2012年7月14日土曜日

アゴラ読書塾Part2最終回「昭和天皇独白録」〜激動の昭和を生きた天皇〜

アゴラ読書塾Part2、最終回を締めくくったのは、やはりこの人「昭和天皇」である。いつもは似顔絵を描く所だが、今回はさすがに荷が重いので書籍の写真で、、。
昭和天皇は、まだまだ記憶に新しい人物で歴史研究もこれからと言える。近年多くの研究書が発刊されているが、私が読んだ関連書籍は、、



  • 昭和天皇論(小林よしのり)
  •  昭和史(半藤一利)
  • 日本のいちばん長い日(半藤一利)
  • 昭和史裁判(半藤一利/加糖陽子)
  • 昭和天皇独白録(今回のお題本)
である。小林よしのり氏の書籍は、若干内容が偏り気味なので、少し冷静に読んだ方がいいが、漫画で大枠を見せる点は評価出来る(特に終戦直後の一大行幸録はあまり言及した一般書が無いので読むに値する。)「昭和史」「日本のいちばん〜」「昭和史裁判」あたりは、資料の裏付けに基づく基本常識なので一通り押さえておくと、今回の「昭和天皇独白録」の内容が理解し易い。


率直に語った大元帥
「昭和天皇独白録」は色々な所で引用され、存在は知っていたが今回初めて通しで読んだ。この一級の資料が発見された経緯も非常に興味深いので、それは最後に紹介したい。

読書塾では、この独白録から昭和天皇が置かれていた立場を考慮し、当時抱えていた致命的欠陥を言及した。
そもそも、大日本帝国憲法(明治憲法)では「内閣」というものが存在せず、各大臣はそれぞれに天皇を輔弼(天皇が権力を行使するのに助言を行う)する役割しか無い。
内閣総理大臣も各大臣と同列なだけで、現在のように閣僚を罷免する権限も持っていなかった。池田信夫氏は
「結局、薩長が使い易いよう、明治後半は長州が使い易いように作られた憲法だった。」
と言う。元老と称される明治の元勲達が、総理大臣を推薦(事実上決める)する形で歴代の内閣が形成されて来た。これまで読書塾で見た通りである。(参照:山縣有朋
属人的に元勲達が押さえている間は明治憲法は機能したが、全ての元勲が底払いしてしまった昭和初期から、システムが誤作動を始めたと言える。

さらに軍事を司る「統帥権」が文民である大臣達の統制下に無く、直接天皇が持っていた事も災いした。天皇は軍の最高位にあたる「大元帥」だったが、実際に思うまま大権を発動出来る訳でなく「君臨すれども統治せず」の立憲君主制のポリシーを教え込まれていた。基本的に帷幄上奏(いあくじょうそう→こんな作戦を実行したいですとお伺いをたてる)されれば、それを裁可するしか無く(「もう少し考えてくるように。」とご下問という形で差し戻す事はあっても)唯一の例外が終戦の聖断である。

半藤一利氏は「昭和史裁判」の中で
昭和天皇は、よく戦術的な事に踏み込んだ発言をしている。だが、もっと大局に立った戦略眼は今ひとつ無かった。
と発言している。基本的には「平和主義者」で、日米開戦時に明治帝が日露戦争開戦を憂いた句をそのまま引用している所から、不本意に始まった戦争を何とかしたいと常に思っていた様子は、独白録からよく伝わる。
どちらかと言えば海軍贔屓で、板垣征四郎タイプ(陸軍で言葉の少ない一見いい加減そうな大将)などは信用できず、有能な事務方肌の東条英機を当初は買っていた。公家出身の近衛文麿の優柔不断さをやや嫌悪していて、だから東久邇宮(ひがしくにのみや)を首相にとの声に「宮家が政治に関与するのは良く無い。」と難色を示したのかな、、、(結果、東条英機になった)などと気持ちの内側が伺い知れる。
この記録を残した、寺崎はその家族に
「お濠の向こうの囚われのお方」
と称したらしい。直接、昭和天皇から話を聞く事で、その人間性に触れたのだろう。


戦争が鍛えたもの
「昭和天皇は、伝統的に武張った事に関わって来なかった天皇家において、戦争にコミットした稀な存在である。後醍醐天皇以来ではないか。」
池田氏はこう語る。明治帝は違うのかな?と思うけど、日清/日露の時は士族階級の元勲達がまだ実務運用をしていたから、昭和天皇ほどやきもきと細かい作戦の経緯を追う事は無かったろう。
明治期では、まだ戦争そのものの規模は小さく、国家間の関係もそれほど複雑では無かった。第一次大戦でヨーロッパは嫌という程「これからは物量戦になる」事を身を切る事で学んだが、日本は一世代遅れの意識のまま第二次大戦に臨んでしまったという解釈もある。

いずれにせよ梅棹忠夫が提唱したように、大陸では常に血みどろの国家戦争が繰り広げられ、それを繰り返す中で
目的意識を持って合理的に判断する仕組み
が鍛えられた。その為に階級秩序が作られ、戦争に勝つ為に必要なことが発明される。(この部分の話は、次節Part3のテーマとして継承される予定。)

到底勝てない相手に対し、最悪の判断である「開戦」を決めたものは一体なになのか。それは、日本古来から採用されて来た「合議制コンセンサス」で、これは本来自然な共同体が持っているものであると提唱されている。
家族や友人間では、互いに話し合って納得するプロセスが大切だが、それを言っていられない苛烈な環境に置かれた民族ほど、合理性を獲得していったと言えるのかも知れない。


知性が導いた歴史的資料
最後にこの「昭和天皇独白録」発見の経緯がとても劇的なので、ここに少し紹介したい。

「独白録」は90年に発見され「文藝春秋」紙上で全文が発表された。(当時の私はバブルに浮かれた小娘だったので、当然こんな発見があった事は記憶に無い。)
寺崎英成(てらさきひでなり)という人物の生涯と、この資料は深い関係がある。

寺崎は戦後「宮内省御用掛け」として昭和天皇の通訳を務めた。昭和21年3月から4月にかけて都合5回に渡り昭和天皇に直接ヒアリングし、張作霖爆殺事件から終戦に至る経緯を、率直に語った言葉を書き留めたものだ。(原本を筆写したものとも言われている)
戦前外務省一等書記官として日米開戦の直前までワシントンに駐在し、アメリカ人女性と結婚して娘を一人もうけている。開戦と同時に交換船で家族は日本に送還され、戦時中は「敵国人」の妻(グエン)と辛い思いをしながらひっそりと過ごしていた。知米派だった寺崎には出番が無かったのである。

終戦後、にわかに GHQと折衝をする必要に駆られ、語学堪能で外交情勢に詳しい彼は必要とされた。娘である「マリコ・寺崎」は、父は既に病を得て体調を崩しがちだったが、本当に生き生きと役目を果たしていたと証言している。
戦後の混乱が治まらない1949年(昭和24年)マリコにきちんとした教育を付けなければと、寺崎は妻子を妻の故郷テネシーへ帰国させる。それがこの夫婦の最後の別れとなり、寺崎は2年後に50歳の若さで亡くなってしまう。

この時の遺品に「独白録」が含まれていたのだが、母娘は経済的理由から来日しての墓参がままならなかったり、受け取っても二人共も日本語が全く読めなかったなどして、40年近くアメリカの民家の物置に眠ったままだった。
発見のきっかけは、マリコの息子(寺崎の孫)コールが祖父の生涯に関心を示し、祖母が持っている遺品の英訳を手掛けた事にある。
当初は寺崎の個人的な日記であろうと思っていたが、カリフォルニア大の日本研究の教授に支援を頼み、そこから東大へ問い合わせが行って初めて「昭和天皇の回想録が混じっている」とわかった。
 恐らく、歴史関係者は色めき立ったであろう。昭和が終わって平成が始まった直後に、まるで図ったかのような発見は、歴史の不思議さを感じると共に、良識ある知性はきちんと伝承するのだと感じ入った

娘であるマリコ・寺崎氏は、父英成の事をこう評している。
父は生粋の”明治の人”であり、生粋の日本人だった。だからこそ、あのような国際人になれたのだと私は思う。日本人としての教養と信条がしっかりと備わっていたからこそ、海外に出たときに、世界の中における日本及び日本人の立場と役割を国際的な視点から定義できたのである。

「混血児」といじめられて泣くマリコに、

「おまえは、ラッキーな子だ普通の人は一つのヘリテージしか持っていないが、お前は二つのヘリテージを持っている、二つの祖国の「ブリッジ」になれる子なんだ。」

と言えるのは、並大抵の知性では無い。その知性が持つ力はマリコを通じてしっかりと、孫のコールに受け継がれているのだと思う。
独白録の内容も良かったが、この寺崎のエピソードが非常に心に残って非常に良かった。
ともすれば暗くなりがちな日本の将来を
「そんなに捨てたもんじゃないかもな。」
と思える読後感だった。


今回の読書塾は13人の重要な人物の生涯を辿る事で、近代日本の歩みを細部に渡って理解する良い機会だった。
毎回、スカイプでの授業形式は運営事務局側にそれなりにご負担を掛けたと思う。しかし、1回1回の内容はとても濃厚で、事実のアウトラインをなぞるだけでは知り得ない、リアルな歴史の息づかいや空気感まで捉えられたように思う。これまでの生涯に、こんな短期間で沢山のページを読んだのは初めてで、少しは読解力がついたかなと思う。改めて、この機会を与えて下さったアゴラ研究所と、テクニカル面でのボランティアを買って出て下さった受講生さんに感謝の意を表したい。

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