2012年4月14日土曜日

アゴラ読書塾Part2第2回「こころ」夏目漱石著 〜現代日本語の父〜

久しぶりにイラストを描いてみました。
永遠の名作、夏目漱石の「こころ」———。のレポーターをまた担当する事に。。。(^^;;
前回、
「次は、夏目漱石の『こころ』にしようかと思う。」
と池田先生が言われた時、思わず挙手してしまった。なぜなら、福沢諭吉と並んで夏目漱石は、日本の近代を語る上で、無くてはならない人物、、、らしいからだ。
『らしい』と付けたのは、これまでちゃんと読んだ事が無く、青空文庫でiphoneにもダウンロードしてあるのに、やっぱり最後まで読み通せない。これは良い機会だった。

遠隔地間のコミュニケーション
「昔は、『火起こし』と言って中継するにも、セッティングに多くのクルーと時間が必要だったものです。なのに、パソコンを立ち上げるだけでいいんだからね。」
と池田先生らしい発言(元NHK!!)
今回は、Skype越しのレポート報告までやってみた。聴く側にお聞き苦しい点もあったと思うが、やってやれない事は無いと実感。
ただ、現場に居れば、聴いている人達の反応が判るので、少しアドリブを入れられるが、遠隔だとそれが難しい。。このジャンル、もっと技術革新の余地がありそうだ。
例えば、会議室に据え置くカメラは360度回転で、発言者を追尾。ズームを利かせて表情をアップしながら、発言を拾うとか、、要は中継の時にカメラマンがする仕事をやるようになると思う。(要素技術はもうあるだろう)手元で書く図を大写しに出来れば、ホワイトボードの役目を果たすだろうし、そこへ別の人も書き込めれば、かなり面白い事が出来そうだ。
最も重要なのは、
好奇心旺盛で共通な関心事を持つグループに適正な価格で供給出来るか。
だろう。池田先生が紹介したように、統計では
「日本人は、職場が大嫌い。」なので、ただでさえ会いたくも無い職場の人間と、やりたくも無い会議が遠方まで追いかけて来るとなると、ゲンナリしてしまう。でも、共通の関心事を持つグループにとっては、安価に距離を縮める事が出来るのはなかなか面白い。大抵その場合は少人数なので、シンプルに必要な機能を盛り込んだツールはきっと望まれるに違いない。Appleあたり、電子教科書と一緒に新しい概念を送り込んで来るだろう。

ポジティブな福沢諭吉/ネガティブな夏目漱石
「こころ」の拙いレポートは、エントリーの後半に転記するとして、昨日の読書会で語られた、「近代化を迎えた時の日本人の自我」に関してメモしたい。

 前回の福沢諭吉もそうだが、夏目漱石もイギリス留学の経験があり「洋行組」として西欧諸国の文明の波にいち早く洗われた知識人であった。池田先生は
「それまで、存在していた『身分制度』が瓦解して、一個人が世間に放逐された時、ポジティブに捉えたのが福沢諭吉であり、ネガティブに受け止めたのが夏目漱石と言える。」
と言う。確かに先週の「福翁自伝」は明るく快活なのに比べ、漱石はいつまでも愁眉を開く事が無い神経質な作家に見える。
「『我が輩は猫である』や『坊ちゃん』あたりまでは、洒脱な俳諧精神に溢れているが、晩年の『こころ』から思弁的(経験に頼らず純粋な論理的思考だけで認識しようとすること。)になって行く。だが、後にも先にも漱石のようにテーマ性を帯びた作家は無く、大正期はチマチマとディテールを追った『私小説』ばかりで、名人芸を楽しむようなものだ。」
、、と、いつもの快刀乱麻ぶり健在である。
洋行組の常として、「日本はこのままではいかん!」と彼の国と比較した自国の有様に、大いに焦ってしまうわけだが、漱石の場合、
「欧米の近代小説(ディケンズやドフトエスキー等)に触れて、大衆が『個人の持つ自我』について語られた文学作品を持っているところに、衝撃を受けたのだろう。」
と池田先生は言う。
「ああ、そうか!それで漱石はロンドンで、心を病んでしまったのか。」
永年の謎がまた一つ解けた。辻馬車やガス灯や鉄道を見て、漱石が憂鬱になったのかと(大久保利通はそれで円形脱毛症になり、、)思っていたが、人は自分の最も関心の高いジャンルに鋭く観察を巡らす、、、。漱石の場合、それが文学だったのだ。当たり前と言えば当たり前だが、外国文学の歴史に暗い私にとって、また一つ蒙が開けて嬉しい。
「あの頃の知識人達は全人口の上位1%未満で、それも殆どが、官僚か軍人になっており、福沢や漱石のように、在野の知識人は極端に数が少なかった。漱石は過渡期の人で、だから『近代知識人』を演じているようにも見える。」
との解釈はなかなか面白い。池田先生が、この頃の人々に注目したのは、現代において、この時解決しきれなかった問題が、また突きつけられているように思うからだそうだ。
それまで、封建社会の身分制度の中で眠るように過ごした「個人」というものが、明治維新で丸裸になって放逐される。そのまま、個人主義の社会へと成熟するかに思われたが、大正/昭和と再び「ムラ」的集団主義の独特な社会(再江戸化)へ戻ってしまった。それが再び変わらざるおえない時期に来ている事を言っているのだ。

漱石が作った現代日本語
昨夜の読書会では、
「『こころ』の筋や設定はともかく、この漱石の文章によって『言文一致』の現代語が確立された。」
と、小説の内容よりも、そちらの功績に注目された。
実は、司馬遼太郎も晩年、漱石の事にたびたび触れ、同じ事を様々な所で、話したり書いたりしている。手元にあった「この国のかたち・三」に丁度良い一節があったので引用したい。
明治の文学の一特徴は、東京うまれの作家の時代であったことである。このことは、明治時代、東京が文明開化の受容と分配の装置であったこととかかわりがある。地方は、新文明の分配を待つだけの存在におちぶれた。
明治になって文章言語も変容してゆくのだが、その言語を変える機能まで東京が独占した。
ふりかえると、三百諸藩にわかれていた江戸時代、藩ごとにあった方言は、それなりの威厳をもっていたが、明治になって。単なる鄙語(ひご)になり、ひとびとは自分のなまりにひけめを感ずるようになった。
地方から出てきて東京で小説を描きはじめた者も、江戸弁をつかうとこにひるんだか、もしくは使えなかった。このために地方出身者はもっぱら美文(当時の用語として、文語のこと)で発表し、やがて東京出身の作家たちによって口語文章語が書かれはじめると、かれらの多くは小説を書くことをやめた。(中略)
それまで、英文学の先生だった夏目漱石(1867〜1916)がにわかに『我が輩は猫である』や『坊ちゃん』などを書きはじめ、いきなり評価を得た。
『坊ちゃん』にはなお式亭三馬のにおいがあったものの、世間は、口語の表現力のゆたかさにおどろかされ、あらそって読み、その文体を学ぼうとした。つまり漱石の文章日本語は社会にとりこまれ、共有されたのである。
その後、漱石の文体は『三四郎』以後落ちつき、未完の『明暗』で完成した。情緒も描写でき、論理も堅牢に構成できるあたらしい文章日本語が、維新後、五十年をへて確立した。(※強調筆者 司馬遼太郎『この国のかたち三』69「小説の言語」より)

最後に、昨夜のレポートを引用して今週のエントリーを終わりたい。
次週は「北一輝」。時代は下って激動の昭和初期に民間人で唯一、二・二六事件で処刑された、イデオローグを取り上げる。なかなか噛みごたえのありそうな人物である。


「アゴラ読書塾 Part2 『こころ』 夏目漱石著」レポート

明治に芽生えた自我と苦悩
恥ずかしながら「こころ」を通読したのは初めてである。高校の教科書に第三部「先生とK」の一部が掲載されて、それを読んだきり、やっぱり「古臭い」と思って全く読もうとしなかった。今回、長年の宿題が片付いた。
時代背景を知る為に、小説が連載された当時と作中の時間軸を年表に落としてみた。
「こころ」が描いた時期

この作品では、明治帝の崩御が描かれている。それを頼りに小説の出来事を年表にプロットすると、明治の終焉を起点に、「私」の目を通しながら、明治を生きた「先生」の生涯が、さかのぼって記述されている。
実際に、「こころ」が朝日新聞に掲載されたのも大正3年からなので、元号が変わった事を契機に、漱石は時代の変化を敏感に感じていたのだろう。
「私」は明治末期に青年期を迎え、来たる大正時代を背負って立つ新世代だが、「先生」に懐かしい親近感を覚えて接近する。
小説の冒頭、鎌倉の海岸で「会った事がある気がする。」と曖昧な動機で、ここまで「先生」に入れ上げるのは、今読むと不思議で、人と人との垣根が低い印象を持つ。

「先生」と「私」の年齢差がどの程度か不明だが、少なくとも20〜30歳差であると仮定すると、先生
がKに重大な裏切りをした時期———こころが壊れてしまったのは、明治13〜23年頃と思える。

日清日露の戦争前で、国の仕組みを大急ぎに整えていた頃だ。(先生の両親が相次いで、腸チフスで亡くなっているが、明治15年に腸チフスが大流行した事を思うと、明治10年代とも思える。)

「私」は「先生」のどこに惹かれたのか、小説からは何となくしか判らないが、明治の全盛期を牽引した世代に対する純粋な憧れかも知れない。
「先生」が「明るい成功体験」を体現している人物だったら、この物語は始まることが出来なかっただろう。
自信に満ちた明治世代なのに厭世的である所が、後の大正時代を先取りしているように「私」は感じたのかも知れない。

重層的に語られた明治
全編を通して、しばしば混乱したのが「私」と「先生」それぞれの郷里描写の既視感である。
地域が特定できないので、当時の一般的な農村の有り様を、描いたのかも知れないが、どちらも、愛郷の情を持ちながら、どうしようも無い田舎の鈍感さ、息苦しさに苛立ちを感じている。

「先生」は、本家の「跡取り息子」で鷹揚に育っているから、次男坊として育った叔父の「抜け目無さ」に気が付かない。
急逝した両親の財産を奪われた事を生涯恨みに思うが、騙しとられた残りの財産で「先生」は都会で仕事をせずに暮らせたのには驚く。
騙した叔父に視線を移すと、甥を騙してまで奪いたかった『本家』はまだ彼にとって「あこがれのステイタスシンボル」だった事が判る。
文明開化を経て、人々が開明的に考えるようになっても、まだ江戸時代の古い価値観が雑居している感がある。(都会で成功して田舎に錦を飾る意識がまだ強い)

一方、時代が下った「私」は、同じ田舎育ちでも微妙に調子が変る。大きな旧家を受け継いでも
「持て余して困る。」
と思って憂鬱でいるし、「私」の母親ですら、
「都会に出てしっかり稼げ。」
と息子達に発破をかける。
他家へ嫁いだ娘や、仕事に忙しい長男に、父親の臨終が近い事を知らせるのですら躊躇している様子は、もはや都会の求心力が田舎を圧倒しているとわかるし
「おたくは息子達みんな立派に大学を出た。」
と近隣の友人が、「私」の父親を羨むところに、時代の変化を感じる。
漱石は、この差を描く事で、揺るぎなく続くと思われた明治時代の終焉を描いたのかも知れない。

内面から溢れ出た自我に戸惑う
第三部の「先生とK」は初めて読むと、少なからず衝撃的だ。今日の感覚で言えば、
「そんな程度の事で。」
と絶句してしまう。

早いもの勝ちで、お嬢さんに先約を入れてしまった「先生」に、同じくお嬢さんに恋情を持ちながら、何も言わずに、友人Kは自死を選んでしまう。
それが原因で、「先生は」生涯を無為に過ごして、最後は自らも命を断つのだが、そこまで、考えを先鋭化してしまった二人の行動は、なかなか理解しがたい。懸命に想像してみたが、、、
『疑心暗鬼と自分本位の利己主義に駆られた先生』と『ストイックに自己の内面に邁進してしまうK』のどちらにも、時代の重い空気がのしかかっているようで、少し気の毒に感じた。
それまで守られていた「封建社会」という「おくるみ」が解かれ、厳しい環境にさらされ始めた、当時の人々の自我を表しているのだろうか?

今回、この部分を再読して思うのは、「お嬢さん(女)」は結局、トリガーでしか無かったという事だ。

見かけ上は、女を巡る三角関係に見えるが、お嬢さんは非常に「からっぽ」に描かれ、気の毒な扱いだ。生身の人間で無く、まるで「人形」のように感じるのだが、やはり、あの当時の青年達も、異性をそんな風に見ていたのだろう。
よっぽど、お嬢さんの母親の方が面白く、明治期を軍人の夫と伴走しただけの人物に思えた。


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