2013年8月18日日曜日

NHK BSプレミアム「零戦 〜搭乗員達が見つめた太平洋戦争〜」

ラバウルの沖合に沈む零戦(NHKオンデマンドより)
NHKは毎年しっかり取材した終戦特集を組んでいる。去年は「戦艦大和」だったが、今年は「零戦」。「永遠の0」や「風立ちぬ」の公開もあってのことだと思うが、この夏は太平洋戦争関連の映画が多く、これまでと少し違う印象を受けている。

この番組で証言して下さった搭乗員の多くは80歳以上。17〜18歳で従軍しているのだから、いよいよ実体験を語れる最後の世代も少なくなっているのを実感してしまう内容だった。

日本がどの国と戦争をしたのか知らない高校生
今朝(2013/08/18)日経の「春秋」で、「ももクロ(現役高校生)は現代史を殆ど知らない」というコラムが載っていた。年号も戦争相手も無茶苦茶な回答ぶりに絶句してしまうが、周囲に実体験した人もおらず、歴史の授業でも、まともに教えてもらった事が無ければ仕方がないかも知れない。本人に興味が無ければそのまま大人になっても、何ら支障の無い世の中なのだろう。(世界に出すにはちょっと恥ずかしいけど。。)
この番組のように、良質な記録を残すのはそれだけでも意味があるが、これだけ他に面白い事が溢れている現代では、番組に気が付かずにスルーしてしまう人が殆どなのだろうなと思う。
我が家でも私だけがオンデマンドでこの番組を見たのは失敗かなと反省している。親が観ている番組を、つられて子どもも観るという経験をすれば、興味があれば自然に自分からもっと知ろうと思っただろう、、、。各自が端末の画面を見つめる「個別化」時代は、いつまでも「お気に入りの好きなコンテンツ」だけを見続け「背伸び」をする機会を奪っているのかも知れない。

零戦搭乗員の最後を見つめた角田さん
番組で、何人かの証言者が登場していたが、最も印象に残ったのは角田和男さんだ。(94歳)特攻隊を目的地までエスコートし、その最後を見届けた人で、小説「永遠の0」の主人公、宮部も物語後半には特攻の教官を務めながら、同じ役割をしていた。角田さんご本人も最後は特攻出撃命令を受けていたが、出撃前に終戦を迎えている。

二つの杖をつきながらも、頭脳明晰、記憶も鮮明で、ある17歳の特攻隊員の飛行機が敵艦の、どの部分へどう突っ込んで行ったのかとはっきりと話されていた。
最も辛い役割を負わされた人間の、静かで重い祈りが伝わって来るようだった。戦後は遺族を尋ねて自分が見届けた最後を話し、南洋の島々へ慰霊の旅へと向う人生を送られたそうだ。
「見届けた人150人の名前と念仏を唱えながら寝るんですが、最近は途中で寝てしまう事が多いんです。ラバウルからずっと続けて来ていたのですが。」
「明日出撃という前の晩。搭乗員達の宿舎を見張る当直の仲間に聴いたのですが、皆、眠りもせずギラギラと目ばかりが爛々と光りながらまんじりともしないで、じっと黙って座っているんだそうです。翌日、飛行機に向う時は本当に朗らかな様子を見せているんですが、どの組も、前夜はそんな様子だったと言うんです。」
角田さんは、今年(2013年)の2月に亡くなられたそうだ。最後の最後まで、自分の負った使命と向き合われた人生だったのだと思うと、深い敬意と哀悼の念を思わずにいられない。

過去から何を学ぶのか
毎年の特集を見て思うが、これを単に「過去の過ち」と思って受け止めるだけでいいのかとつくづく思う。この膨大な犠牲の元に戦後の復興があった訳だけれど、根底に流れる「変わらない日本人の思考癖」を思い知らねばならない。
  • 「軍神」と崇め奉ったかと思えば、戦後手のひらを返した様に右へならえしてしまう群衆達の「考えの無さ」
  • 「擦り合わせの名人芸」で図抜けたアウトプット(今回は零戦)を出せるだけの能力はあるものの、中長期的な戦略とそれを軌道修正する柔軟さの欠如。(思考オプションを自ら狭めてしまう。)
  • 4000人近い若者を飛行機もろとも突っ込ませる、そんな外道な戦法を年端も行かない者に押っつけてしまう「甘え」の構造。(それを目の当たりにする前線の同僚や上官達が精神的に追い詰められる重圧はいかばかりかと思う)

この国は、責任の所在を明確にしたがらず、曖昧なまま「何となく」ものごとを先に進めてしまう癖がある。「現場の兵士は最高、将官クラスは最低」とはよく言われる事だが、いつまで「現場に甘え」ているつもりなのかと思わずにいられない。

2013年7月28日日曜日

「リーン・イン」シェリル・サンドバーグ(現FacebookCOO)著 〜席に着く勇気〜

笑顔がとてもチャーミング

IMFのラガルドさんに続き、パワフルな女性からまたメッセージか!と思いきや、意外に親近感の湧く内容でとても読み易かった。著者であるシェリルは恐らく私と同じ(1〜2歳差)バブルの申し子で「ウーマンリブは既に完了し、世の中平等になったんだ。」と信じて成人した世代だ。


実体験と綿密な裏付け情報(巻末に山と引用文献の索引が付いている!)で、今の「気持ち」を懸命に表した感じがとても好印象な本だった。
「きっとアメリカはもっと進んでいるに違いない。」
と思っていた私には、意外に日本と変わらないんだと判って、それが新鮮でもあった。


問題が無いふり
年収ラボより
一年前に見つけて、忘れられないショッキングなグラフがある。働いている人を男女別に10歳ごとに区切った平均年収のグラフだ。
見ての通り、日本の働く女性は、全年代に渡り、平均年収が300万を越えない。男性と急激に差がつきはじめるのが30代以降。これは女性の就労人口がM字型(出産適齢期になると離職して、育児が一段落した頃にまた働き始める)である事と密接に関わっている。一時お休みして再就労しても平均年収が男性の半分にしか満たない、、、即ち、ある一定の権限を持てる所までキャリアを進められていない事を物語っている。
「今さら」
と思わなくも無いが、事実を可視化されると、やはりインパクトがある。これまでは「女性が家事/育児/介護を担い、そこにかかるコストを男性が外で仕事をして稼ぐ。」が一般的なモデルだったのだから、グラフがこんな形になるのも当然で、倍以上ある男性の平均年収の半分は「妻」の物でもあるのだろう。(夫婦間での話ね)

でも、、と、どうしても思ってしまう。自らが稼いだという実感が無く「所有権」だけを主張する「お金」とはどんなものなのだろうか。。
私は、日本の多くの女性が「何かを学び損ねている。」のではないかと、最近強く思わずにいられない。その何かとは「社会性」とか「市場感覚」とか「権利と義務とのバランス感覚」とかそんなものかも知れないのだが、端的に言えば「真の大人になる」事なのだろう。
周囲からも、そして自らも率先して「幼い無垢」なままで眠っていたいと、頭から布団を被っている(被らざる終えない)ように思えてならないのだ。


テーブルに着こう
シェリルは、そんな女性の心理を時に鋭く、時に「自分もそんなに強く無いのだ。」と正直に心情を吐露しながら、語りかける。
特に、アメリカの「仕事が出来る男」は超肉食系なのか、ガンガン自己主張するのに比べ、どうしても女性達は能力は十分にあるのに自ら「一歩前へ踏み出す」事をためらいがちであると言う。
ルールをキチンと守り、自己研鑽を怠らず、周囲へ気遣いをして、与えられた以上の仕事をしても、それを「交渉ネタ」にディールするという積極性を出しにくい。
そんなに出しゃばると男性に「モテ」ない。
洋の東西を問わず、女心は変わらないんだなぁと、少し微笑ましくも思った。いや、むしろ「マッチョ」の総本山である欧米の方が、よりこの心理が強く働くのかも知れない。
日本の場合は
「母ちゃんの尻に敷かれてさ」とか「うちは女子が元気良くて」等と「かかあ天下」よろしく適当に祭り上げておいてその実、肝心な所を「カッさらう」
のが常套手段で、一途で懸命に働く女性達はしばしば、縁の下からなかなか出る事が出来無い。まして、子どもを産んでそれでも働き続けようと思うと、相当に頑張らないと「自分一人の努力ではいかんともしがたいハンデ(子どもが体調を崩すのを100%防げる母親はこの地球上に存在しないだろう)」を、「いつ突かれるか」とビクビクしながら懸命に職務を遂行するのが精一杯で、とても「ディールしよう」とまで思え無いのが現状だ。

でも、そこを「一歩踏み込んでテーブルに着こう」とシェリルはナッジ(肩をそっと押す)してくれる。周囲へも「彼女達をナッジしてあげて。」と理解を促すと同時に、女性達にも「勇気を持って積極性を出してみよう。」と語りかける。

  • キャリアは梯子でなくてジャングルジム
  • ティアラ症候群(真面目にキチンと仕事をしていたらいつか誰かがそれを認めて王冠を頭に被せてくれると期待する)
  • 自分を引き上げてくれるメンターを探し続けるのは「王子様」を探すのと同じだ 。(郡から引き上げてくれるメンターを探すのでは無く、自力で郡から抜け出られた時にメンターに出会えるのだ。)
 本当に耳が痛く、且つ鋭い指摘をしている。


対話を続けよう
この著書のいい所は、この一文で終わっている所だ。何か結論めいた事を言い切るのでは無く「これはきっかけに過ぎない、対話を続けよう。」と行動を促している。
さすが、そこはFacebookである。きちんとコミュニティが出来ている。
Lean Inコミュニティ
日本版があったらもっといいのにと思うけれど、きっとじきに出来るだろう。
数年後、「あれからどうなったかな。」とまた本書を振り返って読むだろうなと予感している。「ああ、こんな時代もあったね。」と思えるように、ほんの一ミリでもいいから努力しなくてはと思う。

2013年7月20日土曜日

速報!「風立ちぬ」宮崎駿監督 〜大人の潔さ〜

「アルプスの少女ハイジ」で育ったジブリ世代としては、やはり宮崎駿監督の作品と聞いたら、見に行かずにはいられない。「もののけ姫」から毎作封切り日に劇場で見て来た。(唯一の例外は「ハウル」ーーあの時は息子が「魔の二歳児」で二時間以上映画館でじっとさせてる自信が無く、泣く泣くDVD版)
今作は「潔いよいなぁ」と感じた。途中、涙がジワリ。

あの時代の日本
このブログでも頻繁に書いているけど、私は相当に歴史好きで、幕末〜昭和初期までは、かなりいろいろな本を読み込んで来た。
近代化に邁進していた頃の日本をおぼろげに思い描いていたが、世界最高水準のジブリ美術力がそれを、空気感まで再現してくれて、本当に涙ものだ。

あの頃の人々の風俗、物の考え方、どんな環境で、どんな空だったのか、、丹念に描かれていて「一瞬たりとも見逃したく無い。」と思った。いつもながらの「調べ」と「作り込み」に脱帽である。これは、まだ事情がよく判らない子どもには単調だったようで、五歳の娘は後半飽きてしまっていたが、中三の長女には丁度良かったと思う。



潔い人間達
丁寧な言葉使い、もどかしい程に通信手段の無い世の中、大工が大工道具の箱を担いで歩いている傍らで、国家の威信をかけて世界最高水準の工業技術を手に入れようとする「目一杯の背伸びと焦燥感に駆られる英才達」。。宮崎監督らしい妥協を許さない描き込みは、画面に描かれる端っこの人間にまで、「シャンと背筋を伸ばした潔さ」を感じる。
主人公「堀越二郎」はこのパンフレットだと「ちょっと優男」に見えるが、スッと見せる判断力と優しさに、あっという間に虜になる。
ネタバレになるからこれ以上は書かないけれど「ジブリもやっとここまで描けたか」と思う大人も「胸キュン」の物語である。

美しい形が最も性能が高い
宮崎監督が「飛行機好き/兵器好き」は有名だが、ゼロ戦に対して非常に敬意を払っている事がこの映画でよく判る。冒頭のパンフレットに描かれている、ちょっと変わった形の飛行機ーーこれは「九試単戦」と言って、ゼロ戦になる前の前の「ブレークスルーモデル」とも言うべき名機らしい。(まったく知らなかった)
堀越二郎が手掛けた中で、一番愛したモデルらしく「あんなに美しい飛行機は見た事が無い」と実物を見た人の証言も残っているそうだ。
新幹線の生みの親「島秀雄」も「美しい線は一番空気抵抗が低い」と言っていたし、映画の二郎も「鯖の骨の流線型が美しい」と語る。
「設計はセンスだ、技術は後からついて来る。創造的人生の持ち時間は10年だ。」と映画でカプローニ氏は語る。ああ、そうだよなぁっと思わず震える台詞だった。

初の主役声優を務めた庵野監督(非常に自然で最初気が付きませんでした)も
「72歳を過ぎてからよくこんな映画が作れた。」
と感嘆していたが(いやむしろ、その境地だから作れたのかとも、、、)いつまでも、自身に挑戦し続ける、宮崎駿監督の「負けん気」に乾杯したい映画だった。

創造的人生は短い。漫然と生きずに目一杯生きろ。

2013年7月15日月曜日

ちきりん著「世界を歩いて考えよう!」「未来の働き方を考えよう!」〜人生をシェアしあうこと〜

最新刊と去年発行された第三冊目の著作
ちきりんさんの著作はこれまで発行された物は全て読んでいる。(前回のブログ)ちょっとTwitterから離れていたので、彼女のツイートも最近チェックしていなかったが、偶然書店で新刊をみつけて、以前読んであった第三冊目と合わせて簡単な読書感想。

一度きりの人生をシェアし合う(世界を歩いて考えよう!)
ちきりんさんは、有名人気ブロガーだが今まで実名を明かしていない。講演会もお面姿で「顔出し」をしない方だが、恐らく私より、3〜4歳年上でほぼ同年代だろう。今回の「未来の働き方〜」はこの所、私が感じていた事をズバリ明文化していて、本当に興味深かった。

彼女は所々で書いているが、出産経験は無い。証券会社や外資系企業を渡り歩き、おそらくかなり高い地位までステップアップして行った「切れ者のキャリアウーマン」だと思う。(おちゃらけ〜と自称しているけれど、彼女のブログも著作も根底に流れる考察は鋭い)バブル期に入社し、99年から子どもを産んで、30代の大半を三人の子の出産/子育てと仕事の両立にカッツカツに時間を費やした私にとっては、「世界を歩いて考えよう!」は「ひょっとしたらもう一つの人生」だったかも知れない世界に見えた。

バブル世代のご多分に漏れず、結婚前は年に一度は海外へ渡航していたし、僅かながら仕事で海外に行く経験もした。それが、結婚/出産をした途端、気が付けば15年以上日本から外へ出ていない。その気になれば出られない事は無かったが、独身時代とは比べ物にならない程、からみ付いたしがらみを、振りほどいてまで「海外へ行こう」と思う気力が無かったのが正直な所だ。(例えば、田舎を持つ配偶者と結婚すれば、長期休暇に「帰省せず孫の顔を見せに帰らない!」と決断するのはかなりの軋轢を覚悟しなければならない、、とかね。。)
 「世界を歩いて考えよう!」を読んでもすぐに感想が思いつかず、ブログにも書かなかったのは「羨ましいな」とも思わなくなってしまった自分の「縮こまり具合」の現れだったのだと思う。羨ましいと思うのはまだ「健全な上昇志向」がある証拠だ。

彼女の著作は一環して「考えよう」と訴える。あらためて、もう一度「世界を歩いて〜」を拾い読みすると、現地を見たからこそ(しかも意味ある時期に)のリアルで鋭い観察が事例豊かに綴られている。ボンヤリのんびり観光してそうで、見るべきものを見、考えるのが「ちきりんさん」なのだが、彼女がこの経験を本という形にして流布してくれた意味が、最新刊「未来の働き方〜」を読んでやっと判った気がした。

結局、人は自分の人生を一度きりしか生きられない。
  • 子どもを産む/産まない(或は、産めない)
  • 働き続ける/続けない(或は、働けない/続けられない)
  • 親の介護に時間を費やした/殆ど費やさ無かった
等々、一人一人の人生は全く違うシナリオで、たまたまある一時期だけ「親族」や「友人/同僚」として共に誰かと過ごす事はあっても、基本的に「巻き戻し」無しの一本道を一人で歩いている。
だからこそ「これまで歩いた道」をシェアし合いたいと渇望するのかもしれない。 本(物語)は「別の人生」を擬似的に体験出来る優れた「横糸」だ。一人一人の人生が「縦糸」なら、それをつなぎ合わせて紡ぐ役割を果たす。出来上がった布が、文化とか、文明とか、歴史、、と呼ばれるものなのだろう。
IT革命以前は、この横糸はごく限られた人しか紡ぐ事が出来無かった。それが、簡単に短時間で気軽に出来てしまうのだから凄い事だ。
そして、人生をシェアし合う段階から、時代は次へと動いていると彼女は提言している。


人生は二度ある(未来の働き方を考えよう!)
最新刊「未来の働き方を考えよう!」では
「もうお気づきだと思いますが、人生二度あるのがこれからですよ。」
とデータを示しながら、彼女は縷々説明してゆく。
  • 少子高齢化は確定の織り込み済み前提条件
  • 定年はどんどん延びます
  • グローバリゼーションの波は国家の枠関係無しです
  • パワーシフトは起こっているので、パラダイムシフトせざる終えないです
「そんな事判ってる!だから心配なんじゃないか。」
と眉をひそめて暗くならないで、ワクワクしながら、考え方のシフトをチェンジしてみませんか?というのが、本書の提案主旨だ。
「最初の人生の選択(20〜30代前半)」がパッケージツアーだとしたら、「後半の人生の選択(40代以降)」はオリジナルのツアーのようなもの。最初の選択は「みんながそうしてるから」と安パイな「おススメコース」を行くが、二度目の選択はこれまでの経験から「本当に自分のやりたい事」を上手く選べるはずだ。
と明快に表現する。
「子育てで30代使っちゃったなぁ。」
と未練がましく不貞腐れていた私にとって、特に以下の文章は心から嬉しかった。
これからは、前半人生は専業主婦、後半にはバリバリ働くという人も増えるでしょう。子育ては案外短い期間で終わります。人生は80年だし、働く期間も42年を越える可能性があるけれど、子どもは18歳になれば(少なくとも時間的な手間は)かからなくなります。子育て以外の人生は相当にながいのです。(中略)子育てという大事業を経験した40代の女性を雇う企業がないなどというおかしな状況が、いつまでも続くとは思っていません。人生が100年で70歳まで働くのなら、40代からキャリアを積み始めてもまったく遅くはないはずなのです。(「未来の働き方を考えよう!」p150)
「若い時に身に付けた方が有利なスキル」 はいくつかあるので、何でも「人生後半に学べばいいや」と思うのはやや浅はかだが、そこは戦略的に錆び付かせない「刃物を研ぐ」知恵を働かせれば良いわけで「仕事か、家庭か、子どもか」と悲痛な選択を追い込まれるようにしなくても、思考のオプションをいくらでも変えていいのだと思える。

ちきりんさんは、巻末に「後半人生のオリジナルシナリオ」を作るポイントを書いている。
  1. とにかく「心からやりたい事」を意識して探せ。(これが見つかったら僥倖(ぎょうこう)それも具体的に細かく書いてみる。
  2. その「やりたい事」に到達する為のシナリオを複数(←ここがミソ)持て。そして、それを数年ごとに見直し、選び直しをせよ。
  3. 「市場で稼ぐ」力を身に付けよ。 これからは何年生き延びるのか分からない事を考えると、ストック型よりはフロー型の方が有利。市場で稼ぐ事をビビットに体験していないと折角設計した「オリジナルシナリオ」が実現出来ない。
最後に「稼ぐ力」を持って来ている所がさすが「甘いばかりじゃないよ」である。「消費する一方」「与えられた予算をただ使う一方」では、とても「市場から稼ぐ」スキルとセンスは身に付かないと、ピリリとスパイスを利かせている。
人は市場から遠い場所で働く期間が長くなると、世の中から求められる能力や資質が伸ばせなくなります。最終的にお金を払ってくれる人を意識していると、市場がもとめるもの、評価してくれるものを提供しようという意識が強くなります。市場が求めているものとは、突き詰めれば時代が求めているものです。それを提供しようとすれば、自然と自分にも、時代が求めるスキルが身につきます。(「未来の働き方を考えよう」p212)
何も市場を学ぶ事は難しい事では無い、IT革命を使えば、たった一人で、今からでも始める事が出来る。例えば、こんな風にブログを書いて、何人かが最後まで読んでくれたら「それが市場感覚だ。」ちきりんさんはそう教えてくれている。
彼女の著作は、これからも目が離せない。

2013年7月7日日曜日

NHK大河ドラマ 八重の桜 第26回「八重、決戦のとき」 〜多様性を考える〜

綾瀬はるかさんの迫真の演技が光る!
一週前の話になりますが、大河ドラマ「八重の桜」が前半のクライマックスです。激烈を極めた会津戦争。征討軍として攻め込む新政府軍に、装備は旧式、あるのは「会津魂」のみの会津藩は次々と領内に攻め込まれて、いよいよ会津城下も戦場に。。。

綾瀬はるかさんの迫真の演技に、思わずこちらも感情移入。特にこの回の台詞がふるっていました。

「今、この時にそんな昔ながらの考えでなじょしますか。これは男だけの戦いでは無い。(中略)私の腕はお役に立つ、それを使わないなら戦いを放棄したと同じ事。私は山本覚馬の妹だ。鉄砲の腕なら誰にも負けねぇ。」(女子どもと老人しか残らない会津城内で自分が鉄砲隊を指揮すると申し出た時)

カッコイイとかそんな薄っぺらな言葉では到底評価しきれない、底震いしたくなる言葉です。(実際に涙しました。)

非常時に開花した才能
別番組でも紹介されていましたが、新島八重(この当時は川崎八重)が会津城に立てこもって、鉄砲、砲弾の指揮を取り、板垣退助や大山巌が率いる新政府軍を散々悩ませたのは史実だそうです。大山はこの時八重の撃った弾に当たって負傷。(ドラマの通り)BS歴史館に登場していた鈴木由紀子氏(八重の事を小説に書いている作家さん)は
「本当にこんな女性が日本に居たんだと、調べて感動した。」
といつもクールな鈴木女史がいつになく興奮した様子で語っていました。 ドラマでも、八重は非常に合理的な判断を的確に下して、その実力を十分に発揮しています。
  • 未熟な者は決して前線に連れて来てはならない
  • 自分達の武器は劣る、だからよく引きつけてから撃て(やたらに無駄弾を射つな)
  • 何処を撃てば最も効率良く相手の勢力を削げるか考えろ(旗頭の下の侍大将を狙え)
八重は明治末期まで生き、晩年この「会津戦争」について語っているらしく当時を思い出してその時の装束を再現した有名な写真も残っています。 (左図)
後の夫、新島襄は「彼女は決して美人ではないが、ハンサムな女(ひと)だ。」と語っています。判る人には彼女の持つ内なる輝きが判ったのでしょう。

この回では、様々に八重の考えに対して周囲が異を唱えます。
「戦場に出て行くおなごにかける言葉を知らない。」
「女子に戦は出来無い。」
「おなごの出る幕ではない。」
男どもは勿論の事、身内からも、同性からも理解はされない。。けれど、八重は怯まず主張し、先の名台詞が出る訳ですが、この言葉を吐くに足りる「揺るぎない実力と確信」が彼女の言葉の迫力の源になっているのは、誰の眼にも明らかでしょう。
「○○なら誰にも負けない。」
依って立つ何かを持っている人は土壇場に強い。あらためて奮い立つ言葉でした。


多様性に眼をつむる者
この回では、八重の奮闘の裏で「白虎隊の悲劇」「藩士家族の婦女子の悲劇」も描かれています。いずれも「敵の手に落ちて辱めを受けるなら」と自ら自刃してしまうのですが、このマインドは恐ろしくも、第二次大戦の「戦陣訓」にまで継承されています。(生きて虜囚の恥ずかしめを受けず)八重が最後の最後まで諦めず考え抜く姿勢とは実に対称的です。

歴史を後から眺める私達が、後知恵でもの申すのは甚だ不遜ですが、敢えて言うなら、殺し合いを伴う内戦ほど不毛なものはありません。少し視点を上げれば、それが自国の繁栄にいかに不利かはすぐに判る事です。
もし、白虎隊にもう少し年長者が入っていれば(16〜18歳の今で言えば高校生)集団自決という早まった判断を止められたのではないか。幼気な女児まで手にかけて自刃する必要があったのか、、。これらの悲劇を考える時
「思考オプションの少なさ」
を考えずにはいられません。
「日新館で教わった」(会津藩士の子が通う藩校)
「そうしなさいと教えられた」(武家の子女の心得として)
人々の生きる世界は「会津」と言う郷土の範囲しかなく、その外側がどうなっているのかというところまで考えが至らない。情報の極端に少ない江戸末期である事を考えれば致し方なしですが、ちょっと今風に言うと
フレーム(会津藩)という枠に捉われ過ぎて、その外側がどうなっているのか、フレームはあくまで「基点」でしか無いのに、その内側、外側に考えを切り替える事を忘れてしまっている。
と思えてなりませんでした。
その後の歴史を見ると、明治新政府は官軍/賊軍の隔たり無く、特に能力を必要とする官僚の要職には人材を抜擢しています。(八重の兄の覚馬がその良い例)欧米列強の脅威を考えると、唯一の「知識階級」だった武士層は貴重なはずで、一人でも無駄にはしたく無いのに、そこまでのグランドプランを持っている人は、当時の日本にごく少数だった。。200年以上(それどころかその前の時代にも)小さな藩単位で世界を閉じ、上手に「擦り合わせ文化」を発達させて来た日本は「大きな戦略」や「異質な物を排除せず、いずれそれに救われる保険になるかも知れない」という多様性に対する本質的理解が、どうも鈍いのではないか。。と考えさせられる回でした。

奇しくも、敬愛する濱口氏(Zibaの戦略ディレクター)が今日のツイッターでこんな事をつぶやいておられます。
多様性は必要なのではなく、多様性は前提なのです。(
そもそも、世界は「多様」なのだから、それを前提に考えない方が愚かしい。そう言わんとしているのだと思います。

安倍首相は成長戦略に「女性の活用」を提唱し、IMFレポートには明確に「日本の女性は能力を活かしていない」書かれてしまった昨今。綾瀬はるかさん扮する八重のように
「鉄砲なら誰にも負けねぇ。」
と言い放つだけの、実力を備えなければと、気持ちを新たにしました。

2013年7月6日土曜日

「十二国記」小野不由美著 〜ファンタジーの凄味〜

3年ぶりの新作書き下ろし短編二作集録
気が付けば、2月から全く更新していない事に愕然。読書はしていたものの、新しいジャンルの仕事に出会って、そちらに興味津々。すっかり更新が疎かになってしまった。
しかし、久々に書きたい衝動に駆られる作品なので、4ヶ月ぶりのエントリー。
小野不由美の「十二国記シリーズ」は大好きなファンタジー小説だが、いつもこの人の作品は項を繰る手が止められない。待望の新作だったにも関わらず、あっという間に読み切ってしまった。

このブログでファンタジーを扱った事は無いが、「ゲド戦記」をはじめ、ハイファンタジーは大好きだ。これほど真実をえぐり出す舞台装置は無いと思っている。良質でよく作り込まれたその世界は、現実世界を丹念に追うのと同等か、或はそれ以上に「世の条理」をあぶり出してくれる。


小野不由美の凄さ
彼女は作家としてつくづく凄いと思う。ファンタジーが苦手という人は、恐らく
  • 現実世界でない
  • 所詮おとぎ話
  • 夢見がちだ
という先入観を持っているのではないか。。。
確かにファンタジーと銘打っているので、この物語は現実世界とは全く違う「世界設定」に成り立っている。だが、その中に一つとして、先の言葉が醸し出す「甘さ」は存在しない。むしろ、苛烈で過酷なまでに、理詰めで(ファンタジーに理詰めというのも変だが、その世界の中の「理(ことわり)」という意味)物語は紡がれ、読む者はその条理の元に否応無しに物語へと引き込まれる。
古代中国(紀元前の周王朝あたり)の政治形態や神話に登場する妖怪を援用しているが、精緻に作り込まれたこの世界は本当に脱帽する。入り込むと何ら不思議に感じない物語とはそれだけ矛盾の無い構造を持っていると言えるからだ。(大好きな司馬遼太郎さんも「ファンタジーを楽しむには作法がある。その世界のルールに完全にのめり込む事だ」と語っている。)


リーダーの役割とは
この浩瀚(こうかん)な物語を読んで、一番心に染みたのが、「リーダー」の役割の本質をえぐり出しているところだ。
十二国記の愛読者にはくどい説明になるが、、、
十二国とは
  • 「天」なる高き意志に造られた十二の国がある。
  • そこには一人づつ「王」が配される。
  • この王を選ぶのが「麒麟」で、これも天から配される。 
という大前提がある。(この異世界が時々現世と繋がってしまうという設定)すなわち、十二国という世界には、嫌でもそれぞれに「リーダー」が居る状況で(時々王座が空位になって国が荒れるけど)、このリーダー達が個性豊かに「野心に燃え」「怖じ気づき」「燃え尽き」たりしながら、国を富ませたり、滅ぼしたりを繰り返している。
それぞれ与えられた「権」を独自に解釈して治世を行うのだが、そのやり方が各国様々なところが面白い。豊かな描写力で描かれる登場人物は、皆「どこかに居そう」で目の前にありありと姿が浮かぶ筆致力には凄味がある。

私はこの物語によって初めて
  • 国の舵取りは「綺麗事」だけでは出来ない
  • 批判しているだけでは何も物事はすすまない
  • 時に非情を覚悟で苦渋の選択をしなければならない
ということを学んだ。
リーダーは一人では何も出来ないが、決める時は一人で決めなければならない。或は、合議制を入れていても最後は「拠り所」となる支柱(リーダー:王)が無ければ安心して周囲は行動を起こせない。位によって得た重みがどんな事を意味するのか、様々なケースを繰り出せる作家の想像力の翼は本当に無限大だ。


鳥の眼と虫の眼
一見派手な「王権」の物語がメインストーリーに見えるが、小野不由美は物語の視点を、自在に上下させる。特に、今回の新作「丕緒(ひしょ)の鳥」は「組織の末端に属する名も無き仕事人」達を丹念に描いている。ネタバレになるので、詳細を記述する事は控えるが、どの物語も「自らのミッション」とどう向き合うのかを実に的確に豊かに描いている。
  • 捨て鉢になった内面からもう一度再起出来るか?(丕緒の鳥)
  • 自らの判断が国の根幹を揺るがすかも知れない事態にどう対処するのか?(落照の獄)
  • 自分の出来る事は小さい、それでもたった一度のチャンスにどこまで責務を真っ当出来るか(青条の蘭)
  • 遠回りに見える職務をコツコツと積み上げて行くしか自分達に出来る事はないと腹を括った専門家達(風信)
ファンからは「地味だった」等と言う感想も寄せられているようだが(それはそれで良し!)宮仕えを20年以上続けた「地味な仕事人」としては、どの短編もいぶし銀の魅力でたまらない。
この鳥の眼(権力者の眼、経営者の眼)と虫の眼(現場で働く市井の人々の眼)を自在に切り替えているところが、物語の「厚み」と「精緻さ」を支えている。
電車の中でマスカラが落ちるのもかまわず、涙腺が緩みっぱなしだった。


ファンタジーの存在意義
人はどうして物語を欲するのだろう。簡単に答えは見つからない。近現代において、ファクトを真摯に見つめる姿勢が、人々をより良い暮らしに導き、それが何らかの欲望を満たして来た。物事が明らかになって行くと、蒙昧な世迷い言を語った「物語」は世間の片隅に追いやられてしまうのか。。否、そんな事は無い。ここまで、科学技術が発達し、情報革命が起きた今でも、物語は無くならない。それは、きっと人間が生きるに必要な根幹に関わる何かなのかも知れない。
「時には小説を読んだ方がいいのかも。」
何人かの友人が似たような事を言った。働き盛りには、良く書かれたビジネス書は欠かせない。(私も大好き)けれど、ビジネス書だけではどうしても捉えられない事態に直面した時、ひょっとすると小説や物語の中に、何かのヒントが隠されているかも知れない。往年の「物語ファン」としてはやはりそう思うのである。

最後に、もしこの物語を読もうと思われる方に、各巻のおススメ読み進め順を記しておこう。これは私に十二国記を知らしめてくれた友人が貸してくれた順番そのままである。
  1. 月の影 影の海(上下)
  2. 風の万里 黎明の空(上下)
  3. 東の海神 西の滄海 ←シリーズ中一番好きな巻!
  4. 図南の翼
  5. 風の海 迷宮の岸
  6. 黄昏の岸 暁の天
  7. 魔性の子
  8. 華胥の幽夢
  9. 丕緒の鳥(最新刊)
 実は新潮文庫から発刊順に読んでしまうと、初めての人は少し混乱してしまうかも知れない。それくらい、この物語は重層的である。

2013年2月24日日曜日

オランダを考えてみる〜「最強国の条件」A.チェア 「オランダ紀行」司馬遼太郎 他


オランダからの客人と週一回ミーティングをする機会があった。折角のご縁なのだから、彼の国はどんな国なのか、最低でも基礎知識を入れておこうと大慌てで「オランダ紀行」を読む。
オランダへは旅行で一度行った事がある。両親がベルギーのアントワープに三年程住んでいた時に、隣国へ気軽に遊びに行く感覚でアムステルダムを訪れた。ベネルクス三国と言われているけれど、国境を越えると両国の違いがすぐに判る。まず、道路の舗装レベルがオランダは格段にいい。
「ベルギーは貧しいからね。インフラに手が回らないんだよ。走っていてすぐに判る。」
と父が話していた。もう15年以上前の話で通貨統合前だから、今はどうか判らない。スキーポール空港はヨーロッパでも一番立派な空港だとも言われていた。小国ながらいろいろ立派だけど、料理には無頓着でベルギーの方が何を食べても美味しく、フランス系ラテン文化の薫りがした。オランダはどちらかと言うとイギリスに通ずる所が強く(アントワープの前にロンドンにも両親は赴任していたので)今回「オランダ紀行」を読んでその理由が少し判った。


最強国の条件(A・チェア著)
オランダ紀行を読みながら、「この内容どこかで読んだな。」と既読感を覚えた。暫くわからなかったが、やっと去年読んだ「最強国の条件」(A・チェア著)の中にオランダが取り上げられていた事を思い出す。この著書は、以前輿那覇先生に薦められた本で、古代ペルシャ帝国から現代のアメリカ、果ては、最近注目の中国、インドまでを「最強国になった要因」と言う視点で読み解いている面白い著書だった。
チェア女史は「最強国(HighPower)」をこう定義している。
「最強国」は単なる帝国や超大国よりも「珍しい」存在で、軍事的経済的な優位が突出しているあまり、世界を事実上支配するにいたった社会、国家のことである。(本文p3)
そして、歴史上の最強国に見られる法則性を
最強国が世界支配にいたる上昇過程では「多元主義的」且つ「寛容」で、それが衰退期に入る時は 「不寛容」「排外主義」宗教的、民族的に「純粋さ」を求め出す時に始まっている。
と説いている。アメリカの著書らしく、冒頭数ページでズバリ要点を書いてしまっている所が、何とも明快だが、各章は便覧的だけれど世界史を「国家の成り立ち」という点で俯瞰するのには非常に面白い。
  • 古代ペルシャ帝国
  • ローマ帝国
  • 大モンゴル帝国
  • 中世スペイン
  • オスマン帝国
  • ムガール帝国
  • 大英帝国
  • アメリカ
  • ナチス・ドイツ
  • 大日本帝国
  • 現代の中国、インド、EU
と古今東西の「最強国」と言われる事例を取り上げ、この中に「小国オランダ」を列挙しているのである。


不利な条件からアイデア一つで成り上がった国
ここからは「最強国の条件」と「オランダ紀行」両方で読んだ事を織り交ぜながら、私なりの感想を。。
チェア女史も、司馬さんも、オランダが17世紀に「輝けるグローバル帝国」になり得たのは、「宗教/民族に対する一切の差別をしない=寛容政策」によるものだとしている。

低湿地帯で地理的に恵まれたとは言えないこの地域は、各地が「公国」単位で割拠し、沿岸部は海洋民族として生きていた。「海の乞食(ゴイセン)」と呼ばれていた彼等は、直接自分達が食べられる「農」では無く、何かに「付加価値」を付けて売って利益を得る「商」に生きなければならなかったとしている。司馬さんはよく
「商売とは、物の「量」と「質」を正確にはかることだ。」
と語る。そうでなければ商売は出来無いと。
17世紀は「宗教改革」の嵐が吹き荒れ、血で血を洗う争いに明け暮れ、その先頭に立ったのがスペインであるが、オランダは80年かけて、このスペインからの独立を勝ち取り、宗教や民族の違いから迫害を受けた人々(ユダヤ教やプロテスタント)が資本と技術を持って次々とオランダにやって来た。この起業心溢れる「資本とアイデア」とそれを支える「労働力(プロテスタント)」が僅か数十年にして「近代市民国家の小サンプル」を作ったと言えるらしい。
「自由」
というのは、後世の東洋人が恍惚となるほどには、高邁なものではなかった。ただひたすらに実利的だった。
十六世紀末、この国の市民達が懸命にもがいて領有国のスペインから独立したのも、自由のためだった。どんな思想をもってもよく、何を信仰してもいい、という社会でなければ生きられないし、商売もできないし、はるかな遠洋にも出てゆけないのである。
たとえば、カトリックならば船上に神父がいないと死ぬ場合に天国にもゆけなくなるが、プロテスタントならば聖書一冊あればいい。
「なぜオランダは繁栄したか、それは、自由があったからだ」
とこの繁栄の時代(十七世紀)に生きたスピノザが痛切に言っているのである。(「オランダ紀行」p89)
商売重視になれば、当然「拝金主義」にもなるし、汚職、賄賂が頻発し「まず『官』が腐った」とも司馬さんは表現する。有名な「チューリップバブル」も世界で初めて金融システムが出来上がったオランダでの出来事だったし、「オランダ東インド会社(VOC)」は世界初の「株式会社」だった事は有名で、鎖国していた江戸期の日本と取引をしていたのが、このオランダ東インド会社である事を考えると、当時のオランダの「商魂逞しさ」を窺い知る事が出来る。


「オランダのビジネスモデル」をそっくり継承したイギリス
チェア女史は、短時間で勃興したオランダが「名誉革命」を契機に、そっくりイギリスに移ってしまったと指摘する。
野心家だったオランダの執政官ウィレムが、従姉妹でイギリスの王位継承権を持つメアリー・スチュワートと結婚し、イギリス議会を味方につけて自分がイギリス王になってしまった(名誉革命/無血革命)時点で、オランダにあった一切(寛容政策、資本、有能な人材、ビジネスモデルetc)をイギリスはそっくり恩恵として受け取ったのだという。
チェア女史は、オランダの章の最後に鋭い指摘をしている。
イギリスはオランダがついに解決出来無かった問題まで継承する事になる。オランダにとって、寛容さは主として内政問題だった。オランダの国境の中で実現した宗教的寛容さは特筆すべきものだったが、海外の通商基地における人種的・民族的寛容に繋がったわけではない。(中略)奴隷制、人種隔離、文化破壊と典型的な植民地支配を実行したのである。(中略)オランダ人はインドネシア人やセイロン人を、大オランダ帝国の忠実な臣民に作り変える事に一度たりとも成功しなかった。(そもそもそんなつもりも無かった)啓蒙主義の諸原則、白人中心主義、ローマ流の帝国建設という三つの、互いに異質な原則を組み合わせる努力は、次代の主役であるイギリス人が支払うことになるであろう。(「最強国の条件」p230)
「台湾紀行」(司馬遼太郎著)を読んだ時、オランダが台湾南部に海運の為の基地を開いた記述があったが、その中でも
「宗主国としてその土地 に『何かをもたらそう』(例えばインフラとか)というつもりはまるでなく、自分らの都合優先で、取れるものだけその土地から吸い上げて(例えば資源や労働力)後は知らないとばかりに、海岸線に張り付く形の城で(ゼーランディア城)統治と言えないような統治をしていた、、、
と表現していた。


美術史の中のオランダとゴッホ
「馬鈴薯を食べる人々」ゴッホ
最後に「オランダ紀行」を読んでとても「儲かった!」と思った話。同書にはレンブラント、ルーベンス、ゴッホに対して解説している文章が多く、非常に秀逸で示唆に飛んでいる。
一応、画学生だったので美術史は詳しいつもりだが、美大の悪い所は「井の中の蛙」でそれが、当時の社会とどう関わったのかという解釈がいつもスッポリ抜け落ちている。
技法と流派とそれの時代が補足的に語られるだけで、その意味や意義までは思考を深めない。。。
司馬さんは作家デビューをする前の新聞記者時代に美術欄を担当していた時期があるそうだが「もっとありのままの絵画を楽しめば良かった。」と色々な所で後悔しておられる。でも、その圧倒的「下調べ」に依って立つ解説はもの凄く面白かった。

オランダが生んだレンブラントとアントワープを代表するルーベンスの違い(プロテスタントとカソリックの違いにも見える)もさる事ながら、ゴッホに関する文章はとっても秀逸でこんな解釈これまで読んだ事が無かった。
「存命中は評価されなかった孤高の画家、自分の耳を切り落とす狂気の狭間に生きた炎の画家」等と表現されるが、司馬さんは「ゴッホは狂人でも変人でも無い」と言う。死の直前まで弟テオと取り交わした往復書簡を読み込み、最後にこう書いている。
ゴッホは精神を絵画にした。
このことそのものが、異様であった、
それ以前の、たとえば宗教絵画でいえば荘厳さとか神秘的光景、または聖母の慈愛、あるいは神にたいする敬虔といった心理的情景は絵画によって描写できた。それも、一種の『説明』だった。
そういう、『説明』からいえば、ゴッホはいわば無茶だった。かれは自分の精神を、絵画で表現しようとした。自己の皮膚を剥ぎ、自己そのものを画面にひろげてみせたのである。
半ば冗談で(むろん半ば本気で)いうと、ゴッホがもし十七世紀に生をうけていれば、とてもレンブラントのような画家にはなれなかったにちがいない。レンブラントの場合、対象を再表現するために --説明するために-- 稀代の写実力をもっていたのである。
ゴッホのころ、すでに写真機が出現していた。
画家たちは写実力の上で寝そべっているわけにはいかなくなり、ゴッホのように精神へ向うか、もしくは同世代のセザンヌ(1839〜1906)のように、自然がもつ形を抽象して(自然を円筒状、球状、円錐状に分析して)それらを絵画のなかで再結合させるか、どちらかしかなかった。(「オランダ紀行」p388)
期せずして、これまで自分が抱えて来た命題に、一つの見方を示してくれたように思った。そうか、写真機は大変な「イノベーション」だったんだ。。
「絵画」は今日では文学的な所に近いと思われがちだけれど、そもそもの成り立ちはもっと科学技術に近い技能だったのだ。(司馬遼太郎)
この記述にもハッとする。ああ、やっぱり読書って面白い。
オランダからの客人と、こんな事をベースに話し合う事が出来そうだ、、(悲しいかな語学力が伴わないけれど。。。)
ゴッホの最後の絵と言われている「カラスの群れ飛ぶムギ畑」

2013年2月13日水曜日

いい男、いい女に読んでもらいたい「海賊と呼ばれた男」百田尚樹著

仕事の出来るビジネスマンは小説なんて読まへんのやろな。

確か、百田さんは二年以上前にこんな内容をつぶやいていた。仕事がデキル人ほど小説を読んで欲しい。。今回「海賊と呼ばれた男」を読んで「あの時のつぶやきの真意はこれか。」と思うと同時に、これは百田さんの「坂の上の雲」だなと思った。

どこで読んだか忘れてしまったが、司馬遼太郎が超人気作家だった高度経済成長期(1960~70年代)、サラリーマンはこぞって同氏の作品を読んだと言われている。「竜馬がゆく」は若い20~30代の現場を支える人から支持され、「坂の上の雲」は管理職クラスの必須教養だと、その短い書評では表現していた。
百田氏も「永遠の0」では「人は何を信条に生き抜くのか」を表現し、この「海賊と呼ばれた男」は「世の趨勢と、それにどう対処し判断して人を引っ張って行くのか、人を育てていくとはどんな事なのか」をリアルに目の前に描いてくれている。

内容の薄いハウツー本10冊よりも、このほぼ実話に近い小説をジックリ読む方が、よっぽど「デキルビジネスマン」には役に立つだろうと私も思う。


人が最大の財産
武田信玄の昔から「人は城、、」と言われるように、人材の大切さは叫ばれている。しかし、ギリギリの土壇場でもこの信条を守り抜ける人は少ないだろう。
「海賊と呼ばれた男」は明治の末期に一代で石油小売店を築いた国岡鐵造(くにおかてつぞう:出光興産の創始者出光佐三がモデル)が、終戦の玉音放送を聴く所から始まる。
「愚痴をやめよ、直ちに建設に取りかかれ。」
鐵造は、茫然自失の社員を終戦二日後に招集し、こう下知する。国内の石油小売各社は戦時下に軍部が指導して作った国策会社「石油配給統制会社(石統)」に入っていたが、鐵造はそれは国内の自由な商いを阻害するもので、国家にも国民にも「為にならない」として真っ向反対し、加盟しなかった。今も昔も日本にありがちな「身内いびり」が始まり、国岡商店は国内では商売できないよう同業者からイジメられていた。
やむなく、当時占領下にあった南方、台湾、韓国、満州と海外に支店を展開し、そこで外資相手に堂々と渡り合って脅威的な売り上げを計上する。それが、終戦と共に灰燼に帰してしまうのだ。建て直しには「馘首致し方無し」と周囲の幹部が進言する。すると鐵造は
「ならん、ひとりの馘首もならん。」(中略)「たしかに国岡商店の事業はすべてなくなった。残っているのは借金ばかりだ.しかしわが社には、何よりも素晴らしい財産が残っている。一千名にものぼる店員たちだ。彼らこそ、国岡商店の最高の資材であり財産である。国岡の社是である『人間尊重』の精神が今こそ発揮されるときではないか」(上巻p20)
もうここを読むだけで滂沱の涙だが、「社歴の浅い店員だけでも。。」と進言する重役に、さらに雷を落す
「馬鹿者!店員は家族と同然である。社歴の浅い深いは関係無い。君たちは家が苦しくなったから、幼い家族を切り捨てるのか」
「人育て」の真骨頂である。

私事で恐縮だが、20数年務めている今の会社で、忘れられない事がある。最初の子を妊娠した14年前、産休に入る直前に昇格試験を受ける年次に当たってしまった。既にお腹は大きく、二ヶ月後には休みに入る予定だったが、試験実施日はまだ在籍していた。当時の上司も周囲も、そして自分自身も「こんなに大きなお腹の妊婦はきっと落されるだろう。」と思っていた。論文試験をパスし、グループ面談に進んで、私が妊婦であると面接官に知れてしまったら、きっと落される。それでも、面談の時に尋ねられた「将来どんな事業を思い描くか自分はそれにどう貢献出来るか。」と問われた時に、本心から「こうしたい」と思う事を述べた。すると後日「まさか通ると思わなかった驚きだ。」と当時の上司から合格した事を告げられた。(僅か14年前でもこんな上司の方が普通でした、、今なら、パワハラ、セクハラものですな。)
あの時、あの場に居た五人の面接官にどれだけ感謝したかわからない。私の将来の可能性のみを評価してくれたのだ。当時は産休/育休を取って、そのまま会社に復帰しない女性も多かった。私がしれっと休むだけ休んで退職してしまうだろうと見られやすい世の中だった。それでも面談の内容のみを公平に評価してくれた事は
「雑音に振り回されず、評価すべき点のみを評価する」
という筋の通った態度をとったわけで、それが私に与えた影響は計り知れない。その後の社内評価は決して恵まれているとは言えないけれど、たった一時、自分を信頼してくれた人達が居た(当時の面接官はとっくに退職されてきっと今は居ないだろうし、どの部署の方かも判らない)という事にどれだけ助けられたか判らない。人は信頼される事で、苦しくとも奮い立つ事が出来るのだと身に染みて思う。だから、鐵造の言葉はどうしても涙無しには読めないのだ。

国岡商店の創業当時は、鐵造自ら講師を勤め、若い社員を社内夜学で教えたという。より高度な知識と見識を身につけるべく、懇切丁寧、辛抱強く教え、手塩にかけて育てた店員達は、簡単に置き換えの効く「人員」なぞという存在では無く、まさに国岡商店にとって、なくてはならない存在なのだ。
こんな風に丁寧な「人育て」をしていた企業は、戦前/戦後と多かったように思う。実際に知ってる例では、松下幸之助も工場の工員が学べるように夜学を開いていたし、東レもそうだったと記憶する。国全体が貧しく、不況の嵐が吹くと、働きに出なければならなかった若者達が大量に生まれた。彼、彼女らに学ぶ機会を与え、社会の一員として育て上げる、企業はそんな役割を担っていた。この一見すぐ効果が現れない地道な育成が、後の幾多の苦境を乗り越える底力となって発揮される。色々な意味で「日本の特徴」と言っていいと思う。
この主人公鐵造を中心に、登場する男達はどの人物も鐵造が繰り出す難題に「出来ません」と簡単には言わず、考え抜き、辛い仕事にも何度でも挑む、満身創痍の戦士達だ。


シレッとスマートな海軍大佐が学んだ事
最も印象的なのは、戦後「ラジオ修理事業」を国岡でやらないかとら持ちかけた海軍大佐藤本のエピソードだ。とにかく、石油が一滴も無く商いができない国岡は、社員を食わせる為にどんな事業もやった。選り好みせず、農業漁業まで取り組んだとか。。。どれも赤字で採算が合わず、糊口を凌ぐ状態だった。
ラジオ修理はGHQの指導で、広く民主主義を浸透させる為に、それを伝えるデバイスが必要でラジオを行き渡らせる必要があった。ところが当時の日本には新しくラジオを生産する力が無い。急場凌ぎに「壊れて放置されたラジオでもいいから直せ!」となったわけで、この事を知った藤本は、かつての部下達で海軍の技術畑の退役軍人達を修理に当たらせようと事業プランを考えた。国岡に話を持ち込んだ藤本は、即断即決する鐵造に舌を巻く。ところが、この後本当の「鐵造の人育て」に遭遇するあたりが面白い。
「この事業をするには五百万円用意して頂かなければなりません。」
藤本が事業プランを練って鐵造に進言するが、一言
「君はその金額を経理に用意しろと言うのかね。君に事業部長を任せた以上、一国一城の主だ。他はどうか知らんが、金の工面も事業部長の仕事だ。」
と言われてあっと気が付く。さればと銀行に融資の相談に行くが「元海軍大佐だった」と名乗った事によって
「戦艦大和の様な、大変な無駄遣いをしておきながら、、、銀行屋に言わせれば海軍は経済がわかっていない。」
と痛罵される。
「自分は真に海軍気質が抜けて居なかった、申請したらそれで金が降りると思う甘さがあった。」
と、ものの見方をガラリと転換させる。融資願いに訪ねる時に、ラジオの修理を銀行担当者の前で実演し、それまで門前払いだった銀行サイドの興味をひいて、何とか前向きな回答を得る。この気付きと、軌道修正の柔軟さはとても印象的で心に残る。

実は、この本を読む前に「戦艦大和の最後」(吉田満著)を読んだのだが、そのあとがきにこんな一節がある。
海軍の人間にはどんな雑兵に至るまで今も共通の面差しが残っている。海軍士官はシレッとした動作が身につくよう心がけた。しかし今度の戦争で、その開始から終局まで陸軍を中心とする無思慮と蛮勇に海軍が押切られる場面が多かったのは、シレッとし過ぎた結果ともいえるのではないか。いつの頃か、ネーヴィーの伝統に一種のエリート意識、みずからの手を汚すことを潔しとせぬ貴族趣味が加わり、受け入れ難い相手とトコトンまで争わずに、自分の主張、確信だけを出して事を決着する正念場から身を引くという通弊が生まれた。(「海軍という世界」『勝海舟全集』第十六巻月報より 司馬遼太郎)
ドキッとする人も多いのではないか。元々優秀で資質のある人間でも、環境によっては身を労する事をサボってしまう。自分の回りのみ身綺麗にして、やり過ごそうとする姿勢は、現代人にも、否、分業化が行く所まで進んでしまった現代だからこそ、この藤本のエピソードに、何らかの内省を感ぜずにはいられない。


生きたビジョン
鐵造は、神戸商業高校(現神戸大学)に学んだ時に、後の社是とも言える幾つかのビジョンを示す言葉に出会う。組織の長たるもの「ビジョン」無しには夜も日も明けないのが、昨今の常識だか、以下に挙げるものは、誰にもわかりやすく、且つ「お!それに自分も乗りたい」と思わせる魅力がある。ビジョンの有るべき本質を捉えていてとても秀逸に感じる。

●士魂商才
鐵造が創業時に恩師からもらった言葉で「武士のこころをもって、商いせよ」という意味。武士と商人という江戸時代の身分制度の一番上と下という組み合わせが妙だが、この相入れない役割の全く違う二つを成り立たせる為には自ずと考え続けなければならない。考え続ける体質を持った組織は強い。

●黄金の奴隷たる勿れ
神戸商業高校の学生達の間で言い交わされた言葉。第一次大戦の戦勝景気で出現した「成金」が同校で演説した時に「所詮、金儲けや!」と言い放った事に学生達は若者らしく反発してこう語り合う。若き日の「青臭い理想」はやはり大事だ。鐵造が先頭に立って喧嘩を仕掛ける時に常にこれが行動指針になっているのが、よくわかる。

●大地域小売業
中間搾取を出来るだけ抜いて生産者と消費者を繋げる流通の在り方。当時、工業化の躍進に伴って消費者が購買力を付け、需要がどんどん増して、これまでの流通方法では供給が追いつかなくなって来ていた。その時代の趨勢を読んで、創業当時から目指した商いの在り方。このアイデアの筋目の良さに真っ先に気が付いたのは、鐵造の創業時に資金援助をした日田という人物。この人が寄せた鐵造への信頼が後の国岡商店を作ったと言っても過言では無く、結局「人育て」は世代を越えるレンジで考えなければならない事がよくわかる。

鐵造の姿勢は、徹頭徹尾「店員達の能力を信じ、自らの行いが天に恥じる所は無いか常に見つめ、本当に解は無いのか考え抜く」事に貫かれている。トップとしての仕事
大勢におもねらず敢然と喧嘩を仕掛け、向かうべきビションを常に示す。
をする姿勢は、この闘将の元だったら奮い立って働くだろうと、各エピソードは物語る。

タイムカードも、労働組合も、定年も無く(注:現在の出光には有るらしい)それを知った官僚が「こんな宗教じみた会社上手く行くはずが無い。」といぶかる社風であるが、一度社員達の働きと、鐵造の寄せる信頼に触れると「これぞ!」と惚れ込んでしまう。
Amazonの書評に「今度から出光のカードを作る!」と書いている人があったが、機会があれば私も出光を選びそうだ。百田氏は
「この忘れられていた真実を小説に書いて、今の日本人に何かを思い出してもらいたい。」
と語る。どの会社にも「創業の理念」があり、それは「金儲け」ばかりで無い何かがあったのでは無いか、、、。
自分の足元からもう一度見つめたいと思わせる、味わい深い作品だ。

【追記】
少し出光興産の事をネットで調べたら、バブル期に「2兆円クラブ」(有利子負債額)という、ありがたく無いあだ名がついていたそうだ。日産、ダイエー、出光で構成された、このクラブから他社や政府の資金援助を受けずに、自力で脱出出来たのは出光のみと言う。偉大な創始者亡き後の、企業の危機と再生にも非常に興味がある。(皆さんAppleを思い浮かべるのでは?)機会があれば読んでみようか。

出光興産の自己革新

2013年1月28日月曜日

魂をわしづかみ「永遠の0」百田直樹著

「俺は価値の無い作家や!本屋に並んでいる本の殆どがそうや!真に残るのは司馬遼太郎とか〇〇○(←忘れました:筆者注)とかや!後は屑や!」
印象的な手書きの帯び。これは確かに凄い。
百田氏のTwitter(@hyakutanaoki) をいつからフォローしたのか忘れてしまったが、とにかくびっくりするような下ネタ(とても引用出来ない内容、、、)を連発するかと思えば、こんな風に自虐的な事をつぶやいてドキッとさせる作家さんだ。作品を読むよりもその発言が印象的で「ただものではない」感いっぱい。いつか読もうと思いながら、処女作をやっと読む。

、、、、凄い作品だった。一気に読ませる力があると同時に、実は堅牢な構成に支えられた骨太の作品で、最初は表面的な演出の上手さに圧倒されてしまったが、後からジワリと来るものがある。今でも「どうしてかなぁ」と考えているし、間違いなく今年ナンバー1だろう。
 年末の映画公開が楽しみだ。ネタバレ無しに感想を書くのは難しいが、出来るだけギリギリ低空飛行でポイントを走り書きたいと思う。


この話のテーマは「戦争」では無い
百田氏は映画の公式サイトに短くこのように寄せている。
この映画のテーマは「戦争」ではありません。「人は何のために生きるのか」「誰の為に生きるのか」を現代の人々に問いかけた物語です。
この小説を読んだ事があれば、これだけ微に入り細にわたり太平洋戦争の事を書いていて「戦争の話じゃないの?」と言いたくなるだろう。でも、よくよく考えてみると確かに、作者が一番言いたい主題はこの言葉に込められている。

下手をすると日本がアメリカと戦争をしていた事を知らない若者が居ると聞く。そんな人が読んでも、基本的な「太平洋戦争」のアウトラインが理解出来、歴史学習という点でも一役貢献しているが、表層の話を追うのに夢中になると、作者が仕掛けた精緻な伏線に気が付かずに通り過ぎてしまう。見事と言える重層構造に、誰かと話をしたい衝動に駆られるが、今回は伏線のポイントをあげて映画が公開されたあたりに、またネタバレ込みで話をしよう。


ゼロファイター
この小説のあらすじは、零戦に乗って特攻で亡くなった自分達の祖父(宮部久蔵)の足跡を二人の成人した孫姉弟が追う形で進む。高齢になった元特攻隊員達に話を聞くうち、祖父が凄腕の零戦乗りで、しかも「臆病者」だと評価される事に行き当たる。

兵器や戦記に殆ど関心が無かった私は、零戦がいかに凄い戦闘機だったのか、この小説で初めて知った。(横道に逸れるけれど、昭和40〜60年代は反戦気運が強く、兵器の事を語るだけで「軍国主義者」とレッテルを貼られる空気があったように思う。)

言わば「空飛ぶオートバイ」のような、燃費の良さと機動性の高さは、当時の戦闘機では郡を抜いていたという。

私でも、開発秘話や、操るに必要な飛行テクニックの話は、思わず興奮してしまう。そして、つくづく「日本は現場擦り合わせ」の世界であると改めて認識した。(加藤陽子先生や池田信夫氏の言う通り、色々な意味で最強のお家芸だ。)

設計も、生産も、整備も、運用(パイロット)も、まるで申し合わせたように「阿吽の呼吸」で,精緻に組み上げて結果を出す。資源は乏しいけれど、小さな集団の中でずっと顔を突き合わせて何世紀も暮らして来た民族ならではの連携力は、他国から見れば「気味が悪い」と映る事もあったろう。

「誰が使うか想定出来ないから、出来るだけ使い方は簡単にしよう。」

と 発想出来る米軍に、戦争末期は物量で押されて全く歯が立たなかったのは周知の事だが、、、
  • 一度決めた事の見直しが苦手
  • 成功/失敗体験どちらにも引っぱられ過ぎる傾向
  • 精緻で我慢強く、優秀な現場が何とかしてしまう「現場ガンバリズム」
  • 「現場が何とかするだろう」と上が下に甘える構造
は見逃してはならない。現代のサラリーマンでこの事に涙しない人は居ないだろう。

全面的に石油を止められているのに(自国では一滴も出ないのに)アメリカと戦争を始めて何とかなると思ってしまうのは、局地戦は器用で得意だが、誰も「大局観」を見渡せない、否「見渡せる人がトップに着かない(疎まれて排斥されるので)」という、今聞いても笑えない構造が存在する。物語の中で語られる零戦の栄光と衰退は、古くて新しい話だ。


囲碁の達人
この物語で次に大事なモチーフと思うのは、この主人公(宮部久蔵)が囲碁の達人である事だ。私は囲碁に詳しく無いが、歴史の先生方は、日中戦争をこう喩える。
将棋と間違えて囲碁を打つ
あの戦争が泥沼化してしまった最大の原因を示す言葉で、大将の首を取れば、首都を落せば戦が終わると思い込んで、囲碁戦(陣地取りゲーム)を将棋と間違えてしてしまったのが日中戦争であると。。。物語でも囲碁好きの少佐に
「山本五十六大将も、将棋では無く囲碁の素養があればもっとこの戦争は違う局面になったのに。」
と、きわどい発言をさせている。次々と都市を落して快進撃のつもりで中国大陸深く前線を伸ばしてしまった日本陸軍は「駄目と分かったらいつでも陣地を落して後方へ引く」中国古来の戦法に気が付かず、どんどん補給線を伸ばして疲弊してしまった。

そもそも囲碁は中国で占いとして使われていた物が転じて「領土を奪う戦略」のシミュレーションとして発達したと言われている。毛沢東は共産党軍の将校達に、囲碁をさせたとか。。。

一度置いた石は動かす事が出来ず、相手の石に取り囲まれたらその石は取られて相手の陣地となる。石の置き方一つでその後の展開を何パターンも考えるのは、かなりの知性が必要で、将棋と基本的な思考パターンが違うという。
そして、囲碁の用語は実に多く生活に入り込んでいて、調べて驚いてしまった。
  • 一目置く(いちもく おく)
  • 駄目押し
  • 布石
  • 定石
  • 捨て石
  • 死活
  • 大局観
ビジネス書でこの言葉を使わずに文章を書くのは難しいだろう。本気で囲碁棋士を目指そうとしたという主人公のキャラクター設定に、作者の深い意図を感じるのだが、これ以上書くとネタバレになってしまうので、詳細は映画を観た後にでも。


戦後の生活クオリティを分けた士官候補生と下士官
最後に、これはなかなか気が付かないと思えるポイントを!
物語は生き残った老兵達が、インタビューに応えるオムニバス形式で構成される。彼らの口を通して、謎の人「宮部久蔵」の人物像があぶり出されるが、同時に太平洋戦争の全容も理解出来るようになっている。最初に読むと、そのストーリーを追うのに夢中で「誰が」語ったのかは、あまり注目出来ない。

ところが、物語のクライマックスの謎を考えると、ふと証言をした老兵達の事が気になった。もう一度拾い読みすると、作者は各老兵の戦後から今にかけての暮らしぶりを必ず描写している。注意深く読み返すと、そこに一本の区切り線がある事が判る。「士官」という等級だ。

主人公の宮部は「下士官」と言って、若い頃に海軍に入隊しているが、高等教育を受けていない為に「士官」に昇る術が無い。どんなに優秀でもそれ以上の昇進は無く、宮部の世代は「昭和恐慌」のあおりを受けて、高等教育を受けられなかった若者が、大量に軍へと流れた事を伺わせる。

一方、物語後半に登場する証言者は、みな「士官候補生」で学徒動員で大学の勉学途中で「軍隊に取られた」人達である。
今では大学生と聴いても何の価値も感じられないが、70年前は大変なエリートで、その知性は今の大学生は遠く及ばない。
「戦艦大和の最後」を読んだが、これが僅か二十歳前後の学生の文章だろうかと思う程、深い知性と思慮に裏付けられている。
「何の為に自分達は死ななければならないのか、その価値は何なのか。自分達の死をせめて価値あるものにしたいのだ。」
無謀な「海上特攻」を命じられた大和の乗組員の士官候補生は談話室で喧々諤々、時に取っ組み合いの喧嘩を繰り広げながら、自分達に降り掛かった命運を議論している。
「日本のブレーン」とも言うべき人材を、「保身」と「甘え」の固まりである軍上層部は、一度きりの使い捨てよろしく特攻をさせるという、、、書いていて情けない歴史の事実があるわけだが、主人公の宮部も、この事を同じく苦痛に感じている。

これ以上は、ネタバレになるので、今回はここまで!この4つのポイントが重要な伏線ではないかと思うのだ。続きは年末の映画公開の後に。。。 

2013年1月14日月曜日

だまし絵的映画?「インセプション」の遅めの鑑賞感想

2010年の作品
お正月休みにiTunesでレンタルした映画。ついこの前と思っていたのに、公開が2010年と知って愕然。。。ロードショー中の映画を観たい時に観られる幸せ、、いつになったら子どもの手がかからなくなる事やら。。

そんな事はさておき、観た人数人が「何が何だか全くわからなかった。」と言うのを聞いてずっと気になっていた。噂に違わず難解な映画である。
このブログで映画感想は初めてかも知れないけれど、凄く気になる内容だったので、感想と私なりの解釈を。。
【!注意!】
完全にネタバレです。バラさないと書きようがなくて。でも一度も観た事無い方には読んでも内容がチンプンカンプンかもしれません。一度観てる人ならば「なるほど」とおさらいに。。。この映画の解釈はいろいろ分かれているそうですが、これはあくまで私の解釈である事をお断りしておきます。


Dream in a Dream(夢の中の夢)
夢の中で「あ!夢だったんだ。」って目覚めたのに、実はまだそれも夢で、さらに目が覚める。。こんな経験をした人は多いだろう。明日の朝は遅れちゃいけない、と思って緊張しながら寝た時はそんな感じで、何度も夢の中で遅刻する夢を見て、目覚めていたような気がする。
バットマンシリーズ(ビギンズ/ダークナイト/ライジング)の監督クリストファー・ノーランが手掛けるこの「インセプション」はそんな風に夢(潜在意識)の中にまた夢があって、そのさらに下に夢があって、、と縦構造に夢が階層化されている。その夢を深く深く潜り込み、他人の潜在意識にアイデアを埋め込んで、あたかも自分が考えついた全くのオリジナルなアイデアだと思い込ませる「刷り込み屋」の話である。(主役のドミニコ・コブ役はレオナルド・デュカプリオ)
経済界の大物サイトー(渡辺謙)が競合相手の会社を潰す為に、もうすぐ跡取りとなるであろうその会社の御曹司ロバート(キリアン・マーフィ)の潜在意識に植え込み(インセプション)を行って欲しいと、コブに依頼をする。コブは「潜り込み」に必要なメンバーを集め、ロバートへのインセプションを敢行するのだが、、コブは愛妻モルとの間に問題を抱えており、夢に潜行すると度々モルが現れて、、、。というのがおおまかなあらすじである。


夢に潜行する時のルール
この映画の面白い所は、実際には「主観的なものである夢」を共有してしまう点。最初に観た時はそのルールがよく分からなくて、確認する為に都合3度も観てしまった!ネット検索すると、その構造とルールを分かり易く図解していた。(自分で描こうと思ったけど同じ事を考えている人が居たのね)
  • 共有したい仲間同士は「夢共有マシン(?)」をハブにしてケーブルを腕に巻いて眠りにつく。
  • この時誰か一人が「幹事役」になってその人が見る夢に残りのみんなが入る。
  • さらにその下の階層の夢に行く時は「幹事役」は自分の夢の中に残らなくてはならず、眠っているみんなの面倒を見る。(脱出して現実世界へ登って行く時にタイミングを合わせるんですね)
  • 夢は深くなるほど時間が20倍になるので、現実世界では1分が→その下の階層の夢では20分→さらに下では400分(6時間40分)とどんどん長くなる。
大雑把に言うとこんな所で、このくらいは予備知識が無くても初見で何となく把握出来るレベルだ。
上図はその仕組みを分かり易く図解している。でも問題はここから、、。この図で示されている「依頼を遂行」するストーリーの核部分に気を取られていると、エンディングに「あれ?」と思ってしまう。


樺沢解釈
先日のエントリーで樺沢紫苑さんの著作を紹介したが、この映画好きの先生はやっぱり予想した通り「インセプション」に関して独自の解釈を展開しておられた。詳細は樺沢氏発行のメルマガ「映画の精神医学」(まぐまぐ:登録無料)のバックナンバーに書かれているので、(2010年9月13日、28日号)機会があればお読み頂きたい。樺沢氏も「自分なりの考えだが」と前置きして、この映画の巧妙さをこう指摘している。(以下、ネタバレ。メルマガもかなり長いので要約してみました。)
実はこの映画は全編「夢の中」だとノーラン監督は仕掛けている。大半の人はそれに気がつかない。その根拠は、、
エンディングでコブは切望していた我が家へ帰還するが「これは現実か?」と確認する為にコマ(コブのトーテム)を回す。ずっと周り続けるとそれは夢で、バランスを崩して止まれば現実だが、止まるか止まらないかのギリギリで暗転する。このエンディングの解釈で議論が分かれているが、樺沢氏は「ノーラン監督なら曖昧に『解釈は観客に委ねる』という終わり方をしない。(緻密な演出をする監督なので)ノーランが想定するエンディングがあるだろう。」と予想する。
そして「トーテム(夢か現実かを判断するお守り)は他人に触らせてしまうと、夢を乗っ取られてしまうので触らせてはならない。 」とルール設定しているが、実は映画の一番最初でそのルールは「無効だ」と宣言する描写があると指摘している。(老人の特殊メイクをした渡辺謙が「このコマを知っている」とコブのトーテムを触っている)→だから「コマが倒れたら現実」とは言えない。
現実世界に見せている描写も、時間と場所のつなぎがいい加減で、全て主人公コブに都合良く「こうなって欲しい」と望む展開する。これはいかにも「夢の特性」をよく表現していて、ノーラン監督は意図的にそう演出している。(パリに居るはずの義父がなぜかロサンジェルスの到着ロビーで待っているとか、、)
最初のシーン「サイトー(渡辺謙)の日本風家屋」と最後にコブがサイトーを迎えに行くシーンは、そっくり同じで最初のシーンが「回想シーン」に見えるが、実は二つは違うもので(台詞が似ているけど決定的な所が違う)サイトーが見る夢の中でコブが望む「現実世界」へサイトーがコブを連れて行って「成仏」させているのだ。。
という内容。これを最初に読んだ時は「え!そうなの!」とかなりショックで、この解釈を念頭に入れながら、2度さらに観てしまった。
謙さん最初の登場シーンがなんとこの老け役。背中からのショットは凄く老人っぽくて感じが出ていた。


ペンローズの階段
映画でも出て来るペンローズの階段
不可能図と言われるペンローズの階段
 映画で、アーサー(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット)がアリアドネ(エレン・ペイジ)相手に、ペンローズの階段の説明をするシーンがある。有名な騙し絵だが、実際に作るのは不可能で、映画でも「パラドックスだ」と言いながら見る角度によって「種明かしが出来る」とでも言いたげなシーンがある。(つなぎ目無く続く階段も実は途中で途切れていて、見る角度で錯覚を起こしている。アーサーがホテルの無重力の中で格闘する時も同じ表現がある。)
樺沢解釈に「そうかぁ〜!」と興奮しつつも、何となく釈然としない。物語に緻密なルールを設定しているノーラン監督の事だから、「あ、そっか」とスパッと解釈で来そうな気がするのだが、樺沢説を支持するとなると、先に挙げた「夢の中に入って行く時のルール」との整合性に妙に悩んでしまう。(メルマガも二度読み返したけれどやっぱり分からず)この映画全体が夢で、それがサイトーが主幹元の夢だとすると、
  • 現実はどこにあるのか?
  • 実在した人物は誰?(サイトーとコブだけ?)
  • コブはサイトーの夢の中に入り込んで出られなくなった「すり替え人」?(サイトーが一番始めに「夢で出会った男」とコブの事を言っているから可能性は高い。)
  • じゃあコブって居る人なの???(そもそも生きているのかしら?)
因に、樺沢説では全体が夢であるなら、サイトーとコブ以外は全員コブが作り出した「陰」であるというような主張をしている。
まるで、映画全体がペンローズの階段のように思えるのだ。いかにもつなぎ目がスムーズに理論だっているようでいて、「あれ?おかしい?」と。。最初と最後のつなぎがおかしい事までは分かるけど、じゃあどっちがどうなのかと考えはじめると混乱する。ノーラン監督がほくそ笑んでいるようで、本当に「奇才」だと脱帽してしまう。(私の脳みそではもう限界)


二人の女性性
ワールドプレミアにて
出口の無い回答を堂々巡りしていても、仕方無いので、最後に、この映画に登場する二人の女性に注目したい。一人はコブの妻モル(マリオン・コティヤール:写真左))もう一人は、コブが夢の中の街の設計士としてスカウトするアリアドネ(エレン・ペイジ:写真右)。
この二人はどの面をとっても正反対で、コブにとって(或は男性全般にとって)二人は究極の女性性を表しているんだと感じた。


グレートマザー的モル
「モル」という名前からして変わっている。ちょっと調べてみたが、malは接頭語で「不全な、悪い」という意味になるらしい。この事も非常に意味深。。。
演じたマリオンは女性の私が見ても「ああいいなぁ。」と思う、大人の知性と色気を感じさせる女性だ。コブがベタ惚れしてしまうのがよくわかる。二人はどうやら建築科の学生だったらしく、成績優秀だったコブは、その恩師の愛娘モルと結婚したらしい。
コブはモルと共に潜在意識に潜って、自分達の思う通りの都市設計を延々と繰り返し、50年という歳月を二人っきりで過ごしてしまう。(現実では数時間のうたた寝程度なのだけれど)全能感に満ちあふれた世界から、モルは出るのを嫌がり、コブは「ずっとここで暮らす事は出来無い。」と畏怖の念を抱き始める。
このワンショットだけで相思相愛ぶりがよくわかる。
 モルの潜在意識に「これは夢だ」と埋め込んで(インセプション)無理に現実世界へ二人は戻って来るのだが、それを受け入れられないモルは、夫を陥れる策を巡らせて、コブの目の前で投身自殺をしてしまう。(死ねばまたあの世界に戻れると。。)
砂のお城が風と波で崩れてゆく、コブとモルの「リンボー(虚無)の世界
以来、罪悪感に苛まれ続けているコブは、妻を殺害した容疑で追われ、二人の子ども達とも会えないでいる。(この一連の話は現実にあった事なのかどうなのか、、それを考え出すと頭が痛くなるので、とりあえず置いておく)
この一連の描写がいかにもだなぁと思うのである。
女性が見ても「お!」と思うこの色気。
潜在意識下(闇や夢)は多くの神話が女性性と結びつけている。潜った先を出たがらなかったのは、コブでは無くモルだった事は非常に暗示的で、思わず「ギリシャ神話のエウデュケ」や「古事記のイザナミ」を思い出す。(どちらも妻が黄泉の国へ行ってしまい夫が連れ戻そうとするが失敗する。)
モルは全編を通し、魅惑的でありながら、ちょっと怖くて困った存在としてコブをずっと悩ませる。
「約束したでしょ?なすべきことをして。」
昔の言質をたてに、行動を促す魅力的な妻。男性は女性のこんな面がきっと恐ろしいに違いない。逃げ出したい衝動と、でも逃げられない魅力。。ディカプリオは、一人の女性を一途に愛しながら内面の葛藤を抱える役をやらせたら天下一品だと思う。(まあ、俳優として基本スキルなんでしょうが。。)しかし、容姿がそれに見合っていないと「単なる鬼婆」よねと思って自戒に務めるわけである。


知性の光を持つ守護天使アリアドネ
「僕みたいに優秀な学生は?」とスカウトしたアリアドネ
「アリアドネ」と言えば、言わずと知れた「アリアドネの糸」の女神を模しているとしか思え無い。テーセウスがミノタウロスの迷宮から出られるように糸巻を渡した女神の名前だ。(ギリシャ神話)この映画でも、モルと対照的で少女のような透明な容姿と、最後の階層までコブに付き合って同道する女性であり、コブが義父に頼んで
「自分と同じくらいに優秀な学生を紹介して欲しい。」
と言って現れたのが、アリアドネだ。彼女は教授が推薦するだけあって、建造物をイマジネーションする力に優れ、トレーニング中もコブにその実力を認めさせる。樺沢氏は
「アリアドネは、コブにとって最も都合のいい女性で、彼が『こんな人物なら自分を救い出してくれるに違いない』と投影した陰だ。」(メルマガより)
と 解説する。非常に鋭い分析で、映画でも彼女の個性はガラスの様に透明で、コブが心で思っていても出せない事を、顕在化する役割を担っている。重要な役割を担っているのに、モルと対照的で人間臭さがまるで感じられないのは、役割だけが結晶化したようなキャラクターだからだろう。
一度だけモルが「あんたは誰?」とアリアドネに対峙するシーンがあるが、基本的にモルはアリアドネが眼中に無く、アリアドネもそれがさして悔しいという訳でない。それは、互いが、コブを中心として存在しているからだろう事を考えると、納得出来てなかなか憎い演出である。

ゆっくり映画を観る時間がこの所少しづつ取れるようになったので、本と合わせて意識的に観るようにしなきゃなとつくづく思う。少なくとも、今話題のノーラン監督のバットマンシリーズ三部作は遅まきながらも観なきゃ。

2013年1月12日土曜日

「父親はどこへ消えたか」樺沢紫苑著

ハリウッドから日本アニメまで
久しぶりに「続きが読みたい、、でも読み終わるのが寂しい!」本に出会った。去年は「中国化する日本」がヒットだったけれど、今年は早くもこの本がベスト3にランク・イン?!映画がとにかく観たくなる本だ。
「現代は父性喪失の時代で、みんなそれを探そうとしている。」
ごく端的に言ってしまえば、著者の樺沢氏はそう主張している。「父性」というキーワードにピンと来たので、是非読みたいと初版を速攻で注文した。


河合隼雄と父性
20年以上前。妙に心理学の本にかぶれた時期がある。むさぼるようにユング系の本を読み倒した。思えば「遅めの通過儀礼」だったのかも。。この時に読んだ、河合隼雄さんの本はとても面白かった。河合さんは日本へ最初に「ユング心理学」を紹介した人で、日本の心理学草分けの人である。
ユングは「集合無意識(民族が共通して持つ無意識)は神話という形で現れる」と主張しているが、河合さんはこの考えをベースに、現代で語られる物語(1970~80年代頃)にも、それが顕著に現れている事を興味深く説いていた。(参照:「子どもの本を読む」「ファンタジーを読む」※どちらも絶版なのが寂しい。

今回の「父親はどこに消えた」は題材を「映画」に求め、独自の解釈を展開している所がとてもユニークで、河合さんの本を読むような懐かしさを感じる。

どの本だったか忘れてしまったが、
日本は母性原理が強い国だ。
と河合さんは説いている。私は直感で納得してしまったが、恐らく多くの方も同意見だろう。ユングが「原型」の一つと称している「グレードマザー(大母)」は、育み包むポジティブな面と、喰らい飲み込むネガティブな面、両方を併せ持つ原初的存在(ウロボロス)で、判り易く言えば「母なる大地」である。自分の母親を思い出せば「ああ、そのままだ!」とすぐ理解してしまった。
今でも、平日の昼間に新大久保や高級ホテルのランチタイムを覗いてみれば、そこはグレートマザー達で溢れている。

だが「ユング心理学の大御所」河合隼雄をしても「父性」については今ひとつ明快で無く、難解で、実感を伴って理解しにくかった。20年前の私は単純に「西洋文明圏は父性的なのかな?」と思うしかなく、まだまだ社会経験の浅い年齢だから「腑に落ちなかった」のだろう。
樺沢氏も、
「これまで父性について明確に語った本はごく限られている。」と証言している。(出版記念講演より)
だから、今回の出版は果敢な挑戦と言える。
読み進めてつくづく感じたが「父性」とは非常に「はかなく」「もろく」「時代とともに遷ろう」もので、それでも人間が社会性を獲得してゆく上で欠く事の出来ない重要なファクターであると理解出来る。


壊れた腕輪(ゲド戦記:第二巻より)

ジブリアニメで06年に公開された「ゲド戦記」をご覧んになった人はいるだろうか?私は「ゲド戦記」を先の河合さんの本を通して初めて知った。(「こどもの本を読む」)
これまで読んだ中で5本の指に入る傑作・名作で、往年のファンが多い物語だ。
宮崎駿氏はこの作品の大ファンで、ジブリが映画化するのには大反対。息子の吾朗氏が初監督を務めて大変な物議をかもしたのは、アニメファンなら有名なエピソードだろう。
本書でも、映画「ゲド戦記」の制作裏話にかなり詳しく触れられ、樺沢氏の解釈に私も全く同意見である。(亡くなられる直前の河合隼雄氏が、吾郎監督と対談していたのも本当に意義深い。)
それとは別に、この本の存在そのものが「ゲド戦記に出て来る”壊れた腕輪”」であると少し感動している。なぜなら永らく「父性って何だろう?」と思っていた疑問に、一つの解釈をもたらしてくれたからだ。丁度、半分に壊れた腕輪の片一方がやっと見つかった感じ。(ゲド戦記「壊れた腕輪」のあらすじはブログの巻末に、、。)
改めて、人間の人格形成には「女性性」「男性性」二つどちらも必要なのだと実感したのである。それは、多くの心理学者が言うように、生物学的性別に基づく「女性」「男性」という狭義の意味では無く、男性女性どちらの中にもある「女性性」「男性性」をキチンと認識して統合させる過程の事を言っているのだ。


父性とは
結局、「父性とは何なのか?」という問いに対する詳しい解釈は、是非本書をお読み頂きたい。簡単にまとめると、、
・規範を示すもの
・ビジョンを示すもの
と樺沢氏は収斂されている。別の表現では
・切り離し分かつもの
・闇に光る灯台
とも書いてあって、なかなかいい言葉である。

規範が無く、目指すべき光が無ければ、航行する船はただ彷徨うばかりだ。現代(ここ30~40年間)の抱える問題を臨床の現場から見つめた人ならではの指摘だろう。

往年の名作から始まって「父性の喪失点」とも言えるエポックメークな映画、その後の変遷、日本と海外との違い等々、、、。引用している映画の数は実に100本以上。それこそ、現在公開中の「レ・ミゼラブル」「スカイフォール」は間に合わなかったが、超最新作を網羅した考察は、お世辞抜きに一読に値する。ランダムに列挙すると、、

  • 「ガンダム」と「新世紀エヴァンゲリオン」の登場の意味は?
  • 「オペラ座の怪人」における娘と父親の関係。
  • ジブリアニメのここ数作の変遷が物語る意味
  • 爆発的人気漫画ONE PIECEは何なのか

etc、etc。。

樺沢氏は、
「多くの人が、親との問題を抱えている。自分だけと思いがちだけれど、何らか抱えている人の方が殆どではないか。」(出版記念講演より)
とも言う。こう聞くだけでホッとする人も多いだろう。巻末の「あとがき」で語られる、樺沢氏自身のエピソードも「理論という高みから冷たく言い放つ」のとは違う、人間味や親しみ易さが溢れている。

親と問題を抱えている人も、いない人も、子どもを持つ人も、持たない人も、誰かと関わって生きて行く上で、何かの参考になるのでないだろうか。

丁度、この本を読んでる最中に「インセプション」を観る機会があった。樺沢的視点で見るとこの難解な映画も味わい深く、次回のエントリーはこの「インセプション」の解釈にトライしてみたいと思う。

※ゲド戦記;第二巻「壊れた腕輪」あらすじ
「ゲド戦記」の舞台ある、架空の世界「アーキペラゴ(多島海)」のカルカド国でテナーという女の子が「名前を奪われ」「食らわれし者」としてアチュアンの地下墓所の大巫女として迎えられる。
地下墓所は灯りが全く無く、テナー(大巫女としての名前はアルハ)はその複雑な構造を、手探りで少しづつ覚えて「地下墓所の主」になる事を義務づけられる。
墓所という組織の中で、テナーは一番偉く幼少期から育ててくれたマナン(性別としては男性だけれどこの人は宦官)は何でも言うことを聞き、何くれと無くテナーの面倒をみてくれるが、墓所から出る事は全く許さない。言わば「優しい看守」という存在だ。
この墓所には「エレクアクベの腕輪」と言われる、且つて世界を統治するのに欠かせなかった腕輪の壊れた片方が大切に保管され、何としてでもこれを守らなくてはならない。
一方、成人し魔法使いとなったゲドは、ひょんな事から「エレスアクベ」の腕輪の片方を手に入れ、これを「全(まった)きもの」にする為に、アチュアンにあると言われる、もう片方を取りにこの墓所へやって来る。

第一巻「影との闘い」は主人公はゲドであり、大雑把に言えば、子どもが大人へと成長してゆく自我形成の過程を手に汗握る冒険潭で表現した話と言われている。(事実、一番面白くて人気が高い。)そして、続く第二巻はテナーの置かれた状況を中心に、後半は侵入して来たゲドとの関係が重要になる。河合隼雄氏は「第二巻:壊れた腕輪」は女性が自己を認識し、自我に目覚めてゆく過程をよく表している。」
と解説していたが、含蓄のある言葉だ。
墓所全体は「グレードマザー的」であり、それに向って「光(ロゴス)」を持って穴をこじ開けて侵入したゲドは「社会性」への踏み出しを意味している。アルハ(テナー)はその侵入に怒り、ゲドに瀕死の重症を負わせて、亡きものにしようとするが、一度「光」の存在を知ってしまったアルハの中で本来の「テナー」が葛藤を始める。
結局、行く手を阻むマナンを地割れの中に突き落として、テナーはゲドと腕輪を携えて外界へ飛び出すが、ここで二人がハッピーエンドで結ばれないところが、ゲド戦記の奥の深さなのだ。
樺沢氏も「父性の役割の一つに、社会への引っ張り出し。」を挙げている。暖かく保護された「巣」の中から独り立ちを促す行為は、時に命がけなのかも知れない。

2013年1月6日日曜日

司馬遼太郎対話選集 全10巻読了

ずっと読み続けていた、司馬さんの対談集をお正月休みに読み終わった。今年最初のエントリーは、この全10巻の感想を簡単に。。
(一時期毎週更新していたけれど、やっぱりアウトプット疲れで、秋から冬はお休みしてました。ボチボチ続けたいと思います。)

読み始めようかどうしようか、悩んでいたのは2011年の中頃ではなかったか。。関川夏央氏の「司馬遼太郎のかたち」 を読んで、関川氏の巧みな原稿編集に「この人いい仕事するな。」と思っていたが、この「対話選集」も関川氏監修と知って、読みたい気持ちがムクムクと湧いた覚えがある。
途中、読書塾を3サイクル受講したりで、読み進めるペースが遅くなったが、ポツポツと買い集めて最初から最後まで何とか一年かけて読み切った。

最近よく見る、さらりと読み易いビジネス本に比べたら、一冊一冊、(その中に書かれている一つ一つの対談)が噛みごたえがあって、私レベルではまだまだ消化不良で、大きな「謎」が塊としてゴロゴロ頭の中に残った状態だ。高い教養や人間性を持った人同士の対談は、たった一言に「鮮やかな見識」が込められている。他の本を読んで「ああ、あの時言ってた事はこれか!」と気がつく事が多い。
司馬さんの小説やエッセイは読み易くて面白いが、それを支える土台となった「恐るべき知識量と洞察力」を伺い知るには、講演録や対談録を読むとよく判る。(これだけどんなジャンルの相手が来ても読ませる内容の対談が出来るのはそう無いと思う。)

対談相手は蒼々たるメンバーで、司馬さんをはじめ殆どの方が鬼籍に入っている。1970年頃から最晩年の1996年まで、日本の高度経済成長が終わりバブル経済や東西冷戦終結等、いま振り返っても、今日に至る分岐点の時代に語られていた内容だと思うと、どれもが意義深い。

各巻はタイトルが物語るように、テーマを持ってまとめられており、必ずしも時代順では無い。様々な出版社に存在する対談原稿と、その当時の担当者へのインタビューが行われ、その頃の時代背景が各章ごとに丁寧に整理されている。
又、巻末の「あとがき」は作家「関川夏央」が解釈する、対談相手とその時代や興味深いエピソードで、このあとがきだけでも、もう一度読み通す価値がある。

特に、湯川秀樹と「日本人はどこから来てどんな人種で構成されているのか?」と言った対談や、山本七平との「見えざる相剋」、岡本太郎と意外にも意気投合している事や、ダンディーな梅棹忠夫、桑原武夫と言った京都学派とはとても親しかった事を知ると、「一度でいいから、生で対談を聴きたかった。」とつくづく思う。

「座談の名手」「人たらし」と言われた司馬さんは、本当に話好きで、作家としてデビューしようかという頃、知人に自分の文章を読んでもらったら
「面白いけど、普段お前が話す方がもっと面白い。」
と言われて軽くショックを受けたそうだ(関川氏あとがきより)。そこで、出来るだけ自分がふだん話をする調子で、文章を書こうと試みたとか。。

インターネットが普通となり、スマフォという小さなコンピュータを子どもまでもが持ち歩く現代を司馬さんが見たら何と言うだろう。

「これが文明というものです。たれもが簡単なルールを覚えればそれに参加出来る。それが文明なのです。」(司馬遼太郎)

ああ、今でもこの定義はピタリ当てはまる。やっぱり司馬さんって凄い。