2012年5月3日木曜日

アゴラ読書塾Part2第4回「山県有朋」伊藤之雄著 〜愚直な権力者の生涯〜

「椿山荘」は山県が造園プランをデザイン!庭作りの名手だった。
偶然にも、この作者(伊藤之雄氏)を直接観た事がある。昨年の「司馬遼太郎賞」の受賞者(「昭和天皇伝」が受賞)として、菜の花忌シンポジウムで受賞スピーチをされていたのだ。物好きな私は、白髪頭だらけの会場でひと際「浮きまくり」ながら、伊藤氏の話を聞いていた。
今回、お題本に取り上げられた「山県有朋」は歴史研究家としての伊藤氏が、丹念に一次資料を追いながら、山県の生涯を追った自伝である。新書なのに厚さ2cmもあって手に取った時は驚いた。
歴史研究とは、出典元を厳密に明記するのが常識らしく、この本も3分の1以上は文中の「引用」に字数を割かれている。「信用出来る文章である」と証明する為だろうが本文に引用元が書かれると、読み易さの点で確実に足を引っ張る。「※印」で本文外にまとめる方法もあるが、これもチラチラ気になって読みにくい。専門家なれば、引用を上手に飛ばしながら文意を掴むのだろうなぁと、凡才な私はノロノロと読み進めた。
この伊藤氏の地道で愚直な仕事ぶりが、そのまま「山県有朋」の人生のようで、非常に好感が持てる書物である。


怜悧な長州人で戦下手
「長州人は怜悧である。青臭い書生達が集団で奮興し、維新の原動力になったようなものだ。」
と、司馬さんは色々な所に書いている。確かに「長州」と「薩摩」はあらゆる面で対照的である。この「山県有朋」の中に印象的なエピソードがあった。
西郷隆盛が政争に破れて下野し、鹿児島で氾濫を起こした「西南戦争」で、山県は新政府軍を率いて九州へ鎮圧に向う。熊本城の手前で苦戦を強いられた時、薩摩出身の黒田清隆が別働隊を組んで背後を突き、戦局を動かした事があった。山県のすぐ脇に居た大山巌(西郷隆盛の従兄弟)も、山県は正攻法ばかりで「これじゃ埒があかない。」と思っている。(意訳)
この事で「ああ山県は戦下手(いくさべた)だなぁ。」と感じた。後に陸軍の最高位に着く男なのに、、である。これ、日本組織の典型と言えないだろうか。

この著書を読むと、西南戦争は「薩摩vs薩摩」だった印象がある。実戦では薩摩隼人の方が、戦局の変化に対する機転の利かせ方が早く、結局、新政府軍側の薩摩人達が局面を打開する働きをして、長州人は「こうるさく」計画や理屈を周囲に述べたてるので煙たがれている。。。
明らかに「官司タイプ」で、平時の運用ではアドミニ能力を発揮するだろうが、発想と実行力が必要とされる戦時では、薩摩型の方に分があった。本書を読み進めて行くと、山県の晩年にその苦悩が読み取れて来る。

少し横道に逸れるが、維新当時は「薩長」と並び称された実力藩だったのに、徐々に薩摩系は「二番手」に転落して、今や陰も形も無くとろけて消えてしまった。長州系は現在でもその系譜が残っているのにこの差は不思議だ。(戦後の岸信介/佐藤栄作、最近では安倍晋三元首相もですね。)これは、薩摩型リーダーは人工的に作られたからだ、、と、司馬さんは言う。
自分は何もわからない。だから第一人者に全て任せる。横槍が入らないように周囲から守るのが自分の仕事で、最後の責任は自分が取る。
というのが、薩摩型リーダーの典型で、今でもビジネス書では理想型とされて人気がある。そして、理想だから居るはずがないのだ。
なぜなら、「そうあれ」と意識的に育成しなければ、こんなリーダーは育たないから。。

薩摩藩では「郷中教育」と言ってある一定の年齢(ローティーンからハイティーンまで)の若者男子が地区単位で集まり、その集団が育成を担ったそうだ。西郷隆盛なぞは本来引退すべき年齢(20代中頃)になっても、後輩達に請われて永く「組かしら」を務めていた。そして、リーダーになる事を「ウドさぁになる。」と表現したらしい。「ウドの大木」のように、意識的に自分の才気を押し込め、凡庸な外見を演出せよ、、と、教え込まれる。
維新で郷中教育は跡絶え、その申し子達が明治年間までは残っていたが、在庫が切れると同時に、この型のリーダー達も消えて無くなってしまったという事らしい。

この点から考えても、日本の組織は放っておくと「凡人万歳」に自動修正する癖があるのかと思いたくなる。困った時は「薩摩的突破力」を頼みに利用するが、基本は「長州型管理力」にどうしても傾きがちだと改めて思う。


盟友伊藤博文との関係
先の受賞スピーチで著者の伊藤氏は、伊藤博文と山県有朋の事にも触れている。
『坂の上の雲』には伊藤博文や山県有朋は殆ど出てきません。でも第二巻のあとがきの冒頭で伊藤に触れています。驚いたのですが司馬さんは、伊藤への非常に高い評価をしておられます。伊藤は現実的思考をもっていた、と。本文の中でも、伊藤は理想と現実が常に調和した人物だと書いています。(中略)同じあとがきのなかで、山県についての評価もしています。それは伊藤よりも低いです。しかし否定はしておられず、それなりに好意も示しています。伊藤と同じ現実主義者で、しかし伊藤にくらべ「多分に『思想性』があった」ということを、低く見ています。具体的には、日露戦争開戦に伊藤よりも早く傾いていったということです。この部分を読んだとき、私がかなり厚い伝記で書いた伊藤と山県の像とほとんど同じではないかと驚きました。(司馬遼太郎記念館会誌「遼」第43号より) 
会報誌を読んでいて同じ人だと気が付く!新書なのにこの厚さ!
池田信夫氏も、
「伊藤博文や、西郷隆盛が国民的に人気で『表の人』とするならば、山県有朋は『裏の人』。GHQでも解体出来なかった官僚機構を作り上げたのがこの人である。」
と説く。
伊藤博文は師匠筋の吉田松陰に「周旋家(しゅうせん:なかだち、交渉)になりそうだ」と評されただけあって、明るく社交的で語学に長け、非常にリアリストであった。初代内閣総理大臣になったのも「語学(英語)が出来る」という一押しで決まり、帝国憲法の草案に尽力するなど、華々しい経歴の政治家だ。
同郷の山県とは「政党」というものに対する解釈を巡って対立する事もしばしばあったが、若い時から山県が窮地に追い込まれると、伊藤は進んで手を差し伸べ「いざとなったら協調出来る、連帯意識を共有した仲間」であったようだ。
時勢を読むのに鋭い伊藤に比べ、山県は「その点が遅い」と著者は評している。時に、世界情勢に対して的外れな解釈を開陳して、その差が「伊藤の風下に立つ」事につながったりもするが、山県はあまりに意に介していなかったようだ。
根が真面目で用心深く、コツコツと積み上げて行くから、瞬時に理解出来なくともやがて情勢を理解する。そんな人物だったようだ。「政党」に対する理解が「伊藤に比べて30年遅く到達する」と著者は称しているのが、何とも山県らしい。


政党政治は何としてでも阻止する
山県の生涯は「政党には何としてでも実権は渡さない。」に貫かれている。作者の伊藤氏は
山県にとって、政党は、素人の政党員が専門の官僚が行う行政権を拘束し、国家に実害をもたらす存在である。(335p)
山県は陸軍に対する内閣(文官)の介入を、専門家に対する素人(政党)の関与とみて嫌い(p460)
と書いている。「専門家至上主義」とでも言おうか。愚直であるが故に、思い込んでしまうと徹底していて、伊藤博文が「公式令(陸海軍の勅令に首相の副署が必要とする)」を立案すると、これを骨抜きにする「軍令(陸海軍に関する勅令は担当大臣の副署のみにてOK)」を出すなど、この部分だけを見ると「陰湿」「狡猾」と捉われる。

池田氏も「霞ヶ関のスパゲティ」と称して、複雑で専門性が高く、自律的で、排他的な現在の官僚制度の問題点を指摘している。
政治任用を許さない「高等文官制度」を作ったのも山県である事を考えると、色々な点で彼の後世に与えた影響は大きい。ただ、著者の伊藤氏は最後の章でこうも書いている。
一般的に、集団や組織の継承者がその創設者たちの精神を忘れ、あるいはそれを古いものだと否定して、勝手に行動するのは歴史上よくあることである。むしろ、新しい状況下に、創設者の精神の真の意味を再解釈しながら、集団や組織を発展させていった例の方が少ないと言ってよい。太平洋戦争への道は、山県陸軍から必然的に導きだされたのではない。むしろ、山県の死後、山県の陸軍への理想や精神を忘れた陸軍軍人たちが、山県の作った陸軍の組織や制度・権力を都合良く解釈して利用し、太平洋戦争への道を作ったのである(p462)
実質的に中心が無く、明文化されていない「元老(明治維新の功労者達)」という組織が運用面でバランスを取る前提のシステムは、「元老」の資質に左右される点で危うい仕組みである。山県の後半生で上手に後継者を育成出来ない悩みの下りを読むと、現代にも通じるものを感じる。


曲解され続けた山県像
軍と官僚を「山県閥」で徹底的に掌握し「専門家による賢い国家運営」を山県が目指したとするならば、その系譜は今でも生きていると言える。
、、がしかし、著者の伊藤氏は「山県はそれだけの人物では無かった」としている。それは、あれほど毛嫌いしていた「政党の領袖:原敬」に一目置いているからである。
自分は後継者育成にも励み、桂・寺内や清浦ら少なくない人材を育ててきたつもりであったが、結局は単なる能吏(のうり:事務処理に優れた役人)ばかりだった。真に気骨があり、頼りになる者は育成出来なかった。田中(陸相)や田健次郎(台湾総督)もそれなりの人材だが、原ほどになれるのかどうか、確信が持てない。後継者育成の点でも、結局自分は伊藤博文にはかなわなかった。(p448 注釈筆者)
原敬に関しては以前「さかのぼり日本史」のエントリーで書いた事があるが、山県ですら「敵ながらあっぱれ」と思わせる力量の持ち主だったのだろう。首相任期途中で暗殺されるという非業の死を遂げて、この訃報を聞いた山県は非常に落胆したと側近が記録している。

愚直で心配性、用心深い自身の性癖を抱えながらも、伊藤博文や薩摩型の「開けっぴろげで大胆闊達な人々」にどこか惹かれる。そんな人物だったのだとやっと理解出来た。「国を思う」点では維新の英傑達と変わらず「志半ばで倒れた仲間への責任感」と著者は表現しているが、山県の生涯を語るに相応しい。
「雑誌を作ってみたかった」とか、造園にかけた情熱を思うと、違う時代に生まれていたら、コツコツと地道に何かを「作り上げる人」だったのかも知れない。良き職人達を沢山育てあげる親方タイプを想像すると「巨悪」と称される人物とは違う一面が見える気がする。

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