2012年4月21日土曜日

アゴラ読書塾Part2第3回「北一輝」渡辺京二著 〜早熟の思想家〜

病気で片目を失った隻眼の士だった
もう、、本当に難しいお題本だった。読み易いのは出だしの序章のみ。修辞が多くて苦戦した。(読書会の皆さんもそうだったらしい。)

「北一輝(きたいっき)」と聞いて「誰でも知っている」と、、なかなか言いがたい。私も知ったのはつい数年前である。

二・二六事件を起こした青年将校達のイデオローグ(思想の論理的指導者)であるとして処刑されてしまった人物だ。

もちろん、歴史の授業で習った事は無いし、映画「226」(1989)ではキャスティングすらされていない。ここ最近、殆ど映像化された事の無い人物だと思う(wikipadiaによると60〜70年代の映画では取り上げられている。)
しかし、池田先生は「福沢諭吉に匹敵する非常に重要な思想家である」としている。
本書を読んでも、未消化な部分が多く、細部までキチンと理解していない事をお断りした上で、読書会の感想をいくつか述べたい。

青年将校達を魅了した「天皇親政」と北一輝の「国家有機体説」
二・二六事件(1936)は、政争を繰り返して「何も決まらない」政党政治(※1)への苛立ちと、「君側の奸(くんそくのかん)打つべし!」(※2)という主張(昭和維新)を掲げた皇道派の将校(※3)が「天皇親政(天皇が直接政治をとる)」を求めた結果の、軍事クーデター未遂事件である。 
※1 世界恐慌による経済の悪化、農村の疲弊、不安定化した国際社会への対応が遅れた。
※2 天皇の側近達が、天皇を外界と遮断して道を誤らせているとして責める時の標語。
※3 農村出身の兵士達を直接指揮する部隊付き将校が多かったとされる。

ところが、この「北一輝」を読むと、北は「天皇親政」とは言っていない。
この点が非常に危うくアクロバティックな理論構築で、どうやら、青年将校達も内容をキチンと理解しないで、自分達が望んでいる「天皇親政」に近い考えと思い込んでしまったのだろう、、と、著者も池田先生も言う。
そして、それをわざわざ訂正するのでは無く、利用して最終的に目指すところへの「足がかり」にしようとするところが
「北一輝の天才的資質であり、リアリストなところだ。」
というのが、北を正しく理解するポイントらしい。

北一輝が何を目指そうとしていたのか、非常に難解で一口に言うのは難しいが、最終的には「国家社会主義」を目指したと理解出来る。
明治維新を「社会主義革命の道半ば」と規定し、これから最終的な「第二革命」が起きると考えた所に一番の特徴がある。そして最後には「国家有機体論」へつながるのだろうが、、これは、どうみても「天皇親政」には思え無い。。。簡単に図式化してみた。(下図)


北に言わせれば、最終的には天皇ですら「国家」というものの下に位置し、国民(彼は「基層民」と言った)も同じく国家の下にぶら下がる形になるらしい。。
「個が矛盾無く共同的関係にある。」なんて、何だか良さそうな言葉の響きだが、具体的にどんな状態なのだ?と思うと、なかなか理解しがたい。
「今の日本で『維新だ革命だ』と言っても、この当時程にはピンと来ないだろう。社会主義的な考えに人々が傾倒してゆく背景に、『貧困/貧富の格差』という要因を考える事は欠かせない。」
という見解は先日の読書会で一致していた。

知的権威の集まる所
池田先生がしみじみと言う。
「いつも思うのだが、『この人達にはかなわない!』という知的権威が集まる所、その集団がどこに居るのかで、国の在り方と方向性が決まり、世の中を動かすのだと思う。戦前は、それが圧倒的に『軍』に集中していた。」
これから予定している「石原莞爾」あたりはその代表だし、非業の死を遂げた「永田鉄山」もこの「図抜けたエリート」なのだろう。そして、次の見解もうなずける。
「革命初期は、過激で人々を煽る言動を吐ける一流のインテリが出て来るが、はずみが付いて回りだした中期になると『空気の読める凡庸な』牽引者が取って代わってしまう。。」
多分、このパターンはいろいろな所で繰り返されていそうだ。
確かに、石原莞爾は満州事変(1931)では「やりたい放題の問題児」なのに、その後、主張の対立から次第に中央から外されてしまう。もし、永田が相沢事件(1935)で惨殺されなければ、東条が首相になる事も無かった、、と思うと、あの戦争はもっと違う結果になっていたのではと、ついつい考えてしまう。

辛亥革命と大陸浪人
本書では、北一輝が中国の革命運動に13年もの歳月を費やした事も書かれている。熊本出身の宮崎滔天(※4)らと組んで、大陸に革命を起こそうとしている孫文の支援活動に関与している。
※4 元は自由民権派。著者の渡辺氏は「西郷隆盛の意志を継ぐ西郷党の申し子」と表現している。

折しも、昨年は辛亥革命から100年で、ジャッキー・チェン監督の映画「1911」が公開されていた。(観に行けば良かった!)それに関連して、NHKでも「辛亥革命」関連番組が放映されていて、なかなか勉強になった。
あの時代「大陸浪人」と呼ばれた人々が隣国の革命運動に随分関与していたらしい。(私財を投げ打ってバックアップするとか)
「『大陸と連帯して西洋文明に対抗する!』という割と素朴な主張の滔天達に、怜悧な北が心底共感したとは考えがたいが、いずれ自分達も経験するであろう社会革命と、イメージを重ね合わせて、ケーススタディとしようとしたのかも知れない。」と著者は解釈している。(原文はかなり難しいので意訳)
しかし、そんな北も共闘しようとしていた大陸の仲間の子どもを養子として引き取り育てている。(北大輝)
この頃の歴史を考える時、中国と日本の関係を全く語らずに理解するのは難しい。その割に切れ切れにしか自分は知らないなと改めて思う。

「魔王」ぶりの北一輝
後に北と袂を分かった大川周明(思想家)は北の事をこう書いていた。
「是非善悪の物さしなどは、母親の胎内に置き去りにしてきたやう」
手段を選ばぬ生活費の調達ぶりや、説得の為には口から出放題に弁舌を弄する「魔王ぶり」にこのままでは、自分が仏(ほとけ)と対する魔物になってしまうと感じたからだそうだ。しかし、そう言った上で
「別離の根本理由は簡単明瞭である。それは当時の私が北君の体現していた宗教的境地に到達していなかったからである。」
この「宗教的境地」の意味を少し説明すると、北は晩年(処刑されたのは54歳!)
革命は人為的に起こるのでは無く「天測:天のはからい」によってやって来る。到来した時には、少数の革命家集団が、その前髪を誤たず掴まねばならない。
と考えていた事に由来するらしい。なので、組織を作る事にも殆ど熱心で無く、「党思考」の強かった大川とは合わなかった。著者の渡辺氏は
「北は、資本家から金を引き出す時に、恐喝まがいの行動をシャアシャアとしているが、私事を革命事業と関連させて粉飾するような意識からは見事に切り離されていた。(逆に大川は芸者をはべらせながら「十月事件」の謀議をこらすなど、私事を公的に粉飾(『芸者は革命の必要経費』)しなければ気のすまないレベルだ。)」(意訳)
としている。この視点の鋭さは凄い。そして
「北は革命を売ったからだめなのではない。彼の一度も売らなかった革命が彼の「大義」であったからだめなのである。「大義」はニヒリズムを要求する。「権略(その場に応じた策略)」を要求する。「忍辱の鎧」を着る自己犠牲的な革命の行者は、同時に人間をいつでも踏みにじる覚悟のある「魔王」でなければならぬ。「大義」としての革命はかならずこのようなニヒリズムを内包する。この論理の必然のおそろしさを知らぬ戦後進歩主義の極楽とんぼたちだけが、自分はそのわなを抜けられるとおめでたくも過信するのだ。北は「大義」のとらわれびとであった。(文中注は筆者)
との一文を読んで、北が刑死を受け入れた訳がわかったような気がした。この事を理解するにはかなり骨のいることである。

北一輝が先取っていたもの
難解な著作なのだが、ハッとする内容が所々に書かれてなかなかに考えさせられる。
23歳の時(1906 明治39年)に書き上げた「国体論及び純正社会主義」の中で、民主主義革命の中身をこう規定している。
  • 25歳以上の男子普通選挙権
  • 8時間労働制
  • 婦人労働の平等
  • 幼年労働の禁止
  • 孤児・扶養者を欠く老人・身体障がい者の国家扶養
  • 義務教育の10年への延長
  • 生徒への教科書・昼食の無償給付
  • 遺産均等相続  等々
これは、戦後民主主義改革の殆ど全ての項目を先取りしていると著者は言うし、池田先生は、戦後の官僚達にもその考えは継承されていると言う。(北一派の岸信介がその代表)
ただし、女性参政権だけは認めておらず、その理由に
「政治なぞは人生の活動における小さい一部分でしかない。」(であるから、女性が口舌闘争を習慣にしてしまうと、その天性に害を与えてしまう。その天分を家庭と、芸術、教育、学問などの社会的分野で発揮した方がいい、、、という一種の女性崇拝感。)(意訳)
としていたらしい。著者もこんな一言が吐ける所に、北が他の革命イデオローグと一線を画しているとやや評価している。

本当に捉えがたい人物であるし、今でもよくわからないと感じているが、少なくともこれだけ骨太の文章を読むと、何でも物事を簡単に考え、読み易く、判り易いファーストフードな情報に走りがちだった最近の自分の軟弱さを改めて痛感している。(とにかく漢文調はもう外国語なみにわからん!で玄米ご飯を食べてるよう。。)
 アゴラ読書塾は、脳の負荷トレーニングとしては最高レベルではなかろうか。

さて、来週は「山県有朋」(出ました!)本の帯コピーが振るってる。
「不人気なのに権力を保ち続けた、その秘訣とは?」
楽しみである。

2012年4月14日土曜日

アゴラ読書塾Part2第2回「こころ」夏目漱石著 〜現代日本語の父〜

久しぶりにイラストを描いてみました。
永遠の名作、夏目漱石の「こころ」———。のレポーターをまた担当する事に。。。(^^;;
前回、
「次は、夏目漱石の『こころ』にしようかと思う。」
と池田先生が言われた時、思わず挙手してしまった。なぜなら、福沢諭吉と並んで夏目漱石は、日本の近代を語る上で、無くてはならない人物、、、らしいからだ。
『らしい』と付けたのは、これまでちゃんと読んだ事が無く、青空文庫でiphoneにもダウンロードしてあるのに、やっぱり最後まで読み通せない。これは良い機会だった。

遠隔地間のコミュニケーション
「昔は、『火起こし』と言って中継するにも、セッティングに多くのクルーと時間が必要だったものです。なのに、パソコンを立ち上げるだけでいいんだからね。」
と池田先生らしい発言(元NHK!!)
今回は、Skype越しのレポート報告までやってみた。聴く側にお聞き苦しい点もあったと思うが、やってやれない事は無いと実感。
ただ、現場に居れば、聴いている人達の反応が判るので、少しアドリブを入れられるが、遠隔だとそれが難しい。。このジャンル、もっと技術革新の余地がありそうだ。
例えば、会議室に据え置くカメラは360度回転で、発言者を追尾。ズームを利かせて表情をアップしながら、発言を拾うとか、、要は中継の時にカメラマンがする仕事をやるようになると思う。(要素技術はもうあるだろう)手元で書く図を大写しに出来れば、ホワイトボードの役目を果たすだろうし、そこへ別の人も書き込めれば、かなり面白い事が出来そうだ。
最も重要なのは、
好奇心旺盛で共通な関心事を持つグループに適正な価格で供給出来るか。
だろう。池田先生が紹介したように、統計では
「日本人は、職場が大嫌い。」なので、ただでさえ会いたくも無い職場の人間と、やりたくも無い会議が遠方まで追いかけて来るとなると、ゲンナリしてしまう。でも、共通の関心事を持つグループにとっては、安価に距離を縮める事が出来るのはなかなか面白い。大抵その場合は少人数なので、シンプルに必要な機能を盛り込んだツールはきっと望まれるに違いない。Appleあたり、電子教科書と一緒に新しい概念を送り込んで来るだろう。

ポジティブな福沢諭吉/ネガティブな夏目漱石
「こころ」の拙いレポートは、エントリーの後半に転記するとして、昨日の読書会で語られた、「近代化を迎えた時の日本人の自我」に関してメモしたい。

 前回の福沢諭吉もそうだが、夏目漱石もイギリス留学の経験があり「洋行組」として西欧諸国の文明の波にいち早く洗われた知識人であった。池田先生は
「それまで、存在していた『身分制度』が瓦解して、一個人が世間に放逐された時、ポジティブに捉えたのが福沢諭吉であり、ネガティブに受け止めたのが夏目漱石と言える。」
と言う。確かに先週の「福翁自伝」は明るく快活なのに比べ、漱石はいつまでも愁眉を開く事が無い神経質な作家に見える。
「『我が輩は猫である』や『坊ちゃん』あたりまでは、洒脱な俳諧精神に溢れているが、晩年の『こころ』から思弁的(経験に頼らず純粋な論理的思考だけで認識しようとすること。)になって行く。だが、後にも先にも漱石のようにテーマ性を帯びた作家は無く、大正期はチマチマとディテールを追った『私小説』ばかりで、名人芸を楽しむようなものだ。」
、、と、いつもの快刀乱麻ぶり健在である。
洋行組の常として、「日本はこのままではいかん!」と彼の国と比較した自国の有様に、大いに焦ってしまうわけだが、漱石の場合、
「欧米の近代小説(ディケンズやドフトエスキー等)に触れて、大衆が『個人の持つ自我』について語られた文学作品を持っているところに、衝撃を受けたのだろう。」
と池田先生は言う。
「ああ、そうか!それで漱石はロンドンで、心を病んでしまったのか。」
永年の謎がまた一つ解けた。辻馬車やガス灯や鉄道を見て、漱石が憂鬱になったのかと(大久保利通はそれで円形脱毛症になり、、)思っていたが、人は自分の最も関心の高いジャンルに鋭く観察を巡らす、、、。漱石の場合、それが文学だったのだ。当たり前と言えば当たり前だが、外国文学の歴史に暗い私にとって、また一つ蒙が開けて嬉しい。
「あの頃の知識人達は全人口の上位1%未満で、それも殆どが、官僚か軍人になっており、福沢や漱石のように、在野の知識人は極端に数が少なかった。漱石は過渡期の人で、だから『近代知識人』を演じているようにも見える。」
との解釈はなかなか面白い。池田先生が、この頃の人々に注目したのは、現代において、この時解決しきれなかった問題が、また突きつけられているように思うからだそうだ。
それまで、封建社会の身分制度の中で眠るように過ごした「個人」というものが、明治維新で丸裸になって放逐される。そのまま、個人主義の社会へと成熟するかに思われたが、大正/昭和と再び「ムラ」的集団主義の独特な社会(再江戸化)へ戻ってしまった。それが再び変わらざるおえない時期に来ている事を言っているのだ。

漱石が作った現代日本語
昨夜の読書会では、
「『こころ』の筋や設定はともかく、この漱石の文章によって『言文一致』の現代語が確立された。」
と、小説の内容よりも、そちらの功績に注目された。
実は、司馬遼太郎も晩年、漱石の事にたびたび触れ、同じ事を様々な所で、話したり書いたりしている。手元にあった「この国のかたち・三」に丁度良い一節があったので引用したい。
明治の文学の一特徴は、東京うまれの作家の時代であったことである。このことは、明治時代、東京が文明開化の受容と分配の装置であったこととかかわりがある。地方は、新文明の分配を待つだけの存在におちぶれた。
明治になって文章言語も変容してゆくのだが、その言語を変える機能まで東京が独占した。
ふりかえると、三百諸藩にわかれていた江戸時代、藩ごとにあった方言は、それなりの威厳をもっていたが、明治になって。単なる鄙語(ひご)になり、ひとびとは自分のなまりにひけめを感ずるようになった。
地方から出てきて東京で小説を描きはじめた者も、江戸弁をつかうとこにひるんだか、もしくは使えなかった。このために地方出身者はもっぱら美文(当時の用語として、文語のこと)で発表し、やがて東京出身の作家たちによって口語文章語が書かれはじめると、かれらの多くは小説を書くことをやめた。(中略)
それまで、英文学の先生だった夏目漱石(1867〜1916)がにわかに『我が輩は猫である』や『坊ちゃん』などを書きはじめ、いきなり評価を得た。
『坊ちゃん』にはなお式亭三馬のにおいがあったものの、世間は、口語の表現力のゆたかさにおどろかされ、あらそって読み、その文体を学ぼうとした。つまり漱石の文章日本語は社会にとりこまれ、共有されたのである。
その後、漱石の文体は『三四郎』以後落ちつき、未完の『明暗』で完成した。情緒も描写でき、論理も堅牢に構成できるあたらしい文章日本語が、維新後、五十年をへて確立した。(※強調筆者 司馬遼太郎『この国のかたち三』69「小説の言語」より)

最後に、昨夜のレポートを引用して今週のエントリーを終わりたい。
次週は「北一輝」。時代は下って激動の昭和初期に民間人で唯一、二・二六事件で処刑された、イデオローグを取り上げる。なかなか噛みごたえのありそうな人物である。


「アゴラ読書塾 Part2 『こころ』 夏目漱石著」レポート

明治に芽生えた自我と苦悩
恥ずかしながら「こころ」を通読したのは初めてである。高校の教科書に第三部「先生とK」の一部が掲載されて、それを読んだきり、やっぱり「古臭い」と思って全く読もうとしなかった。今回、長年の宿題が片付いた。
時代背景を知る為に、小説が連載された当時と作中の時間軸を年表に落としてみた。
「こころ」が描いた時期

この作品では、明治帝の崩御が描かれている。それを頼りに小説の出来事を年表にプロットすると、明治の終焉を起点に、「私」の目を通しながら、明治を生きた「先生」の生涯が、さかのぼって記述されている。
実際に、「こころ」が朝日新聞に掲載されたのも大正3年からなので、元号が変わった事を契機に、漱石は時代の変化を敏感に感じていたのだろう。
「私」は明治末期に青年期を迎え、来たる大正時代を背負って立つ新世代だが、「先生」に懐かしい親近感を覚えて接近する。
小説の冒頭、鎌倉の海岸で「会った事がある気がする。」と曖昧な動機で、ここまで「先生」に入れ上げるのは、今読むと不思議で、人と人との垣根が低い印象を持つ。

「先生」と「私」の年齢差がどの程度か不明だが、少なくとも20〜30歳差であると仮定すると、先生
がKに重大な裏切りをした時期———こころが壊れてしまったのは、明治13〜23年頃と思える。

日清日露の戦争前で、国の仕組みを大急ぎに整えていた頃だ。(先生の両親が相次いで、腸チフスで亡くなっているが、明治15年に腸チフスが大流行した事を思うと、明治10年代とも思える。)

「私」は「先生」のどこに惹かれたのか、小説からは何となくしか判らないが、明治の全盛期を牽引した世代に対する純粋な憧れかも知れない。
「先生」が「明るい成功体験」を体現している人物だったら、この物語は始まることが出来なかっただろう。
自信に満ちた明治世代なのに厭世的である所が、後の大正時代を先取りしているように「私」は感じたのかも知れない。

重層的に語られた明治
全編を通して、しばしば混乱したのが「私」と「先生」それぞれの郷里描写の既視感である。
地域が特定できないので、当時の一般的な農村の有り様を、描いたのかも知れないが、どちらも、愛郷の情を持ちながら、どうしようも無い田舎の鈍感さ、息苦しさに苛立ちを感じている。

「先生」は、本家の「跡取り息子」で鷹揚に育っているから、次男坊として育った叔父の「抜け目無さ」に気が付かない。
急逝した両親の財産を奪われた事を生涯恨みに思うが、騙しとられた残りの財産で「先生」は都会で仕事をせずに暮らせたのには驚く。
騙した叔父に視線を移すと、甥を騙してまで奪いたかった『本家』はまだ彼にとって「あこがれのステイタスシンボル」だった事が判る。
文明開化を経て、人々が開明的に考えるようになっても、まだ江戸時代の古い価値観が雑居している感がある。(都会で成功して田舎に錦を飾る意識がまだ強い)

一方、時代が下った「私」は、同じ田舎育ちでも微妙に調子が変る。大きな旧家を受け継いでも
「持て余して困る。」
と思って憂鬱でいるし、「私」の母親ですら、
「都会に出てしっかり稼げ。」
と息子達に発破をかける。
他家へ嫁いだ娘や、仕事に忙しい長男に、父親の臨終が近い事を知らせるのですら躊躇している様子は、もはや都会の求心力が田舎を圧倒しているとわかるし
「おたくは息子達みんな立派に大学を出た。」
と近隣の友人が、「私」の父親を羨むところに、時代の変化を感じる。
漱石は、この差を描く事で、揺るぎなく続くと思われた明治時代の終焉を描いたのかも知れない。

内面から溢れ出た自我に戸惑う
第三部の「先生とK」は初めて読むと、少なからず衝撃的だ。今日の感覚で言えば、
「そんな程度の事で。」
と絶句してしまう。

早いもの勝ちで、お嬢さんに先約を入れてしまった「先生」に、同じくお嬢さんに恋情を持ちながら、何も言わずに、友人Kは自死を選んでしまう。
それが原因で、「先生は」生涯を無為に過ごして、最後は自らも命を断つのだが、そこまで、考えを先鋭化してしまった二人の行動は、なかなか理解しがたい。懸命に想像してみたが、、、
『疑心暗鬼と自分本位の利己主義に駆られた先生』と『ストイックに自己の内面に邁進してしまうK』のどちらにも、時代の重い空気がのしかかっているようで、少し気の毒に感じた。
それまで守られていた「封建社会」という「おくるみ」が解かれ、厳しい環境にさらされ始めた、当時の人々の自我を表しているのだろうか?

今回、この部分を再読して思うのは、「お嬢さん(女)」は結局、トリガーでしか無かったという事だ。

見かけ上は、女を巡る三角関係に見えるが、お嬢さんは非常に「からっぽ」に描かれ、気の毒な扱いだ。生身の人間で無く、まるで「人形」のように感じるのだが、やはり、あの当時の青年達も、異性をそんな風に見ていたのだろう。
よっぽど、お嬢さんの母親の方が面白く、明治期を軍人の夫と伴走しただけの人物に思えた。


2012年4月7日土曜日

アゴラ読書塾Part2第1回「現代語訳:福翁自伝」福沢諭吉(斎藤孝:編訳)

噂のSkype。初めて使ってみて技術を実感。
「読書塾Part2は無理なので、、おしんは教室の外で、、。」
などと、未練たらしいブログを書いていたら、特別に遠隔授業の措置をアゴラ塾が取って下さった!春の「お別れ」シーズンなので遠隔地へ転勤しなければならないメンバーもあり、離れた場所からでも、東京開催の読書塾を受講出来たら、、という声に答えてくれたのだ。

東京の会場でカメラや接続のセッティングをして下さったメンバーには本当に頭が下がる。ニコ生やUstream等、個人がどんどんブロードキャストする時代になっているが、小さなグループ単位で時間を共有し合う事を、実際に体験出来たのは非常に大きい。

今日のエントリーは、そんな新しい体験も含めて感想を書いてみたい。

一万円札のご仁は破天荒な日本初の流行作家
「日本人とは何か」を人物から探るPart2。第1回目は誰もが知ってる「福沢諭吉」---。
最晩年に書かれた、口語体の自伝を「日本語であそぼ」で有名な斎藤孝先生が、現代語に訳してくれている。これは本当に読み易くて、あっという間に読めてしまった。

痛快な青春活劇で、これまで勝手にイメージしていた「福沢諭吉像」が少し変わった感じだ。慶応義塾の創立者で、もっとスノッブな人なのかと思っていたが、さにあらず。
「こだわり(価値観)」からものごとを峻別するのでは無く、あくまで自分が見聞きし、感じた事を徹底的に学ぶ「旺盛な意欲」に依って立つ人物だったと判る。
池田先生は
「これが、慶応義塾が追求している『実証主義』なのだ。」
と言う。価値観に惑溺(わくでき:ある事に夢中になり本心を奪われること)し、自分で自分の身を縛る危うさを、当時誰よりも切実に感じていた人物なのだ。

歴史の授業で必ず習う「学問のススメ」は何と300万部を売る大ベストセラーだった。推定総人口3400万人程度の当時で、この売れ方は確かに凄い!(約10人に1人が読んだ勘定)
 幕末動乱期に、外国語の能力を買われ、幕府外国方(外務省)に雇われるが、瓦解の現場に居合わせる事になって、本書に無いエピソードを読んだ事がある。
若い福沢諭吉が外国方として江戸城の詰め所に登城していた時、新政府軍が「明日にも江戸に攻め入ろうか」と思われる情勢になった。 開明派が多い外国方においても、一同意気消沈する愁嘆場なのだが、そんな中「いつ江戸城は攻め込まれますか?判ったら早く知らせて欲しい。(自分はさっさと逃げるつもりなので)」と、福沢諭吉は言ってのけたらしい。
今風に言えば「空気を全く読まない男」だ。当時の価値基準からは、大きく逸脱した、異能の人物だった事がよくわかる。

大阪が育んだ「商人魂」
ずっと、福沢諭吉について疑問に思っていた事がある。
「なぜ、こんなに有名なのか。」
という事だ。
明治初年と言えば「政治の時代」だと思っていて、表舞台に立つのは権力の座に居た人々なのに、福沢諭吉はどうしてここまで有名なのだろうか。未だ一万円札に顔を刷られ続けている。。。

昨夜の読書塾では、池田先生は敬愛を込めて
「日本初の『売文業』を成り立たせた人物である。」
と語る。 大久保利道から新政府への招聘の話が来ても断ったりして、何だかカッコイイのだが、
「やはり、幕臣だった事から佐幕派と思われ、薩長から疎まれていたのだろう。この自伝も全て鵜呑みにするのは、まあね、、。」
と、大人な解釈だ。生涯、権力の中枢へは着かないものの、強い影響力を及ぼせたのは
「ビジネスとして、売文業や私学塾を成り立たせた手腕。」
に、大きな要因がありそうである。昨夜の会場からも「大阪で育った」点が指摘され、なかなか目の付け所が良いと思う。
大阪育ちの司馬遼太郎さんは、
「街を歩いても殆ど侍に出会わない大阪(人口に占める侍の割合が極端に低い)と、諸藩の藩邸がひしめき合い、侍(知識階層)の要求を満たす為に形成された街(江戸)とでは、自ずと気風が違って来る。」
とよく語る。
殿様は「コスト度外視のクオリティ」を求め、職人達はそれに答える為に技を磨くから、技術の醸成が進む。一方、物流のメッカだった大阪では「商売の機微」が共有され「なんぼのもん」という意識が高いのだろう。

今回の「福翁自伝」でも若い時から、ギリギリの所できちんと収支勘定をしているエピソードがあったりして「さすがだな。」と思う。得意の翻訳で少しでもレートの良いアルバイトはどれか、、という情報に敏感に反応したり、「金儲けは卑しい。」という固定観念にも縛られていない。
慶応義塾が、日本で初めて「授業料」というものを取り、ビジネスとしてきちんと成功しているのは、この「商人魂」が創立当初からきっちりDNAに埋め込まれているからかも知れない。

目的無しの勉強--好奇心がモチベーションのエンジン
本書を読んで、一番印象に残ったのが「目的なしの勉強」という一節だ。
これをやったら将来何になるとか、メリットがあるとか、そんな事を考えずに、無鉄砲に学びたい事を、競い合うように学び倒した「適塾(緒方洪庵の塾)」時代を称して、語っているのだが、この姿勢がとても強く印象に残って新鮮だった。
 そしてこの「旺盛な好奇心」と「きっちり収支を考える商人魂」が幸運な出会いをしたのが福沢諭吉なのかなとおぼろげに思う。
 池田先生も
「こんなに異能の人が、きちんと認められた生涯を送れるとは、世界的に見ても珍しい。かのマルクスは亡くなった時に11人しか参列者が来なかった。」
とその特異さを指摘する。

適塾は本来「お医者さん(緒方洪庵)」が主宰した私塾で、解剖やら薬品実験やら、理数系の事もよく学んでいるのだが、福沢諭吉が「経済」や「社会統治システム」の方に関心を寄せていった事を思うと、今のように「○○系」と学びの分野を細かく分けていない、黎明期ならではの豪快さが育んだ才能なのだと思う。

この事から現代に目を転じると、学問が密に積上った結果の「細分化」の淋しさを、私は少し感じる。専門領域が深く先鋭化してしまうと、どうしても「共感/認識出来るメンバー」が少なく限られてしまう傾向があって、「いつものお仲間」になってしまうのはどの分野でも同じでは無いだろうか。。

不可能だと諦めない淡々としたしぶとさ
今回、遠隔授業を体験してみて、これまでの固定観念がかなり破られた感じである。知識としては「テレビ会議」とか「テレワーク」とか、知ってもいたし、実現する技術がある事も判っていたが、リアルに顔を合わせて話し合う以上の役割が果たせるのかと、やや懐疑的でもあった。それに日本の会社はとても臆病で
  • セキュリティ面で心配がある
  • 勤務状態を管理出来ない
  • チームワークが醸成出来ない
等々、出来無い理由を沢山並べて一向に踏み出そうという気配が無い。
子どもが小さくて病気ばかりする冬場は、自宅で仕事をすれば「みなし出勤」にならないかと夢見たりもしたが、家に居たら居たで、ON/OFFの気持ちを切り替えるのが難しく「外に出てしまった方が簡単にスイッチ切り替えが出来る。」のも確かだ。
でも、やらざる終えない状況に追い込まれたら、変わる部分が絶対にあるんだと認識出来たのはとても収穫だった。

こども達は、慌ててSkypeの支度をする私の様子を不思議に思い、何をしてるのかとしきりに尋ねた。事情を説明すれば理解する年齢になっているし、そのうちもっと大きくなったら、彼等にとって、場所や時間が特定されないのは当たり前になっているかも知れない。

そう思と、ますます情報を伝達する時のオプションを多く身につける事がとても重要なのだとつくづく感じた。

今回はパート1の読書塾を受けていたので、塾のメンバーを知っていたし、雰囲気も判るから、割と気持ちの敷居が低く「やってみよう」と思えた。
ただ、これが全く知らない人々相手に踏み切れるかと言うと、今の私には判らない。(特に、日本人はネットでは触れ幅が大き過ぎて。。。あちこち傷付ける事例が目立ってますからね、、、)

だが、言葉を磨き、言葉を補完する情報(画像/映像/音声)をどう組み合わせると効果的に伝わるか、その能力を日々磨く集団がきっと現れて来るように思う。

「一度も顔を合わせた事は無いけれど、大仕事をやってのけた。」
という事例がそのうち多発するだろう。たぶん「アラブの春」はその先駆けかもしれないし、彼等が駆使したネット技術はもうかなりの所まで来ている。

「リアル」と「ネット」の両方を上手にハイブリットする集団が、出て来ていると改めて自覚した出来事だった。

さて、次週は夏目漱石の「こころ」。
大変な事に、遠隔からレポートを志願する事に。漱石はとても気になる人だったので、どんな考察が飛び出すか、やっぱり楽しみである。