2011年11月17日木曜日

ものみな”男性論”で計算せよ 〜司馬遼太郎対談選集3「歴史を動かす力」より〜

21世紀の現代で「男性論で計算せよ」とはなかなか言えない。言葉尻を捉えて
「女性が計算出来ないって事か!」とか
「時代錯誤の男尊女卑だ!」と
あっという間に袋だたきだろう。女性の私だから大胆にも引用しまうが、もし男性だったら、不要な火種を起こしたく無いから絶対に書かないな。。。
でも、どうにも惹きつけられた内容だったので、備忘録として引用。 
今読んでいる「歴史を動かす力」(司馬遼太郎対談選集3」の中「織田信長・勝海舟・田中角栄」と言うタイトルで、江藤淳氏と司馬さんが対談している。対談時は1971年田中角栄が首相となり「列島改造論」がベストセラーとなる時期だ。私はまだ3歳にもなっていない。
以下、対談の一部を引用
司馬 政治の上で侮という字が出て来る関係はまずいですね。侮米であれ侮中であれ侮ソであれ、まったく意味なき感覚です。
江藤 今は極端な拝中侮台ですね。かつて台湾というところへどんなゴムひも屋が躍ったかどうかは別として(筆者註:ここで言う「ゴムひも屋」とはこの前段で「表玄関から堂々と入らず、小商人が勝手口からコソコソとゴムひもを買ってくれというような外交をしていてはダメだ。」と喩えた事を引いている。)あそこにもやはり人間の心を持った千四百万の民衆が居る。蒋介石政権が堕落しているかどうかは別として、この民衆を忘れたら大問題ですよ。
司馬 それは大問題です。しかし、何と言ってもアメリカの問題を考えるうえで、もし侮米という気持ちがおこるとしたら、アメリカと戦争できるかどうかをまず考えてみなければいけません。これは男子の論理です。男子たるもの、相手をばかにしようとするのなら、まず計算して、戦って勝つという成算を得たときばかにすればいい。ばかにしたければ、ですよ。それにきひかえ、戦争しても負けるくせに侮るというのは、女ですよ。日本人の外交感覚というのは、多分に女性的です。野党も与党も女です。

司馬さん、、女だってそのくらいの計算出来ますよ。。と、思う訳だが、このスパッと言い切る鋭さに、今、私は憧れて仕方無い。
なぜ憧れるのか。。。それは、、、仕事をしている上で「侮り」の計算の上に積み上げられて行く話があまりに多いからだ。
  • たいした事無いよ、こんな物
  • きっとこんな物、市場ではウケないよ
競合と言われる商品を見る時、自分達が優位であると思い込みたいが為に、今そこにあるファクトを見ようとしない。「王様は裸だ」と言おうものなら、そっと粛正されてしまう。またその真逆もある。
  • 大変だ大変だ、こんな○○な物が出た
  • 他社は××な事をやっている
視野が狭くなっているが故に、針小棒大に事を捉えてセンシティブになりたがる。
どちらも同じに思えてならない。
司馬さんと江藤さんは、喩えとして「男子の計算」と言っているだけで、日本民族みなそれが出来ていないと、一刀両断している。敗戦の記憶がまだ生々しい70年代「女々しい計算の結果が太平洋戦争」という重い記憶があるのだろう。江藤氏は石原慎太郎と同世代の作家で、残念ながら同氏の書き物は読んだ事が無いが、99年、先立たれた妻への鎮魂記を書いた後、自ら命を絶っている。(この事件をご記憶の方も多いと思う。)そんな人だから、司馬さんに劣らず苛烈な内容で、対談なのに「あれ?これはどっちの発言だ?」と思うほど、ズバズバ斬り込む論旨はどこか司馬さんに似ている。
引用した箇所は、勝海舟に関する物で
「勝だけが、男子の計算をしていた。世界情勢を瞬時に理解して計算している、そこが、福沢諭吉と違う。」
と語る。

地勢学的に、アメリカ、中国、ソ連(ロシア)と、素肌で対峙しなければならない日本は、西欧諸国とはそもそも外交的負荷が違う。ヨーロッパは18〜19世紀に苦労して鍛錬した結果、今は大学院生が幼稚園の問題を解く様に易しいが、日本はまるで滝壺で滝に打たれるように、モロにこれらの国と対峙しなければならない。なのにその事を自覚している人間は僅かで、大半はおくるみに包まれて眠る赤子のようだ。(江藤氏談)うーん。これ71年の話しだよね、、TPPの話題じゃありません。。念のため。
ヨーロッパも大変だけど(ウッカリ、只飯ばかり食らう食客を招き入れて四苦八苦)ギリギリで転覆しないのは、血で血を洗う勉強代を払ったからなのか、、。

司馬さんがストレートに世情を語る記録はあまり見かけない。晩年は非常に高度な喩えで、一見気付きにくくなっている。

詳しくは、機会があればご一読、、と言う感じだが、
「男子の計算せんといかんなぁ。」
と、心に一匹の狼を飼う女子も思う訳である。

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