2013年1月14日月曜日

だまし絵的映画?「インセプション」の遅めの鑑賞感想

2010年の作品
お正月休みにiTunesでレンタルした映画。ついこの前と思っていたのに、公開が2010年と知って愕然。。。ロードショー中の映画を観たい時に観られる幸せ、、いつになったら子どもの手がかからなくなる事やら。。

そんな事はさておき、観た人数人が「何が何だか全くわからなかった。」と言うのを聞いてずっと気になっていた。噂に違わず難解な映画である。
このブログで映画感想は初めてかも知れないけれど、凄く気になる内容だったので、感想と私なりの解釈を。。
【!注意!】
完全にネタバレです。バラさないと書きようがなくて。でも一度も観た事無い方には読んでも内容がチンプンカンプンかもしれません。一度観てる人ならば「なるほど」とおさらいに。。。この映画の解釈はいろいろ分かれているそうですが、これはあくまで私の解釈である事をお断りしておきます。


Dream in a Dream(夢の中の夢)
夢の中で「あ!夢だったんだ。」って目覚めたのに、実はまだそれも夢で、さらに目が覚める。。こんな経験をした人は多いだろう。明日の朝は遅れちゃいけない、と思って緊張しながら寝た時はそんな感じで、何度も夢の中で遅刻する夢を見て、目覚めていたような気がする。
バットマンシリーズ(ビギンズ/ダークナイト/ライジング)の監督クリストファー・ノーランが手掛けるこの「インセプション」はそんな風に夢(潜在意識)の中にまた夢があって、そのさらに下に夢があって、、と縦構造に夢が階層化されている。その夢を深く深く潜り込み、他人の潜在意識にアイデアを埋め込んで、あたかも自分が考えついた全くのオリジナルなアイデアだと思い込ませる「刷り込み屋」の話である。(主役のドミニコ・コブ役はレオナルド・デュカプリオ)
経済界の大物サイトー(渡辺謙)が競合相手の会社を潰す為に、もうすぐ跡取りとなるであろうその会社の御曹司ロバート(キリアン・マーフィ)の潜在意識に植え込み(インセプション)を行って欲しいと、コブに依頼をする。コブは「潜り込み」に必要なメンバーを集め、ロバートへのインセプションを敢行するのだが、、コブは愛妻モルとの間に問題を抱えており、夢に潜行すると度々モルが現れて、、、。というのがおおまかなあらすじである。


夢に潜行する時のルール
この映画の面白い所は、実際には「主観的なものである夢」を共有してしまう点。最初に観た時はそのルールがよく分からなくて、確認する為に都合3度も観てしまった!ネット検索すると、その構造とルールを分かり易く図解していた。(自分で描こうと思ったけど同じ事を考えている人が居たのね)
  • 共有したい仲間同士は「夢共有マシン(?)」をハブにしてケーブルを腕に巻いて眠りにつく。
  • この時誰か一人が「幹事役」になってその人が見る夢に残りのみんなが入る。
  • さらにその下の階層の夢に行く時は「幹事役」は自分の夢の中に残らなくてはならず、眠っているみんなの面倒を見る。(脱出して現実世界へ登って行く時にタイミングを合わせるんですね)
  • 夢は深くなるほど時間が20倍になるので、現実世界では1分が→その下の階層の夢では20分→さらに下では400分(6時間40分)とどんどん長くなる。
大雑把に言うとこんな所で、このくらいは予備知識が無くても初見で何となく把握出来るレベルだ。
上図はその仕組みを分かり易く図解している。でも問題はここから、、。この図で示されている「依頼を遂行」するストーリーの核部分に気を取られていると、エンディングに「あれ?」と思ってしまう。


樺沢解釈
先日のエントリーで樺沢紫苑さんの著作を紹介したが、この映画好きの先生はやっぱり予想した通り「インセプション」に関して独自の解釈を展開しておられた。詳細は樺沢氏発行のメルマガ「映画の精神医学」(まぐまぐ:登録無料)のバックナンバーに書かれているので、(2010年9月13日、28日号)機会があればお読み頂きたい。樺沢氏も「自分なりの考えだが」と前置きして、この映画の巧妙さをこう指摘している。(以下、ネタバレ。メルマガもかなり長いので要約してみました。)
実はこの映画は全編「夢の中」だとノーラン監督は仕掛けている。大半の人はそれに気がつかない。その根拠は、、
エンディングでコブは切望していた我が家へ帰還するが「これは現実か?」と確認する為にコマ(コブのトーテム)を回す。ずっと周り続けるとそれは夢で、バランスを崩して止まれば現実だが、止まるか止まらないかのギリギリで暗転する。このエンディングの解釈で議論が分かれているが、樺沢氏は「ノーラン監督なら曖昧に『解釈は観客に委ねる』という終わり方をしない。(緻密な演出をする監督なので)ノーランが想定するエンディングがあるだろう。」と予想する。
そして「トーテム(夢か現実かを判断するお守り)は他人に触らせてしまうと、夢を乗っ取られてしまうので触らせてはならない。 」とルール設定しているが、実は映画の一番最初でそのルールは「無効だ」と宣言する描写があると指摘している。(老人の特殊メイクをした渡辺謙が「このコマを知っている」とコブのトーテムを触っている)→だから「コマが倒れたら現実」とは言えない。
現実世界に見せている描写も、時間と場所のつなぎがいい加減で、全て主人公コブに都合良く「こうなって欲しい」と望む展開する。これはいかにも「夢の特性」をよく表現していて、ノーラン監督は意図的にそう演出している。(パリに居るはずの義父がなぜかロサンジェルスの到着ロビーで待っているとか、、)
最初のシーン「サイトー(渡辺謙)の日本風家屋」と最後にコブがサイトーを迎えに行くシーンは、そっくり同じで最初のシーンが「回想シーン」に見えるが、実は二つは違うもので(台詞が似ているけど決定的な所が違う)サイトーが見る夢の中でコブが望む「現実世界」へサイトーがコブを連れて行って「成仏」させているのだ。。
という内容。これを最初に読んだ時は「え!そうなの!」とかなりショックで、この解釈を念頭に入れながら、2度さらに観てしまった。
謙さん最初の登場シーンがなんとこの老け役。背中からのショットは凄く老人っぽくて感じが出ていた。


ペンローズの階段
映画でも出て来るペンローズの階段
不可能図と言われるペンローズの階段
 映画で、アーサー(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット)がアリアドネ(エレン・ペイジ)相手に、ペンローズの階段の説明をするシーンがある。有名な騙し絵だが、実際に作るのは不可能で、映画でも「パラドックスだ」と言いながら見る角度によって「種明かしが出来る」とでも言いたげなシーンがある。(つなぎ目無く続く階段も実は途中で途切れていて、見る角度で錯覚を起こしている。アーサーがホテルの無重力の中で格闘する時も同じ表現がある。)
樺沢解釈に「そうかぁ〜!」と興奮しつつも、何となく釈然としない。物語に緻密なルールを設定しているノーラン監督の事だから、「あ、そっか」とスパッと解釈で来そうな気がするのだが、樺沢説を支持するとなると、先に挙げた「夢の中に入って行く時のルール」との整合性に妙に悩んでしまう。(メルマガも二度読み返したけれどやっぱり分からず)この映画全体が夢で、それがサイトーが主幹元の夢だとすると、
  • 現実はどこにあるのか?
  • 実在した人物は誰?(サイトーとコブだけ?)
  • コブはサイトーの夢の中に入り込んで出られなくなった「すり替え人」?(サイトーが一番始めに「夢で出会った男」とコブの事を言っているから可能性は高い。)
  • じゃあコブって居る人なの???(そもそも生きているのかしら?)
因に、樺沢説では全体が夢であるなら、サイトーとコブ以外は全員コブが作り出した「陰」であるというような主張をしている。
まるで、映画全体がペンローズの階段のように思えるのだ。いかにもつなぎ目がスムーズに理論だっているようでいて、「あれ?おかしい?」と。。最初と最後のつなぎがおかしい事までは分かるけど、じゃあどっちがどうなのかと考えはじめると混乱する。ノーラン監督がほくそ笑んでいるようで、本当に「奇才」だと脱帽してしまう。(私の脳みそではもう限界)


二人の女性性
ワールドプレミアにて
出口の無い回答を堂々巡りしていても、仕方無いので、最後に、この映画に登場する二人の女性に注目したい。一人はコブの妻モル(マリオン・コティヤール:写真左))もう一人は、コブが夢の中の街の設計士としてスカウトするアリアドネ(エレン・ペイジ:写真右)。
この二人はどの面をとっても正反対で、コブにとって(或は男性全般にとって)二人は究極の女性性を表しているんだと感じた。


グレートマザー的モル
「モル」という名前からして変わっている。ちょっと調べてみたが、malは接頭語で「不全な、悪い」という意味になるらしい。この事も非常に意味深。。。
演じたマリオンは女性の私が見ても「ああいいなぁ。」と思う、大人の知性と色気を感じさせる女性だ。コブがベタ惚れしてしまうのがよくわかる。二人はどうやら建築科の学生だったらしく、成績優秀だったコブは、その恩師の愛娘モルと結婚したらしい。
コブはモルと共に潜在意識に潜って、自分達の思う通りの都市設計を延々と繰り返し、50年という歳月を二人っきりで過ごしてしまう。(現実では数時間のうたた寝程度なのだけれど)全能感に満ちあふれた世界から、モルは出るのを嫌がり、コブは「ずっとここで暮らす事は出来無い。」と畏怖の念を抱き始める。
このワンショットだけで相思相愛ぶりがよくわかる。
 モルの潜在意識に「これは夢だ」と埋め込んで(インセプション)無理に現実世界へ二人は戻って来るのだが、それを受け入れられないモルは、夫を陥れる策を巡らせて、コブの目の前で投身自殺をしてしまう。(死ねばまたあの世界に戻れると。。)
砂のお城が風と波で崩れてゆく、コブとモルの「リンボー(虚無)の世界
以来、罪悪感に苛まれ続けているコブは、妻を殺害した容疑で追われ、二人の子ども達とも会えないでいる。(この一連の話は現実にあった事なのかどうなのか、、それを考え出すと頭が痛くなるので、とりあえず置いておく)
この一連の描写がいかにもだなぁと思うのである。
女性が見ても「お!」と思うこの色気。
潜在意識下(闇や夢)は多くの神話が女性性と結びつけている。潜った先を出たがらなかったのは、コブでは無くモルだった事は非常に暗示的で、思わず「ギリシャ神話のエウデュケ」や「古事記のイザナミ」を思い出す。(どちらも妻が黄泉の国へ行ってしまい夫が連れ戻そうとするが失敗する。)
モルは全編を通し、魅惑的でありながら、ちょっと怖くて困った存在としてコブをずっと悩ませる。
「約束したでしょ?なすべきことをして。」
昔の言質をたてに、行動を促す魅力的な妻。男性は女性のこんな面がきっと恐ろしいに違いない。逃げ出したい衝動と、でも逃げられない魅力。。ディカプリオは、一人の女性を一途に愛しながら内面の葛藤を抱える役をやらせたら天下一品だと思う。(まあ、俳優として基本スキルなんでしょうが。。)しかし、容姿がそれに見合っていないと「単なる鬼婆」よねと思って自戒に務めるわけである。


知性の光を持つ守護天使アリアドネ
「僕みたいに優秀な学生は?」とスカウトしたアリアドネ
「アリアドネ」と言えば、言わずと知れた「アリアドネの糸」の女神を模しているとしか思え無い。テーセウスがミノタウロスの迷宮から出られるように糸巻を渡した女神の名前だ。(ギリシャ神話)この映画でも、モルと対照的で少女のような透明な容姿と、最後の階層までコブに付き合って同道する女性であり、コブが義父に頼んで
「自分と同じくらいに優秀な学生を紹介して欲しい。」
と言って現れたのが、アリアドネだ。彼女は教授が推薦するだけあって、建造物をイマジネーションする力に優れ、トレーニング中もコブにその実力を認めさせる。樺沢氏は
「アリアドネは、コブにとって最も都合のいい女性で、彼が『こんな人物なら自分を救い出してくれるに違いない』と投影した陰だ。」(メルマガより)
と 解説する。非常に鋭い分析で、映画でも彼女の個性はガラスの様に透明で、コブが心で思っていても出せない事を、顕在化する役割を担っている。重要な役割を担っているのに、モルと対照的で人間臭さがまるで感じられないのは、役割だけが結晶化したようなキャラクターだからだろう。
一度だけモルが「あんたは誰?」とアリアドネに対峙するシーンがあるが、基本的にモルはアリアドネが眼中に無く、アリアドネもそれがさして悔しいという訳でない。それは、互いが、コブを中心として存在しているからだろう事を考えると、納得出来てなかなか憎い演出である。

ゆっくり映画を観る時間がこの所少しづつ取れるようになったので、本と合わせて意識的に観るようにしなきゃなとつくづく思う。少なくとも、今話題のノーラン監督のバットマンシリーズ三部作は遅まきながらも観なきゃ。

1 コメント:

CE さんのコメント...

個人の記憶によって人生や生涯が変更されことが運命論に対抗し得るのなら、
米国のカルチャーに神学論争の余地があるという事なのね!?

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