2012年5月13日日曜日

アゴラ読書塾Part2第5回「地ひらく」福田和也著 〜石原莞爾 稀代の戦略家〜

兵力差20倍の状況で満州事変を遂行した戦略家
文庫上下巻でしっかりとボリュームのある書籍だった。1995年から2001年にかけて雑誌に掲載された作品で、石原莞爾(いしはらかんじ)を中心に明治の日露戦争から昭和の終戦までを描いた渾身の意欲作である。
「北一輝」のエントリーでは今ひとつ掴み切れなかった、当時の混迷する中国国内事情も丁寧に描かれ、合わせて読むと、20世紀の世界情勢を立体的に理解する事が出来る。


見過ごされたされた風雲児?
石原莞爾と聞いて「誰でも知ってる」とは言いがたいだろう。少しでも昭和史に詳しい人なら、当然知っている有名人であるが、歴史の授業ではまず深く取り上げられない。或は「関東軍の独走の先鞭を着けた問題児」という認識が一般的だったろうと思う。私もそうだと思っていた。
ところが、本書を読むと石原はもっと複雑で独創的で、色々な意味で日本人には珍しい逸材だった事が判る。
庄内藩(今の山形県)に生まれ、わずか13歳で仙台陸軍幼年学校に合格する。陸軍幼年学校は全国合わせて300人しかいない「超エリート集団」だ。著者は少年期の石原を
聡明というより、跳ねるように知恵が疾った。周りの大人が、その回転についていけないと、癇癪を起こすか、黙りこんで、それでも意を通した。
と表現する。抜群に成績はいいものの、ガリガリと詰め込むわけでなく、常に「一番」というわけでも無い。試験勉強で同僚達が必死で勉強していても、悠然と違う事をしていたり、とにかく「天才肌」である。(でも幼年学校は主席、最後の陸大は次席で卒業ですが)
服装も無頓着、何においても型破りだが、人懐っこい性格は友達の中でウケが良く、教官によっては「とても可愛がる」か「酷く嫌う」かのどちらかに分かれた。
この、色々な点で「他人の顔色を伺わない(今風に言えば空気を読まない)」天真爛漫な石原の気質が、後々いろいろな局面で微妙に作用する。

満州事変と支那事変(日中戦争)
「満州事変と支那事変(日中戦争)は大きくその内容が異なる」という事が、この著作を読んでようやく判った。一般的に
「満州事変は出先機関の『関東軍』が中央の許可無しに独自で事を起こしたものであり、中央は後からそれを追認する事になって、ここから軍部の独走が始まった。」
とされている。石原莞爾はその満州事変の首謀者だった。(→だから悪者/問題児 という図式)しかし、本書を読むと、実際の内容は極めて戦略的であり、勝算が成り立つよう、綿密に計画された謀略だった事が改めて判る。(事の正否はとりあえず置いておくとして。。)「それでも日本人は戦争を選んだ」の加藤陽子先生は「起こされた満州事変、起こった日中戦争」という表現をされている。

日露戦争の結果として、中国東北部(旧満州国)の権益を獲得した日本は、「満蒙は国家の生命線」などというスローガンのもと、国絡み(がらみ)で投資をしていた。(主に満鉄。全投資の85%が国がらみ:「それでも日本人は戦争を選んだ」より)この「軍も民間も一蓮托生」の状況が、巧妙な満州事変を可能にした下地となるわけである。
当時の満州には張学良率いる軍閥が兵力19万(本書では20万としているけれど正確には19万)で割拠していた。関東軍参謀として満州に赴任していた石原は、張に対する反乱を華北地方で起こさせて、反乱鎮圧の為に張が11万の自軍を率いて満州を留守にする状況を作り上げた。本書では
満州の場合、満鉄をはじめとする交通網、電信、電話などの通信、道路交通、そして金融、商業などのネットワークが、ロシアと日本の積年の投資によって、かなりの程度発展していた。そのために、日本軍は、交通と通信、経済基盤の大半を掌握することで、数としては圧倒的に不利であっても、敵側の連絡を寸断し、機能不全に追い込む事が出来たのである。(下巻p154)
と書かれている。著者の渡辺氏は、この「インフラ側の協力」が満蒙に対する「共通に持っていた夢」によってなされたように表現している。そんな側面もあったろうが、言うなれば「お膳立てが揃った状況」を見極めて決行されたとも言え、これは注目に値する。

一方、7年後に起きた支那事変(日中戦争)は全くその性格も状況も異なっており、「不拡大(これ以上戦線を広げてはいけない)」という方針を持って、石原は現地の関東軍を止めに行くのだが、皮肉にも
「あなたの行動を見習って、同じ事を実行しているのだ。」
と言い返えされ、沈黙してしまったとも言われている。
池田信夫氏は「悪しき下克上の先例を作ってしまった事が、彼の首をしめた。」と言う。

少し抵抗しては、さっと兵を引いてしまい、後退した先で「自給自足」で時間稼ぎをする相手方に「勝ちに乗じて」どんどん戦線を拡大するやり方は、補給路が長くなり、近代兵器が行軍するには必ずしも有利でないアウェイへどんどんハマり込む事につながった。
「泥沼の日中戦争」と表現されるのはそのゆえんである。

石原は第一次大戦後のドイツに留学し、なぜドイツが戦いに破れたのかを詳細に研究分析して「決戦戦争」と「持久戦争」という全く異なる戦略があると理解する。後の回想録で
「陸大では指揮官として戦術教育の方は磨かれて居りますが、持久戦争指導の基礎知識に乏しく、つまり決戦戦争は出来ても持久戦争は指導しえない」(回想応答録より)
と問題意識を持っていた事を述懐している。
石原にはクリアに見えている事が、周囲はなぜ理解出来ないのか、池田信夫氏は
「手段へのこだわりが強く、目的意識が希薄だから。」
と明快な言葉で解説する。

学校型秀才の問題の解き方
池田氏は「石原莞爾には演繹的に物事を考える能力があった。」と言う。世界的に見れば当たり前の思考方法だが「最終的にあるべき姿(目的)」があり、それに至る為にはどうあるのか、とさかのぼって考える資質はリーダーに欠かせないという。
ところが、当時(実は今も)の日本軍のリーダー達は、とりあえず、解き易い所から、手を付ける。
「このアドホックな物の考え方や進め方は、学校秀才型の問題の解き方だ。」
とこれまた痛烈な指摘をする。本書でも書かれていたが、全軍を統べる能力は、必ずしも陸大だけで育成出来るものでは無いと考えられていたが、ではどこで?と問うとそれを担う機関も無く、全てが陸大に集中してしまったと言う。
日本軍が代表する日本的組織の悲しさは、迷走する指揮命令系統に可憐に現場が合わせてしまう事にある。
しかも日本軍は日本的な組織の常として現場での対応にきわめて長けていた。他国の軍隊ならば、前進し得ない状況においても、日本の部隊は、自力で食 糧、資材、輸送手段を調達し、弾薬が枯渇すれば敵から奪い、あるいは手榴弾を石礫にかえて、戦い続け、前進し続けたのである。(下巻156p)
 何度この悲しいフレーズを聞いた事か、山本七平も司馬遼太郎との対談で、南方戦線の苦しい行軍の様子をこんな風に語っていた。
「ジャー ジャーとラジエータから水が漏る自動車なのに、兵隊の誰かが『木屑を入れるといい』と言い出すんです。そうやって一握りの木屑をラジエーターに放り込む と、それがやがて目詰まりの要領で穴を塞ぎ、水漏れが止まって、また自動車が動いてしまう。日本の現場はそうやって貧弱な装備をその場その場で、しのいで しまう。本来だったら動かないようなものまで、動かしてしまうんです。」
とにかく前進する事が目的化されてしまい、なぜこれを続けるのか、根本的な問いを考える事は許されず、目的よりも自動運動を維持する事に陥ってしまう。言うなれば「問題の先送り」で本当に進めなくなった所で、大組織全体が立ち枯れる。。。
何度かこのブログでも書いて来た事だが、いつまでもこの事を笑っていられないと最近はよく考えさせられる。

兵士に手帳を配る日本軍、アイスクリームを食べさせる米軍
池田信夫氏は「日本軍と日本企業の組織は不思議に似ている。」という。前回の読書会で取り上げた「失敗の本質」が今でも売れ続け「簡単解説本」も出ているそうだ。池田氏のブログアクセスも人気だそうで、私のブログですら時々過去のエントリーにアクセスがある。
会社に居ると「ああ、ここは軍隊だ。」とつくづく思うが、日本軍を詳細に見ると、まるで、双子のようだと思う。
「目的意識が希薄で、手段にこだわり、動機の純粋性に重きを置いてしまう。まるで美意識の為に生きているようだ。」
と常々、池田信夫氏は語る。この事と直接関わるかどうか定かでないが気になる事を聞いた。

今年の3月に日本国籍を取得されたドナルド・キーンさんのインタビュー(NHK100年インタビュー)をたまたま見ていた。
キーンさんは戦時中、海軍の日本語通訳として従軍した経験がある。運動が苦手で心優しき秀才のドナルド青年は16歳の時、偶然手にした「源氏物語」(英訳)によって日本文学を知り、以来ずっと日本の事を愛してくれている。
従軍時代キーン氏は、主に日本人捕虜の尋問(と言っても「ぬるい尋問官」だったそうで必要な事をさっさと聴いたら四方山話を沢山したとか)や日本人兵士が持っていた「黒い小さな手帳」をよく読んでいたそうだ。(その殆どが『遺品』として回収された物)
「日本軍は兵士全員に黒い手帳を毎年渡して日記を付けさせていた。だからそれを読めば情報が得られると米軍は考えた。米軍ではこんな物を支給して奨励するなぞ考えられない。なぜなら、そこから情報が絶対に漏洩すると考えるからだ。いかに日本人の中に『日記』を書くという習慣が根付いていたかを伺い知る事が出来る。」
とキーン氏は語る。へぇー日本軍はそんな物まで支給していたのか。とボンヤリ考えていたが「いや!まてよ。」と気が付いた。
「そういや、会社から毎年スケジュール帳を支給されてた事があった。」
今は廃止してしまったが、私の務める会社にも、昔手帳の支給があった。戦後振興の会社なのに90年代初頭まで律儀に全員新しい手帳を渡していた。私は殆ど使った事が無かったが、古参の先輩達はびっしり色々書き込んでいた。(廃止になってもしばらくは購買部で売っていたくらいだ。。いや、今も売ってるのかも!!)
「手帳の日記の殆どは、軍事機密情報など書かれていなかった。でもその記述の細やかさに心打たれた。中には巻末に自分の死を見越したのか、英文で『この手帳を拾った人は是非故郷に届けて欲しい、住所はここである』と仔細に住所まで書いてあったものがあり、私はこっそり自分の引き出しに隠して持っていたのだが、誰かが持ち物検査をしたのか、いつの間にか没収されて無くなっていた、それが今でも心残りだ。」
と98歳のキーン氏は語る。多くの戦死者が飢えで亡くなっている事を考えると「手帳よりも兵站だろう!」と突っ込みたくなるが、無い袖は振れない悲しさを思うと「せめて思いの丈をここに書けよ。」といかにも日本的帰結の現れのような気がしてならない。キーン氏は
「日本人は何よりも桜を愛するのは、その短く数日でワッと散ってしまうありさまに美意識を感じるからだと思う。」
と指摘する。多くの美しい花が日本にはあるのに、絶大な人気を誇る「桜」にこの国の人々が共有し易い「美意識」の特徴をキーン氏は鋭く指摘している。

一方、アイスクリームである。
これは、加藤陽子さんの著書にあったのだが、南洋諸島に送り込まれた守備隊が絶望的な戦況にあった時、上陸したアメリカ軍がごついマシンを続々と陸揚げしていた。
ジャングルから偵察していた日本軍は、どんな秘密兵器なのかと戦々恐々としていたが、実は「アイスクリームメーカー」だったという笑えない話。
「アイスクリームを兵士に食べさせる余裕がある国なのか、、これはとても叶わない。」
一兵卒ですら理解出来た、と証言した人が居たそうだ。

合理的で無いと下々までわかっているのに、催眠術にでもかかったように「総崩れ」を止められないこの病理は何なのか。根は深い。

本当は他にもいろいろ書きたいエピソードがあったけれど、最早長過ぎるので、今回はこれまで。はやり昭和史は奥が深い。次回の読書会は「知の巨人:南方熊楠」軍人さん続きだったので、またまた楽しみである。

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