2011年7月17日日曜日

さかのぼり日本史 明治”官僚国家”への道 第1回「帝国憲法・権力の源泉」第2回「十四年の政変・近代化の分岐点」

今月は「官僚」がテーマ。政党の成り立ちを考えたら、次はやっぱり官僚でしょう。この番組の組立ては非常に良い。改めて思ったけれど、我が国は議員よりも先に「官僚」が居た国なんですねぇ。。第1回と第2回の分をまとめて感想。

第1回「帝国憲法・権力の源泉」
歴史で習ったけど、明治憲法(大日本帝国憲法)が発布されたのは明治22年。維新成立から実に22年もたってからなんだと思うとちょっとびっくりである。だって平成元年から現在位までの期間!議会も無く、憲法も無く、どうやって国家を舵取りしてたのだろう?
  まぁ、戊辰戦争ありの、西南戦争ありので、いわゆる「内戦」状態だった訳だけど、維新のリーダー達が臨時政府と言う感じで舵取りをしていたのだろう。(早く「翔ぶが如く」読まなくちゃ)

さて、今回はこの発布された真新しい憲法内で官僚の権限が保障された事が番組の主題。議会を通さずに、官僚主導で法案を通せる(つまり、天皇の勅令というルートを残しておく)又、天皇の保護下に置いて、政治家が官僚人事を云々出来ないよう守った事もかなり重要である。これは議会に対して政府が優位に立てる事を意味する。こうして生まれた法案の一つが「小学校令」で、憲法発布の翌年に制定されている。
以後、教育/軍事は議会を通さない勅令が慣例となる。いつの時代も「天皇」は利用され続けたというのが、日本という国の本質を表しているようで興味深い。

さて、この憲法制定に「伊藤博文」の存在は欠かせない。いわば彼の意思が強烈に帝国憲法に反映されているのだが、彼がこの様に考えるに至ったきっかけが、明治18年の欧州留学である。そこで伊藤は、お手本にしようとしたドイツで、強過ぎる議会に法案が何も通らない実態を目の当たりにする。ドイツの後に訪れたウィーンで政治学者のシュタインに学んで、行政が最終責任を負うのだから行政府を強く組織する事が先決と決心。それまでの古い「太政官制度」から「近代的内閣制」に変更する。
東京大学は「帝国大学」へを名を改め、有能な行政官を多数量産する為の機関と性格付けられ(今でもそうでしょうが)この頃から官僚の「超然主義」なる考え方が横行し始める、

「議会や政党に左右されず政治を行うべきで、専門知識に裏付けられた正しい法案が国家を運営するべきである。」

。。と、ここまで書いてまぁ、「エリート主義」だとか「国会/国民を軽視する考え方だ」と言えなくも無いが、テクノクラートである彼らが、若干そんな気分になっても仕方ないかなぁと思う。別に官僚さん達の肩を持つ訳じゃないけど。運営は相当に専門知識を身につけなければやって行けない、やっぱり、甘い理念だけでは国家は回らないよなぁ。。と今の政治情勢を見て思う。バランスが難しいですね。このあたり。

第2回「十四年の政変・近代化の分岐点」
  今回は再び「大隈重信」さん。先月で「初の政党内閣の時の総理大臣」になった人だけれど、今回は詰め腹を切らされて内閣参議から外される事件にスポットを当てている。
当時、自由民権運動の高まりが激しくこれは、司馬さんが解説している通り「地主層が騒いで」いる訳である。
政府は当初これを冷ややかに静観しているだけれど(田舎者に何が判るかってな所でしょうか。)参議のメンバーである「大隈重信」さんが自由民権運動に理解を示し始める。

大隈さんという人はどんな人だったんでしょうね。番組開設の佐々木克先生は
「大隈は穏健論者だった。」
とおっしゃっている。早稲田大学を作った人、、程度にしか知らなかったけれど、仲が悪いと思っていた、福沢諭吉も、丁度その頃「自由民権運動」を援護する発言をしている。
これが、二人に共通する資質というものなのでしょうかね。教育者になる人はやはりギリギリの所で、実利ばかりを言わない人物でなければ務まらないのかも。
ただ、政府メンバー内から擁護論が出てしまうのを、非常にニガニガしく思った伊藤博文はこれに苦言を呈する。
そして、丁度その時、北海道の政府官有施設を北海道開拓使が友人の実業家に破格の安値で払い下げようという事件が起きる。世論は紛糾、国会開設の機運が高まる。(そりゃそうですよね、特権階級ばかりで勝手に決めるな!でしょう。)

ここからが、やっぱり伊藤博文。「まずい!」と思って懐柔する策を打ちつつ、大隈をパージする。大隈が出張で不在中に、素早く内閣を召集して
・官有施設の払い下げ禁止
・国会開設/憲法発布の約束
・合わせて「大隈に詰め腹を切らせる」(大隈下野)
 を決めてしまう。伊藤にとっては目障りな存在だったんですね、、大隈は。
ワイワイ無し崩しに、憲法やら議会やらが形成されるくらいなら、政府主動で作ろうと、相手が望む提案を先に出す。
かつての師匠である吉田松陰が、伊藤博文の事を「斡旋が上手い」という意味の評伝をしたそうですが(伊藤はこの評価を嫌がったようだけど)この政治感覚はよくも悪くも伊藤博文らしい。
結局、後の10年で大急ぎで各種法案を整備し、憲法発布にこぎ着けるのだが、これは官僚達の成果と言える。この時代くらいまでは、民がまだまだ官に甘えているのかなぁと思わなくも無い。生まれたての国家で優秀な頭脳と才能が運営する側に沢山投入されていた時代なのだろう。
さていよいよ次回は、官僚を考える上で絶対避けて通れない「大久保利通」が登場する。歴史に「もし」は無いけれど、もし大久保が非業の死を遂げなければ、憲法はどんな形になっていたのだろう。非常に楽しみである。

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