切れないのでごめんなさい。)

熊楠は、後に民俗学の権威とされる柳田国男とも、往復書簡で激しく議論をしている。
著者一流の小難しい言い回しで、かなり理解しずらいが、乱暴を承知で噛み砕いてみると、柳田は「民俗学の中から『制度』をあぶり出したい」と願い、「俗なもの(エロス)」を見ようとしなかった。熊楠は「それは違う。」と言い、むしろ「それが(エロスが)主たるものである」と言いたかったらしい。
彼の残した膨大な書き付けは、余白までびっしりと言葉や図で書き尽くされ、話は猥談をしていたかと思えば、いきなり難しい論文調のものになりと、脈絡無く続くと言われている。その有様こそ「自然なのだ」と彼は言いたかったのかも知れない。


誰も注目しなかった粘菌
熊楠が生涯をかけて研究を重ねた粘菌
そして、熊楠が生涯をかけて研究していたのが、粘菌である。(変換すると先に「年金」と出てしまうのが昨今の悲しさ。)
何と、昭和天皇もこのマイナーな生物「粘菌」の研究者で、熊楠が晩年、若き昭和天皇にご進講をした事は有名なエピソードである。(うる覚えだが、天皇の事を「おいおまえ」と呼び捨てにしたとかしないとか。。)
キャラメル箱に入れた粘菌の採取サンプルを110個献上し、周囲は「キャラメルの箱なぞ!」といきり立ったが、昭和天皇は「このままで良い」と不問にしたのもなかなか面白い。
本書では一部カラーページになって、粘菌の事が紹介されていたが、最近はもっと凄い図鑑があるのを発見!
表紙の絵を見ただけでもゾワッと来てしまうが、カラフルで様々な形態をしたこの生き物は、摩訶不思議である。
図鑑の中身はもっと凄いらしく、見た人は日本人ならば、知らない人は居ない、有名な作品を思い出すだろう。


風の谷のナウシカ(原作版)
熊楠を知ってもう一度読みたくなる。
本書を読んでいる途中から「これは風の谷のナウシカだ。」と直感した。映画版では無く膨大な時間を使って描かれた、漫画原作版の方だ。
特に、ナウシカで描かれた「腐海(ふかい)」はその描写が限りなく「粘菌」の様に近く、原作版では「腐海」は意志を持っているというような描かれ方をしている。
最近の研究でも、粘菌が迷路を最短ルートを使って餌に辿り着く実験がされたりして、なかなか興味深い)

映画では、尺の関係からその部分の描き方が弱く、「善悪の単純な二項対立」のように見えてしまうが、原作はもっと複雑で、物語の結果も深い。
(宮崎監督は映画版が非常に不満で、鈴木プロデューサーの目の前で分厚い台本を引き破ったそうだ)
借りて読んだので、手元に無くうる覚えであるが、クライマックスのエピソードは、熊楠が言う所の「エコロジー」とは何かを、真摯に捉えようとして、宮崎氏の筆が苦悩しているようにも思えた。
網野善彦の時も感じたが、この「メインじゃないグループ」(※)が持つパワーは、日本のサブカルチャーに多大な影響を及ぼしているとつくづく思う。

池田信夫氏も「熊楠とアートは親和性が高い。」とコメントされ、日本人のポテンシャルと言っていいのかも知れない。(構造的に弱い弱点はあるものの)
この不思議な、超人の事はまた考える機会がありそうだ。

※本郷和人先生(@diamondfloor41)曰く、網野善彦は中世学のマイナーどころか、最早メジャーだそうですが。。

2012年5月13日日曜日

アゴラ読書塾Part2第5回「地ひらく」福田和也著 〜石原莞爾 稀代の戦略家〜

兵力差20倍の状況で満州事変を遂行した戦略家
文庫上下巻でしっかりとボリュームのある書籍だった。1995年から2001年にかけて雑誌に掲載された作品で、石原莞爾(いしはらかんじ)を中心に明治の日露戦争から昭和の終戦までを描いた渾身の意欲作である。
「北一輝」のエントリーでは今ひとつ掴み切れなかった、当時の混迷する中国国内事情も丁寧に描かれ、合わせて読むと、20世紀の世界情勢を立体的に理解する事が出来る。


見過ごされたされた風雲児?
石原莞爾と聞いて「誰でも知ってる」とは言いがたいだろう。少しでも昭和史に詳しい人なら、当然知っている有名人であるが、歴史の授業ではまず深く取り上げられない。或は「関東軍の独走の先鞭を着けた問題児」という認識が一般的だったろうと思う。私もそうだと思っていた。
ところが、本書を読むと石原はもっと複雑で独創的で、色々な意味で日本人には珍しい逸材だった事が判る。
庄内藩(今の山形県)に生まれ、わずか13歳で仙台陸軍幼年学校に合格する。陸軍幼年学校は全国合わせて300人しかいない「超エリート集団」だ。著者は少年期の石原を
聡明というより、跳ねるように知恵が疾った。周りの大人が、その回転についていけないと、癇癪を起こすか、黙りこんで、それでも意を通した。
と表現する。抜群に成績はいいものの、ガリガリと詰め込むわけでなく、常に「一番」というわけでも無い。試験勉強で同僚達が必死で勉強していても、悠然と違う事をしていたり、とにかく「天才肌」である。(でも幼年学校は主席、最後の陸大は次席で卒業ですが)
服装も無頓着、何においても型破りだが、人懐っこい性格は友達の中でウケが良く、教官によっては「とても可愛がる」か「酷く嫌う」かのどちらかに分かれた。
この、色々な点で「他人の顔色を伺わない(今風に言えば空気を読まない)」天真爛漫な石原の気質が、後々いろいろな局面で微妙に作用する。

満州事変と支那事変(日中戦争)
「満州事変と支那事変(日中戦争)は大きくその内容が異なる」という事が、この著作を読んでようやく判った。一般的に
「満州事変は出先機関の『関東軍』が中央の許可無しに独自で事を起こしたものであり、中央は後からそれを追認する事になって、ここから軍部の独走が始まった。」
とされている。石原莞爾はその満州事変の首謀者だった。(→だから悪者/問題児 という図式)しかし、本書を読むと、実際の内容は極めて戦略的であり、勝算が成り立つよう、綿密に計画された謀略だった事が改めて判る。(事の正否はとりあえず置いておくとして。。)「それでも日本人は戦争を選んだ」の加藤陽子先生は「起こされた満州事変、起こった日中戦争」という表現をされている。

日露戦争の結果として、中国東北部(旧満州国)の権益を獲得した日本は、「満蒙は国家の生命線」などというスローガンのもと、国絡み(がらみ)で投資をしていた。(主に満鉄。全投資の85%が国がらみ:「それでも日本人は戦争を選んだ」より)この「軍も民間も一蓮托生」の状況が、巧妙な満州事変を可能にした下地となるわけである。
当時の満州には張学良率いる軍閥が兵力19万(本書では20万としているけれど正確には19万)で割拠していた。関東軍参謀として満州に赴任していた石原は、張に対する反乱を華北地方で起こさせて、反乱鎮圧の為に張が11万の自軍を率いて満州を留守にする状況を作り上げた。本書では
満州の場合、満鉄をはじめとする交通網、電信、電話などの通信、道路交通、そして金融、商業などのネットワークが、ロシアと日本の積年の投資によって、かなりの程度発展していた。そのために、日本軍は、交通と通信、経済基盤の大半を掌握することで、数としては圧倒的に不利であっても、敵側の連絡を寸断し、機能不全に追い込む事が出来たのである。(下巻p154)
と書かれている。著者の渡辺氏は、この「インフラ側の協力」が満蒙に対する「共通に持っていた夢」によってなされたように表現している。そんな側面もあったろうが、言うなれば「お膳立てが揃った状況」を見極めて決行されたとも言え、これは注目に値する。

一方、7年後に起きた支那事変(日中戦争)は全くその性格も状況も異なっており、「不拡大(これ以上戦線を広げてはいけない)」という方針を持って、石原は現地の関東軍を止めに行くのだが、皮肉にも
「あなたの行動を見習って、同じ事を実行しているのだ。」
と言い返えされ、沈黙してしまったとも言われている。
池田信夫氏は「悪しき下克上の先例を作ってしまった事が、彼の首をしめた。」と言う。

少し抵抗しては、さっと兵を引いてしまい、後退した先で「自給自足」で時間稼ぎをする相手方に「勝ちに乗じて」どんどん戦線を拡大するやり方は、補給路が長くなり、近代兵器が行軍するには必ずしも有利でないアウェイへどんどんハマり込む事につながった。
「泥沼の日中戦争」と表現されるのはそのゆえんである。

石原は第一次大戦後のドイツに留学し、なぜドイツが戦いに破れたのかを詳細に研究分析して「決戦戦争」と「持久戦争」という全く異なる戦略があると理解する。後の回想録で
「陸大では指揮官として戦術教育の方は磨かれて居りますが、持久戦争指導の基礎知識に乏しく、つまり決戦戦争は出来ても持久戦争は指導しえない」(回想応答録より)
と問題意識を持っていた事を述懐している。
石原にはクリアに見えている事が、周囲はなぜ理解出来ないのか、池田信夫氏は
「手段へのこだわりが強く、目的意識が希薄だから。」
と明快な言葉で解説する。

学校型秀才の問題の解き方
池田氏は「石原莞爾には演繹的に物事を考える能力があった。」と言う。世界的に見れば当たり前の思考方法だが「最終的にあるべき姿(目的)」があり、それに至る為にはどうあるのか、とさかのぼって考える資質はリーダーに欠かせないという。
ところが、当時(実は今も)の日本軍のリーダー達は、とりあえず、解き易い所から、手を付ける。
「このアドホックな物の考え方や進め方は、学校秀才型の問題の解き方だ。」
とこれまた痛烈な指摘をする。本書でも書かれていたが、全軍を統べる能力は、必ずしも陸大だけで育成出来るものでは無いと考えられていたが、ではどこで?と問うとそれを担う機関も無く、全てが陸大に集中してしまったと言う。
日本軍が代表する日本的組織の悲しさは、迷走する指揮命令系統に可憐に現場が合わせてしまう事にある。
しかも日本軍は日本的な組織の常として現場での対応にきわめて長けていた。他国の軍隊ならば、前進し得ない状況においても、日本の部隊は、自力で食 糧、資材、輸送手段を調達し、弾薬が枯渇すれば敵から奪い、あるいは手榴弾を石礫にかえて、戦い続け、前進し続けたのである。(下巻156p)
 何度この悲しいフレーズを聞いた事か、山本七平も司馬遼太郎との対談で、南方戦線の苦しい行軍の様子をこんな風に語っていた。
「ジャー ジャーとラジエータから水が漏る自動車なのに、兵隊の誰かが『木屑を入れるといい』と言い出すんです。そうやって一握りの木屑をラジエーターに放り込む と、それがやがて目詰まりの要領で穴を塞ぎ、水漏れが止まって、また自動車が動いてしまう。日本の現場はそうやって貧弱な装備をその場その場で、しのいで しまう。本来だったら動かないようなものまで、動かしてしまうんです。」
とにかく前進する事が目的化されてしまい、なぜこれを続けるのか、根本的な問いを考える事は許されず、目的よりも自動運動を維持する事に陥ってしまう。言うなれば「問題の先送り」で本当に進めなくなった所で、大組織全体が立ち枯れる。。。
何度かこのブログでも書いて来た事だが、いつまでもこの事を笑っていられないと最近はよく考えさせられる。

兵士に手帳を配る日本軍、アイスクリームを食べさせる米軍
池田信夫氏は「日本軍と日本企業の組織は不思議に似ている。」という。前回の読書会で取り上げた「失敗の本質」が今でも売れ続け「簡単解説本」も出ているそうだ。池田氏のブログアクセスも人気だそうで、私のブログですら時々過去のエントリーにアクセスがある。
会社に居ると「ああ、ここは軍隊だ。」とつくづく思うが、日本軍を詳細に見ると、まるで、双子のようだと思う。
「目的意識が希薄で、手段にこだわり、動機の純粋性に重きを置いてしまう。まるで美意識の為に生きているようだ。」
と常々、池田信夫氏は語る。この事と直接関わるかどうか定かでないが気になる事を聞いた。

今年の3月に日本国籍を取得されたドナルド・キーンさんのインタビュー(NHK100年インタビュー)をたまたま見ていた。
キーンさんは戦時中、海軍の日本語通訳として従軍した経験がある。運動が苦手で心優しき秀才のドナルド青年は16歳の時、偶然手にした「源氏物語」(英訳)によって日本文学を知り、以来ずっと日本の事を愛してくれている。
従軍時代キーン氏は、主に日本人捕虜の尋問(と言っても「ぬるい尋問官」だったそうで必要な事をさっさと聴いたら四方山話を沢山したとか)や日本人兵士が持っていた「黒い小さな手帳」をよく読んでいたそうだ。(その殆どが『遺品』として回収された物)
「日本軍は兵士全員に黒い手帳を毎年渡して日記を付けさせていた。だからそれを読めば情報が得られると米軍は考えた。米軍ではこんな物を支給して奨励するなぞ考えられない。なぜなら、そこから情報が絶対に漏洩すると考えるからだ。いかに日本人の中に『日記』を書くという習慣が根付いていたかを伺い知る事が出来る。」
とキーン氏は語る。へぇー日本軍はそんな物まで支給していたのか。とボンヤリ考えていたが「いや!まてよ。」と気が付いた。
「そういや、会社から毎年スケジュール帳を支給されてた事があった。」
今は廃止してしまったが、私の務める会社にも、昔手帳の支給があった。戦後振興の会社なのに90年代初頭まで律儀に全員新しい手帳を渡していた。私は殆ど使った事が無かったが、古参の先輩達はびっしり色々書き込んでいた。(廃止になってもしばらくは購買部で売っていたくらいだ。。いや、今も売ってるのかも!!)
「手帳の日記の殆どは、軍事機密情報など書かれていなかった。でもその記述の細やかさに心打たれた。中には巻末に自分の死を見越したのか、英文で『この手帳を拾った人は是非故郷に届けて欲しい、住所はここである』と仔細に住所まで書いてあったものがあり、私はこっそり自分の引き出しに隠して持っていたのだが、誰かが持ち物検査をしたのか、いつの間にか没収されて無くなっていた、それが今でも心残りだ。」
と98歳のキーン氏は語る。多くの戦死者が飢えで亡くなっている事を考えると「手帳よりも兵站だろう!」と突っ込みたくなるが、無い袖は振れない悲しさを思うと「せめて思いの丈をここに書けよ。」といかにも日本的帰結の現れのような気がしてならない。キーン氏は
「日本人は何よりも桜を愛するのは、その短く数日でワッと散ってしまうありさまに美意識を感じるからだと思う。」
と指摘する。多くの美しい花が日本にはあるのに、絶大な人気を誇る「桜」にこの国の人々が共有し易い「美意識」の特徴をキーン氏は鋭く指摘している。

一方、アイスクリームである。
これは、加藤陽子さんの著書にあったのだが、南洋諸島に送り込まれた守備隊が絶望的な戦況にあった時、上陸したアメリカ軍がごついマシンを続々と陸揚げしていた。
ジャングルから偵察していた日本軍は、どんな秘密兵器なのかと戦々恐々としていたが、実は「アイスクリームメーカー」だったという笑えない話。
「アイスクリームを兵士に食べさせる余裕がある国なのか、、これはとても叶わない。」
一兵卒ですら理解出来た、と証言した人が居たそうだ。

合理的で無いと下々までわかっているのに、催眠術にでもかかったように「総崩れ」を止められないこの病理は何なのか。根は深い。

本当は他にもいろいろ書きたいエピソードがあったけれど、最早長過ぎるので、今回はこれまで。はやり昭和史は奥が深い。次回の読書会は「知の巨人:南方熊楠」軍人さん続きだったので、またまた楽しみである。

2012年5月3日木曜日

アゴラ読書塾Part2第4回「山県有朋」伊藤之雄著 〜愚直な権力者の生涯〜

「椿山荘」は山県が造園プランをデザイン!庭作りの名手だった。
偶然にも、この作者(伊藤之雄氏)を直接観た事がある。昨年の「司馬遼太郎賞」の受賞者(「昭和天皇伝」が受賞)として、菜の花忌シンポジウムで受賞スピーチをされていたのだ。物好きな私は、白髪頭だらけの会場でひと際「浮きまくり」ながら、伊藤氏の話を聞いていた。
今回、お題本に取り上げられた「山県有朋」は歴史研究家としての伊藤氏が、丹念に一次資料を追いながら、山県の生涯を追った自伝である。新書なのに厚さ2cmもあって手に取った時は驚いた。
歴史研究とは、出典元を厳密に明記するのが常識らしく、この本も3分の1以上は文中の「引用」に字数を割かれている。「信用出来る文章である」と証明する為だろうが本文に引用元が書かれると、読み易さの点で確実に足を引っ張る。「※印」で本文外にまとめる方法もあるが、これもチラチラ気になって読みにくい。専門家なれば、引用を上手に飛ばしながら文意を掴むのだろうなぁと、凡才な私はノロノロと読み進めた。
この伊藤氏の地道で愚直な仕事ぶりが、そのまま「山県有朋」の人生のようで、非常に好感が持てる書物である。


怜悧な長州人で戦下手
「長州人は怜悧である。青臭い書生達が集団で奮興し、維新の原動力になったようなものだ。」
と、司馬さんは色々な所に書いている。確かに「長州」と「薩摩」はあらゆる面で対照的である。この「山県有朋」の中に印象的なエピソードがあった。
西郷隆盛が政争に破れて下野し、鹿児島で氾濫を起こした「西南戦争」で、山県は新政府軍を率いて九州へ鎮圧に向う。熊本城の手前で苦戦を強いられた時、薩摩出身の黒田清隆が別働隊を組んで背後を突き、戦局を動かした事があった。山県のすぐ脇に居た大山巌(西郷隆盛の従兄弟)も、山県は正攻法ばかりで「これじゃ埒があかない。」と思っている。(意訳)
この事で「ああ山県は戦下手(いくさべた)だなぁ。」と感じた。後に陸軍の最高位に着く男なのに、、である。これ、日本組織の典型と言えないだろうか。

この著書を読むと、西南戦争は「薩摩vs薩摩」だった印象がある。実戦では薩摩隼人の方が、戦局の変化に対する機転の利かせ方が早く、結局、新政府軍側の薩摩人達が局面を打開する働きをして、長州人は「こうるさく」計画や理屈を周囲に述べたてるので煙たがれている。。。
明らかに「官司タイプ」で、平時の運用ではアドミニ能力を発揮するだろうが、発想と実行力が必要とされる戦時では、薩摩型の方に分があった。本書を読み進めて行くと、山県の晩年にその苦悩が読み取れて来る。

少し横道に逸れるが、維新当時は「薩長」と並び称された実力藩だったのに、徐々に薩摩系は「二番手」に転落して、今や陰も形も無くとろけて消えてしまった。長州系は現在でもその系譜が残っているのにこの差は不思議だ。(戦後の岸信介/佐藤栄作、最近では安倍晋三元首相もですね。)これは、薩摩型リーダーは人工的に作られたからだ、、と、司馬さんは言う。
自分は何もわからない。だから第一人者に全て任せる。横槍が入らないように周囲から守るのが自分の仕事で、最後の責任は自分が取る。
というのが、薩摩型リーダーの典型で、今でもビジネス書では理想型とされて人気がある。そして、理想だから居るはずがないのだ。
なぜなら、「そうあれ」と意識的に育成しなければ、こんなリーダーは育たないから。。

薩摩藩では「郷中教育」と言ってある一定の年齢(ローティーンからハイティーンまで)の若者男子が地区単位で集まり、その集団が育成を担ったそうだ。西郷隆盛なぞは本来引退すべき年齢(20代中頃)になっても、後輩達に請われて永く「組かしら」を務めていた。そして、リーダーになる事を「ウドさぁになる。」と表現したらしい。「ウドの大木」のように、意識的に自分の才気を押し込め、凡庸な外見を演出せよ、、と、教え込まれる。
維新で郷中教育は跡絶え、その申し子達が明治年間までは残っていたが、在庫が切れると同時に、この型のリーダー達も消えて無くなってしまったという事らしい。

この点から考えても、日本の組織は放っておくと「凡人万歳」に自動修正する癖があるのかと思いたくなる。困った時は「薩摩的突破力」を頼みに利用するが、基本は「長州型管理力」にどうしても傾きがちだと改めて思う。


盟友伊藤博文との関係
先の受賞スピーチで著者の伊藤氏は、伊藤博文と山県有朋の事にも触れている。
『坂の上の雲』には伊藤博文や山県有朋は殆ど出てきません。でも第二巻のあとがきの冒頭で伊藤に触れています。驚いたのですが司馬さんは、伊藤への非常に高い評価をしておられます。伊藤は現実的思考をもっていた、と。本文の中でも、伊藤は理想と現実が常に調和した人物だと書いています。(中略)同じあとがきのなかで、山県についての評価もしています。それは伊藤よりも低いです。しかし否定はしておられず、それなりに好意も示しています。伊藤と同じ現実主義者で、しかし伊藤にくらべ「多分に『思想性』があった」ということを、低く見ています。具体的には、日露戦争開戦に伊藤よりも早く傾いていったということです。この部分を読んだとき、私がかなり厚い伝記で書いた伊藤と山県の像とほとんど同じではないかと驚きました。(司馬遼太郎記念館会誌「遼」第43号より) 
会報誌を読んでいて同じ人だと気が付く!新書なのにこの厚さ!
池田信夫氏も、
「伊藤博文や、西郷隆盛が国民的に人気で『表の人』とするならば、山県有朋は『裏の人』。GHQでも解体出来なかった官僚機構を作り上げたのがこの人である。」
と説く。
伊藤博文は師匠筋の吉田松陰に「周旋家(しゅうせん:なかだち、交渉)になりそうだ」と評されただけあって、明るく社交的で語学に長け、非常にリアリストであった。初代内閣総理大臣になったのも「語学(英語)が出来る」という一押しで決まり、帝国憲法の草案に尽力するなど、華々しい経歴の政治家だ。
同郷の山県とは「政党」というものに対する解釈を巡って対立する事もしばしばあったが、若い時から山県が窮地に追い込まれると、伊藤は進んで手を差し伸べ「いざとなったら協調出来る、連帯意識を共有した仲間」であったようだ。
時勢を読むのに鋭い伊藤に比べ、山県は「その点が遅い」と著者は評している。時に、世界情勢に対して的外れな解釈を開陳して、その差が「伊藤の風下に立つ」事につながったりもするが、山県はあまりに意に介していなかったようだ。
根が真面目で用心深く、コツコツと積み上げて行くから、瞬時に理解出来なくともやがて情勢を理解する。そんな人物だったようだ。「政党」に対する理解が「伊藤に比べて30年遅く到達する」と著者は称しているのが、何とも山県らしい。


政党政治は何としてでも阻止する
山県の生涯は「政党には何としてでも実権は渡さない。」に貫かれている。作者の伊藤氏は
山県にとって、政党は、素人の政党員が専門の官僚が行う行政権を拘束し、国家に実害をもたらす存在である。(335p)
山県は陸軍に対する内閣(文官)の介入を、専門家に対する素人(政党)の関与とみて嫌い(p460)
と書いている。「専門家至上主義」とでも言おうか。愚直であるが故に、思い込んでしまうと徹底していて、伊藤博文が「公式令(陸海軍の勅令に首相の副署が必要とする)」を立案すると、これを骨抜きにする「軍令(陸海軍に関する勅令は担当大臣の副署のみにてOK)」を出すなど、この部分だけを見ると「陰湿」「狡猾」と捉われる。

池田氏も「霞ヶ関のスパゲティ」と称して、複雑で専門性が高く、自律的で、排他的な現在の官僚制度の問題点を指摘している。
政治任用を許さない「高等文官制度」を作ったのも山県である事を考えると、色々な点で彼の後世に与えた影響は大きい。ただ、著者の伊藤氏は最後の章でこうも書いている。
一般的に、集団や組織の継承者がその創設者たちの精神を忘れ、あるいはそれを古いものだと否定して、勝手に行動するのは歴史上よくあることである。むしろ、新しい状況下に、創設者の精神の真の意味を再解釈しながら、集団や組織を発展させていった例の方が少ないと言ってよい。太平洋戦争への道は、山県陸軍から必然的に導きだされたのではない。むしろ、山県の死後、山県の陸軍への理想や精神を忘れた陸軍軍人たちが、山県の作った陸軍の組織や制度・権力を都合良く解釈して利用し、太平洋戦争への道を作ったのである(p462)
実質的に中心が無く、明文化されていない「元老(明治維新の功労者達)」という組織が運用面でバランスを取る前提のシステムは、「元老」の資質に左右される点で危うい仕組みである。山県の後半生で上手に後継者を育成出来ない悩みの下りを読むと、現代にも通じるものを感じる。


曲解され続けた山県像
軍と官僚を「山県閥」で徹底的に掌握し「専門家による賢い国家運営」を山県が目指したとするならば、その系譜は今でも生きていると言える。
、、がしかし、著者の伊藤氏は「山県はそれだけの人物では無かった」としている。それは、あれほど毛嫌いしていた「政党の領袖:原敬」に一目置いているからである。
自分は後継者育成にも励み、桂・寺内や清浦ら少なくない人材を育ててきたつもりであったが、結局は単なる能吏(のうり:事務処理に優れた役人)ばかりだった。真に気骨があり、頼りになる者は育成出来なかった。田中(陸相)や田健次郎(台湾総督)もそれなりの人材だが、原ほどになれるのかどうか、確信が持てない。後継者育成の点でも、結局自分は伊藤博文にはかなわなかった。(p448 注釈筆者)
原敬に関しては以前「さかのぼり日本史」のエントリーで書いた事があるが、山県ですら「敵ながらあっぱれ」と思わせる力量の持ち主だったのだろう。首相任期途中で暗殺されるという非業の死を遂げて、この訃報を聞いた山県は非常に落胆したと側近が記録している。

愚直で心配性、用心深い自身の性癖を抱えながらも、伊藤博文や薩摩型の「開けっぴろげで大胆闊達な人々」にどこか惹かれる。そんな人物だったのだとやっと理解出来た。「国を思う」点では維新の英傑達と変わらず「志半ばで倒れた仲間への責任感」と著者は表現しているが、山県の生涯を語るに相応しい。
「雑誌を作ってみたかった」とか、造園にかけた情熱を思うと、違う時代に生まれていたら、コツコツと地道に何かを「作り上げる人」だったのかも知れない。良き職人達を沢山育てあげる親方タイプを想像すると「巨悪」と称される人物とは違う一面が見える気がする。

2012年4月21日土曜日

アゴラ読書塾Part2第3回「北一輝」渡辺京二著 〜早熟の思想家〜

病気で片目を失った隻眼の士だった
もう、、本当に難しいお題本だった。読み易いのは出だしの序章のみ。修辞が多くて苦戦した。(読書会の皆さんもそうだったらしい。)

「北一輝(きたいっき)」と聞いて「誰でも知っている」と、、なかなか言いがたい。私も知ったのはつい数年前である。

二・二六事件を起こした青年将校達のイデオローグ(思想の論理的指導者)であるとして処刑されてしまった人物だ。

もちろん、歴史の授業で習った事は無いし、映画「226」(1989)ではキャスティングすらされていない。ここ最近、殆ど映像化された事の無い人物だと思う(wikipadiaによると60〜70年代の映画では取り上げられている。)
しかし、池田先生は「福沢諭吉に匹敵する非常に重要な思想家である」としている。
本書を読んでも、未消化な部分が多く、細部までキチンと理解していない事をお断りした上で、読書会の感想をいくつか述べたい。

青年将校達を魅了した「天皇親政」と北一輝の「国家有機体説」
二・二六事件(1936)は、政争を繰り返して「何も決まらない」政党政治(※1)への苛立ちと、「君側の奸(くんそくのかん)打つべし!」(※2)という主張(昭和維新)を掲げた皇道派の将校(※3)が「天皇親政(天皇が直接政治をとる)」を求めた結果の、軍事クーデター未遂事件である。 
※1 世界恐慌による経済の悪化、農村の疲弊、不安定化した国際社会への対応が遅れた。
※2 天皇の側近達が、天皇を外界と遮断して道を誤らせているとして責める時の標語。
※3 農村出身の兵士達を直接指揮する部隊付き将校が多かったとされる。

ところが、この「北一輝」を読むと、北は「天皇親政」とは言っていない。
この点が非常に危うくアクロバティックな理論構築で、どうやら、青年将校達も内容をキチンと理解しないで、自分達が望んでいる「天皇親政」に近い考えと思い込んでしまったのだろう、、と、著者も池田先生も言う。
そして、それをわざわざ訂正するのでは無く、利用して最終的に目指すところへの「足がかり」にしようとするところが
「北一輝の天才的資質であり、リアリストなところだ。」
というのが、北を正しく理解するポイントらしい。

北一輝が何を目指そうとしていたのか、非常に難解で一口に言うのは難しいが、最終的には「国家社会主義」を目指したと理解出来る。
明治維新を「社会主義革命の道半ば」と規定し、これから最終的な「第二革命」が起きると考えた所に一番の特徴がある。そして最後には「国家有機体論」へつながるのだろうが、、これは、どうみても「天皇親政」には思え無い。。。簡単に図式化してみた。(下図)


北に言わせれば、最終的には天皇ですら「国家」というものの下に位置し、国民(彼は「基層民」と言った)も同じく国家の下にぶら下がる形になるらしい。。
「個が矛盾無く共同的関係にある。」なんて、何だか良さそうな言葉の響きだが、具体的にどんな状態なのだ?と思うと、なかなか理解しがたい。
「今の日本で『維新だ革命だ』と言っても、この当時程にはピンと来ないだろう。社会主義的な考えに人々が傾倒してゆく背景に、『貧困/貧富の格差』という要因を考える事は欠かせない。」
という見解は先日の読書会で一致していた。

知的権威の集まる所
池田先生がしみじみと言う。
「いつも思うのだが、『この人達にはかなわない!』という知的権威が集まる所、その集団がどこに居るのかで、国の在り方と方向性が決まり、世の中を動かすのだと思う。戦前は、それが圧倒的に『軍』に集中していた。」
これから予定している「石原莞爾」あたりはその代表だし、非業の死を遂げた「永田鉄山」もこの「図抜けたエリート」なのだろう。そして、次の見解もうなずける。
「革命初期は、過激で人々を煽る言動を吐ける一流のインテリが出て来るが、はずみが付いて回りだした中期になると『空気の読める凡庸な』牽引者が取って代わってしまう。。」
多分、このパターンはいろいろな所で繰り返されていそうだ。
確かに、石原莞爾は満州事変(1931)では「やりたい放題の問題児」なのに、その後、主張の対立から次第に中央から外されてしまう。もし、永田が相沢事件(1935)で惨殺されなければ、東条が首相になる事も無かった、、と思うと、あの戦争はもっと違う結果になっていたのではと、ついつい考えてしまう。

辛亥革命と大陸浪人
本書では、北一輝が中国の革命運動に13年もの歳月を費やした事も書かれている。熊本出身の宮崎滔天(※4)らと組んで、大陸に革命を起こそうとしている孫文の支援活動に関与している。
※4 元は自由民権派。著者の渡辺氏は「西郷隆盛の意志を継ぐ西郷党の申し子」と表現している。

折しも、昨年は辛亥革命から100年で、ジャッキー・チェン監督の映画「1911」が公開されていた。(観に行けば良かった!)それに関連して、NHKでも「辛亥革命」関連番組が放映されていて、なかなか勉強になった。
あの時代「大陸浪人」と呼ばれた人々が隣国の革命運動に随分関与していたらしい。(私財を投げ打ってバックアップするとか)
「『大陸と連帯して西洋文明に対抗する!』という割と素朴な主張の滔天達に、怜悧な北が心底共感したとは考えがたいが、いずれ自分達も経験するであろう社会革命と、イメージを重ね合わせて、ケーススタディとしようとしたのかも知れない。」と著者は解釈している。(原文はかなり難しいので意訳)
しかし、そんな北も共闘しようとしていた大陸の仲間の子どもを養子として引き取り育てている。(北大輝)
この頃の歴史を考える時、中国と日本の関係を全く語らずに理解するのは難しい。その割に切れ切れにしか自分は知らないなと改めて思う。

「魔王」ぶりの北一輝
後に北と袂を分かった大川周明(思想家)は北の事をこう書いていた。
「是非善悪の物さしなどは、母親の胎内に置き去りにしてきたやう」
手段を選ばぬ生活費の調達ぶりや、説得の為には口から出放題に弁舌を弄する「魔王ぶり」にこのままでは、自分が仏(ほとけ)と対する魔物になってしまうと感じたからだそうだ。しかし、そう言った上で
「別離の根本理由は簡単明瞭である。それは当時の私が北君の体現していた宗教的境地に到達していなかったからである。」
この「宗教的境地」の意味を少し説明すると、北は晩年(処刑されたのは54歳!)
革命は人為的に起こるのでは無く「天測:天のはからい」によってやって来る。到来した時には、少数の革命家集団が、その前髪を誤たず掴まねばならない。
と考えていた事に由来するらしい。なので、組織を作る事にも殆ど熱心で無く、「党思考」の強かった大川とは合わなかった。著者の渡辺氏は
「北は、資本家から金を引き出す時に、恐喝まがいの行動をシャアシャアとしているが、私事を革命事業と関連させて粉飾するような意識からは見事に切り離されていた。(逆に大川は芸者をはべらせながら「十月事件」の謀議をこらすなど、私事を公的に粉飾(『芸者は革命の必要経費』)しなければ気のすまないレベルだ。)」(意訳)
としている。この視点の鋭さは凄い。そして
「北は革命を売ったからだめなのではない。彼の一度も売らなかった革命が彼の「大義」であったからだめなのである。「大義」はニヒリズムを要求する。「権略(その場に応じた策略)」を要求する。「忍辱の鎧」を着る自己犠牲的な革命の行者は、同時に人間をいつでも踏みにじる覚悟のある「魔王」でなければならぬ。「大義」としての革命はかならずこのようなニヒリズムを内包する。この論理の必然のおそろしさを知らぬ戦後進歩主義の極楽とんぼたちだけが、自分はそのわなを抜けられるとおめでたくも過信するのだ。北は「大義」のとらわれびとであった。(文中注は筆者)
との一文を読んで、北が刑死を受け入れた訳がわかったような気がした。この事を理解するにはかなり骨のいることである。

北一輝が先取っていたもの
難解な著作なのだが、ハッとする内容が所々に書かれてなかなかに考えさせられる。
23歳の時(1906 明治39年)に書き上げた「国体論及び純正社会主義」の中で、民主主義革命の中身をこう規定している。
  • 25歳以上の男子普通選挙権
  • 8時間労働制
  • 婦人労働の平等
  • 幼年労働の禁止
  • 孤児・扶養者を欠く老人・身体障がい者の国家扶養
  • 義務教育の10年への延長
  • 生徒への教科書・昼食の無償給付
  • 遺産均等相続  等々
これは、戦後民主主義改革の殆ど全ての項目を先取りしていると著者は言うし、池田先生は、戦後の官僚達にもその考えは継承されていると言う。(北一派の岸信介がその代表)
ただし、女性参政権だけは認めておらず、その理由に
「政治なぞは人生の活動における小さい一部分でしかない。」(であるから、女性が口舌闘争を習慣にしてしまうと、その天性に害を与えてしまう。その天分を家庭と、芸術、教育、学問などの社会的分野で発揮した方がいい、、、という一種の女性崇拝感。)(意訳)
としていたらしい。著者もこんな一言が吐ける所に、北が他の革命イデオローグと一線を画しているとやや評価している。

本当に捉えがたい人物であるし、今でもよくわからないと感じているが、少なくともこれだけ骨太の文章を読むと、何でも物事を簡単に考え、読み易く、判り易いファーストフードな情報に走りがちだった最近の自分の軟弱さを改めて痛感している。(とにかく漢文調はもう外国語なみにわからん!で玄米ご飯を食べてるよう。。)
 アゴラ読書塾は、脳の負荷トレーニングとしては最高レベルではなかろうか。

さて、来週は「山県有朋」(出ました!)本の帯コピーが振るってる。
「不人気なのに権力を保ち続けた、その秘訣とは?」
楽しみである。

2012年4月14日土曜日

アゴラ読書塾Part2第2回「こころ」夏目漱石著 〜現代日本語の父〜

久しぶりにイラストを描いてみました。
永遠の名作、夏目漱石の「こころ」———。のレポーターをまた担当する事に。。。(^^;;
前回、
「次は、夏目漱石の『こころ』にしようかと思う。」
と池田先生が言われた時、思わず挙手してしまった。なぜなら、福沢諭吉と並んで夏目漱石は、日本の近代を語る上で、無くてはならない人物、、、らしいからだ。
『らしい』と付けたのは、これまでちゃんと読んだ事が無く、青空文庫でiphoneにもダウンロードしてあるのに、やっぱり最後まで読み通せない。これは良い機会だった。

遠隔地間のコミュニケーション
「昔は、『火起こし』と言って中継するにも、セッティングに多くのクルーと時間が必要だったものです。なのに、パソコンを立ち上げるだけでいいんだからね。」
と池田先生らしい発言(元NHK!!)
今回は、Skype越しのレポート報告までやってみた。聴く側にお聞き苦しい点もあったと思うが、やってやれない事は無いと実感。
ただ、現場に居れば、聴いている人達の反応が判るので、少しアドリブを入れられるが、遠隔だとそれが難しい。。このジャンル、もっと技術革新の余地がありそうだ。
例えば、会議室に据え置くカメラは360度回転で、発言者を追尾。ズームを利かせて表情をアップしながら、発言を拾うとか、、要は中継の時にカメラマンがする仕事をやるようになると思う。(要素技術はもうあるだろう)手元で書く図を大写しに出来れば、ホワイトボードの役目を果たすだろうし、そこへ別の人も書き込めれば、かなり面白い事が出来そうだ。
最も重要なのは、
好奇心旺盛で共通な関心事を持つグループに適正な価格で供給出来るか。
だろう。池田先生が紹介したように、統計では
「日本人は、職場が大嫌い。」なので、ただでさえ会いたくも無い職場の人間と、やりたくも無い会議が遠方まで追いかけて来るとなると、ゲンナリしてしまう。でも、共通の関心事を持つグループにとっては、安価に距離を縮める事が出来るのはなかなか面白い。大抵その場合は少人数なので、シンプルに必要な機能を盛り込んだツールはきっと望まれるに違いない。Appleあたり、電子教科書と一緒に新しい概念を送り込んで来るだろう。

ポジティブな福沢諭吉/ネガティブな夏目漱石
「こころ」の拙いレポートは、エントリーの後半に転記するとして、昨日の読書会で語られた、「近代化を迎えた時の日本人の自我」に関してメモしたい。

 前回の福沢諭吉もそうだが、夏目漱石もイギリス留学の経験があり「洋行組」として西欧諸国の文明の波にいち早く洗われた知識人であった。池田先生は
「それまで、存在していた『身分制度』が瓦解して、一個人が世間に放逐された時、ポジティブに捉えたのが福沢諭吉であり、ネガティブに受け止めたのが夏目漱石と言える。」
と言う。確かに先週の「福翁自伝」は明るく快活なのに比べ、漱石はいつまでも愁眉を開く事が無い神経質な作家に見える。
「『我が輩は猫である』や『坊ちゃん』あたりまでは、洒脱な俳諧精神に溢れているが、晩年の『こころ』から思弁的(経験に頼らず純粋な論理的思考だけで認識しようとすること。)になって行く。だが、後にも先にも漱石のようにテーマ性を帯びた作家は無く、大正期はチマチマとディテールを追った『私小説』ばかりで、名人芸を楽しむようなものだ。」
、、と、いつもの快刀乱麻ぶり健在である。
洋行組の常として、「日本はこのままではいかん!」と彼の国と比較した自国の有様に、大いに焦ってしまうわけだが、漱石の場合、
「欧米の近代小説(ディケンズやドフトエスキー等)に触れて、大衆が『個人の持つ自我』について語られた文学作品を持っているところに、衝撃を受けたのだろう。」
と池田先生は言う。
「ああ、そうか!それで漱石はロンドンで、心を病んでしまったのか。」
永年の謎がまた一つ解けた。辻馬車やガス灯や鉄道を見て、漱石が憂鬱になったのかと(大久保利通はそれで円形脱毛症になり、、)思っていたが、人は自分の最も関心の高いジャンルに鋭く観察を巡らす、、、。漱石の場合、それが文学だったのだ。当たり前と言えば当たり前だが、外国文学の歴史に暗い私にとって、また一つ蒙が開けて嬉しい。
「あの頃の知識人達は全人口の上位1%未満で、それも殆どが、官僚か軍人になっており、福沢や漱石のように、在野の知識人は極端に数が少なかった。漱石は過渡期の人で、だから『近代知識人』を演じているようにも見える。」
との解釈はなかなか面白い。池田先生が、この頃の人々に注目したのは、現代において、この時解決しきれなかった問題が、また突きつけられているように思うからだそうだ。
それまで、封建社会の身分制度の中で眠るように過ごした「個人」というものが、明治維新で丸裸になって放逐される。そのまま、個人主義の社会へと成熟するかに思われたが、大正/昭和と再び「ムラ」的集団主義の独特な社会(再江戸化)へ戻ってしまった。それが再び変わらざるおえない時期に来ている事を言っているのだ。

漱石が作った現代日本語
昨夜の読書会では、
「『こころ』の筋や設定はともかく、この漱石の文章によって『言文一致』の現代語が確立された。」
と、小説の内容よりも、そちらの功績に注目された。
実は、司馬遼太郎も晩年、漱石の事にたびたび触れ、同じ事を様々な所で、話したり書いたりしている。手元にあった「この国のかたち・三」に丁度良い一節があったので引用したい。
明治の文学の一特徴は、東京うまれの作家の時代であったことである。このことは、明治時代、東京が文明開化の受容と分配の装置であったこととかかわりがある。地方は、新文明の分配を待つだけの存在におちぶれた。
明治になって文章言語も変容してゆくのだが、その言語を変える機能まで東京が独占した。
ふりかえると、三百諸藩にわかれていた江戸時代、藩ごとにあった方言は、それなりの威厳をもっていたが、明治になって。単なる鄙語(ひご)になり、ひとびとは自分のなまりにひけめを感ずるようになった。
地方から出てきて東京で小説を描きはじめた者も、江戸弁をつかうとこにひるんだか、もしくは使えなかった。このために地方出身者はもっぱら美文(当時の用語として、文語のこと)で発表し、やがて東京出身の作家たちによって口語文章語が書かれはじめると、かれらの多くは小説を書くことをやめた。(中略)
それまで、英文学の先生だった夏目漱石(1867〜1916)がにわかに『我が輩は猫である』や『坊ちゃん』などを書きはじめ、いきなり評価を得た。
『坊ちゃん』にはなお式亭三馬のにおいがあったものの、世間は、口語の表現力のゆたかさにおどろかされ、あらそって読み、その文体を学ぼうとした。つまり漱石の文章日本語は社会にとりこまれ、共有されたのである。
その後、漱石の文体は『三四郎』以後落ちつき、未完の『明暗』で完成した。情緒も描写でき、論理も堅牢に構成できるあたらしい文章日本語が、維新後、五十年をへて確立した。(※強調筆者 司馬遼太郎『この国のかたち三』69「小説の言語」より)

最後に、昨夜のレポートを引用して今週のエントリーを終わりたい。
次週は「北一輝」。時代は下って激動の昭和初期に民間人で唯一、二・二六事件で処刑された、イデオローグを取り上げる。なかなか噛みごたえのありそうな人物である。


「アゴラ読書塾 Part2 『こころ』 夏目漱石著」レポート

明治に芽生えた自我と苦悩
恥ずかしながら「こころ」を通読したのは初めてである。高校の教科書に第三部「先生とK」の一部が掲載されて、それを読んだきり、やっぱり「古臭い」と思って全く読もうとしなかった。今回、長年の宿題が片付いた。
時代背景を知る為に、小説が連載された当時と作中の時間軸を年表に落としてみた。
「こころ」が描いた時期

この作品では、明治帝の崩御が描かれている。それを頼りに小説の出来事を年表にプロットすると、明治の終焉を起点に、「私」の目を通しながら、明治を生きた「先生」の生涯が、さかのぼって記述されている。
実際に、「こころ」が朝日新聞に掲載されたのも大正3年からなので、元号が変わった事を契機に、漱石は時代の変化を敏感に感じていたのだろう。
「私」は明治末期に青年期を迎え、来たる大正時代を背負って立つ新世代だが、「先生」に懐かしい親近感を覚えて接近する。
小説の冒頭、鎌倉の海岸で「会った事がある気がする。」と曖昧な動機で、ここまで「先生」に入れ上げるのは、今読むと不思議で、人と人との垣根が低い印象を持つ。

「先生」と「私」の年齢差がどの程度か不明だが、少なくとも20〜30歳差であると仮定すると、先生
がKに重大な裏切りをした時期———こころが壊れてしまったのは、明治13〜23年頃と思える。

日清日露の戦争前で、国の仕組みを大急ぎに整えていた頃だ。(先生の両親が相次いで、腸チフスで亡くなっているが、明治15年に腸チフスが大流行した事を思うと、明治10年代とも思える。)

「私」は「先生」のどこに惹かれたのか、小説からは何となくしか判らないが、明治の全盛期を牽引した世代に対する純粋な憧れかも知れない。
「先生」が「明るい成功体験」を体現している人物だったら、この物語は始まることが出来なかっただろう。
自信に満ちた明治世代なのに厭世的である所が、後の大正時代を先取りしているように「私」は感じたのかも知れない。

重層的に語られた明治
全編を通して、しばしば混乱したのが「私」と「先生」それぞれの郷里描写の既視感である。
地域が特定できないので、当時の一般的な農村の有り様を、描いたのかも知れないが、どちらも、愛郷の情を持ちながら、どうしようも無い田舎の鈍感さ、息苦しさに苛立ちを感じている。

「先生」は、本家の「跡取り息子」で鷹揚に育っているから、次男坊として育った叔父の「抜け目無さ」に気が付かない。
急逝した両親の財産を奪われた事を生涯恨みに思うが、騙しとられた残りの財産で「先生」は都会で仕事をせずに暮らせたのには驚く。
騙した叔父に視線を移すと、甥を騙してまで奪いたかった『本家』はまだ彼にとって「あこがれのステイタスシンボル」だった事が判る。
文明開化を経て、人々が開明的に考えるようになっても、まだ江戸時代の古い価値観が雑居している感がある。(都会で成功して田舎に錦を飾る意識がまだ強い)

一方、時代が下った「私」は、同じ田舎育ちでも微妙に調子が変る。大きな旧家を受け継いでも
「持て余して困る。」
と思って憂鬱でいるし、「私」の母親ですら、
「都会に出てしっかり稼げ。」
と息子達に発破をかける。
他家へ嫁いだ娘や、仕事に忙しい長男に、父親の臨終が近い事を知らせるのですら躊躇している様子は、もはや都会の求心力が田舎を圧倒しているとわかるし
「おたくは息子達みんな立派に大学を出た。」
と近隣の友人が、「私」の父親を羨むところに、時代の変化を感じる。
漱石は、この差を描く事で、揺るぎなく続くと思われた明治時代の終焉を描いたのかも知れない。

内面から溢れ出た自我に戸惑う
第三部の「先生とK」は初めて読むと、少なからず衝撃的だ。今日の感覚で言えば、
「そんな程度の事で。」
と絶句してしまう。

早いもの勝ちで、お嬢さんに先約を入れてしまった「先生」に、同じくお嬢さんに恋情を持ちながら、何も言わずに、友人Kは自死を選んでしまう。
それが原因で、「先生は」生涯を無為に過ごして、最後は自らも命を断つのだが、そこまで、考えを先鋭化してしまった二人の行動は、なかなか理解しがたい。懸命に想像してみたが、、、
『疑心暗鬼と自分本位の利己主義に駆られた先生』と『ストイックに自己の内面に邁進してしまうK』のどちらにも、時代の重い空気がのしかかっているようで、少し気の毒に感じた。
それまで守られていた「封建社会」という「おくるみ」が解かれ、厳しい環境にさらされ始めた、当時の人々の自我を表しているのだろうか?

今回、この部分を再読して思うのは、「お嬢さん(女)」は結局、トリガーでしか無かったという事だ。

見かけ上は、女を巡る三角関係に見えるが、お嬢さんは非常に「からっぽ」に描かれ、気の毒な扱いだ。生身の人間で無く、まるで「人形」のように感じるのだが、やはり、あの当時の青年達も、異性をそんな風に見ていたのだろう。
よっぽど、お嬢さんの母親の方が面白く、明治期を軍人の夫と伴走しただけの人物に思えた。


2012年4月7日土曜日

アゴラ読書塾Part2第1回「現代語訳:福翁自伝」福沢諭吉(斎藤孝:編訳)

噂のSkype。初めて使ってみて技術を実感。
「読書塾Part2は無理なので、、おしんは教室の外で、、。」
などと、未練たらしいブログを書いていたら、特別に遠隔授業の措置をアゴラ塾が取って下さった!春の「お別れ」シーズンなので遠隔地へ転勤しなければならないメンバーもあり、離れた場所からでも、東京開催の読書塾を受講出来たら、、という声に答えてくれたのだ。

東京の会場でカメラや接続のセッティングをして下さったメンバーには本当に頭が下がる。ニコ生やUstream等、個人がどんどんブロードキャストする時代になっているが、小さなグループ単位で時間を共有し合う事を、実際に体験出来たのは非常に大きい。

今日のエントリーは、そんな新しい体験も含めて感想を書いてみたい。

一万円札のご仁は破天荒な日本初の流行作家
「日本人とは何か」を人物から探るPart2。第1回目は誰もが知ってる「福沢諭吉」---。
最晩年に書かれた、口語体の自伝を「日本語であそぼ」で有名な斎藤孝先生が、現代語に訳してくれている。これは本当に読み易くて、あっという間に読めてしまった。

痛快な青春活劇で、これまで勝手にイメージしていた「福沢諭吉像」が少し変わった感じだ。慶応義塾の創立者で、もっとスノッブな人なのかと思っていたが、さにあらず。
「こだわり(価値観)」からものごとを峻別するのでは無く、あくまで自分が見聞きし、感じた事を徹底的に学ぶ「旺盛な意欲」に依って立つ人物だったと判る。
池田先生は
「これが、慶応義塾が追求している『実証主義』なのだ。」
と言う。価値観に惑溺(わくでき:ある事に夢中になり本心を奪われること)し、自分で自分の身を縛る危うさを、当時誰よりも切実に感じていた人物なのだ。

歴史の授業で必ず習う「学問のススメ」は何と300万部を売る大ベストセラーだった。推定総人口3400万人程度の当時で、この売れ方は確かに凄い!(約10人に1人が読んだ勘定)
 幕末動乱期に、外国語の能力を買われ、幕府外国方(外務省)に雇われるが、瓦解の現場に居合わせる事になって、本書に無いエピソードを読んだ事がある。
若い福沢諭吉が外国方として江戸城の詰め所に登城していた時、新政府軍が「明日にも江戸に攻め入ろうか」と思われる情勢になった。 開明派が多い外国方においても、一同意気消沈する愁嘆場なのだが、そんな中「いつ江戸城は攻め込まれますか?判ったら早く知らせて欲しい。(自分はさっさと逃げるつもりなので)」と、福沢諭吉は言ってのけたらしい。
今風に言えば「空気を全く読まない男」だ。当時の価値基準からは、大きく逸脱した、異能の人物だった事がよくわかる。

大阪が育んだ「商人魂」
ずっと、福沢諭吉について疑問に思っていた事がある。
「なぜ、こんなに有名なのか。」
という事だ。
明治初年と言えば「政治の時代」だと思っていて、表舞台に立つのは権力の座に居た人々なのに、福沢諭吉はどうしてここまで有名なのだろうか。未だ一万円札に顔を刷られ続けている。。。

昨夜の読書塾では、池田先生は敬愛を込めて
「日本初の『売文業』を成り立たせた人物である。」
と語る。 大久保利道から新政府への招聘の話が来ても断ったりして、何だかカッコイイのだが、
「やはり、幕臣だった事から佐幕派と思われ、薩長から疎まれていたのだろう。この自伝も全て鵜呑みにするのは、まあね、、。」
と、大人な解釈だ。生涯、権力の中枢へは着かないものの、強い影響力を及ぼせたのは
「ビジネスとして、売文業や私学塾を成り立たせた手腕。」
に、大きな要因がありそうである。昨夜の会場からも「大阪で育った」点が指摘され、なかなか目の付け所が良いと思う。
大阪育ちの司馬遼太郎さんは、
「街を歩いても殆ど侍に出会わない大阪(人口に占める侍の割合が極端に低い)と、諸藩の藩邸がひしめき合い、侍(知識階層)の要求を満たす為に形成された街(江戸)とでは、自ずと気風が違って来る。」
とよく語る。
殿様は「コスト度外視のクオリティ」を求め、職人達はそれに答える為に技を磨くから、技術の醸成が進む。一方、物流のメッカだった大阪では「商売の機微」が共有され「なんぼのもん」という意識が高いのだろう。

今回の「福翁自伝」でも若い時から、ギリギリの所できちんと収支勘定をしているエピソードがあったりして「さすがだな。」と思う。得意の翻訳で少しでもレートの良いアルバイトはどれか、、という情報に敏感に反応したり、「金儲けは卑しい。」という固定観念にも縛られていない。
慶応義塾が、日本で初めて「授業料」というものを取り、ビジネスとしてきちんと成功しているのは、この「商人魂」が創立当初からきっちりDNAに埋め込まれているからかも知れない。

目的無しの勉強--好奇心がモチベーションのエンジン
本書を読んで、一番印象に残ったのが「目的なしの勉強」という一節だ。
これをやったら将来何になるとか、メリットがあるとか、そんな事を考えずに、無鉄砲に学びたい事を、競い合うように学び倒した「適塾(緒方洪庵の塾)」時代を称して、語っているのだが、この姿勢がとても強く印象に残って新鮮だった。
 そしてこの「旺盛な好奇心」と「きっちり収支を考える商人魂」が幸運な出会いをしたのが福沢諭吉なのかなとおぼろげに思う。
 池田先生も
「こんなに異能の人が、きちんと認められた生涯を送れるとは、世界的に見ても珍しい。かのマルクスは亡くなった時に11人しか参列者が来なかった。」
とその特異さを指摘する。

適塾は本来「お医者さん(緒方洪庵)」が主宰した私塾で、解剖やら薬品実験やら、理数系の事もよく学んでいるのだが、福沢諭吉が「経済」や「社会統治システム」の方に関心を寄せていった事を思うと、今のように「○○系」と学びの分野を細かく分けていない、黎明期ならではの豪快さが育んだ才能なのだと思う。

この事から現代に目を転じると、学問が密に積上った結果の「細分化」の淋しさを、私は少し感じる。専門領域が深く先鋭化してしまうと、どうしても「共感/認識出来るメンバー」が少なく限られてしまう傾向があって、「いつものお仲間」になってしまうのはどの分野でも同じでは無いだろうか。。

不可能だと諦めない淡々としたしぶとさ
今回、遠隔授業を体験してみて、これまでの固定観念がかなり破られた感じである。知識としては「テレビ会議」とか「テレワーク」とか、知ってもいたし、実現する技術がある事も判っていたが、リアルに顔を合わせて話し合う以上の役割が果たせるのかと、やや懐疑的でもあった。それに日本の会社はとても臆病で
  • セキュリティ面で心配がある
  • 勤務状態を管理出来ない
  • チームワークが醸成出来ない
等々、出来無い理由を沢山並べて一向に踏み出そうという気配が無い。
子どもが小さくて病気ばかりする冬場は、自宅で仕事をすれば「みなし出勤」にならないかと夢見たりもしたが、家に居たら居たで、ON/OFFの気持ちを切り替えるのが難しく「外に出てしまった方が簡単にスイッチ切り替えが出来る。」のも確かだ。
でも、やらざる終えない状況に追い込まれたら、変わる部分が絶対にあるんだと認識出来たのはとても収穫だった。

こども達は、慌ててSkypeの支度をする私の様子を不思議に思い、何をしてるのかとしきりに尋ねた。事情を説明すれば理解する年齢になっているし、そのうちもっと大きくなったら、彼等にとって、場所や時間が特定されないのは当たり前になっているかも知れない。

そう思と、ますます情報を伝達する時のオプションを多く身につける事がとても重要なのだとつくづく感じた。

今回はパート1の読書塾を受けていたので、塾のメンバーを知っていたし、雰囲気も判るから、割と気持ちの敷居が低く「やってみよう」と思えた。
ただ、これが全く知らない人々相手に踏み切れるかと言うと、今の私には判らない。(特に、日本人はネットでは触れ幅が大き過ぎて。。。あちこち傷付ける事例が目立ってますからね、、、)

だが、言葉を磨き、言葉を補完する情報(画像/映像/音声)をどう組み合わせると効果的に伝わるか、その能力を日々磨く集団がきっと現れて来るように思う。

「一度も顔を合わせた事は無いけれど、大仕事をやってのけた。」
という事例がそのうち多発するだろう。たぶん「アラブの春」はその先駆けかもしれないし、彼等が駆使したネット技術はもうかなりの所まで来ている。

「リアル」と「ネット」の両方を上手にハイブリットする集団が、出て来ていると改めて自覚した出来事だった。

さて、次週は夏目漱石の「こころ」。
大変な事に、遠隔からレポートを志願する事に。漱石はとても気になる人だったので、どんな考察が飛び出すか、やっぱり楽しみである。