無縁・公界・楽ともののけ姫 |
うっかり池田先生に「先生が最初にブックリストに挙げられていた『無縁・公界・楽』は取り上げないのですか?」と質問してしまったのが運の尽き。「しまった!」と思ってももう遅い。一度先行して読んだけれども、内容が捉えにくく、でも、これまで読んで来た本とは、何かが違う気がして、そこが知りたいと質問したのだが、レポートを書く為に再度本書に立ち向かわなくてはならなくなった!大慌てで辞書を引きながら、会社のレポートを書くより真剣に取り組んでしまった。
満身創痍のアウトロー学説
本書(平凡社ライブラリー刊行)は全体の三分の一を「補注」が締めている。こんな本は見た事が無い。補注の殆どがこの発表した内容に対する批判に「返答」するもので、要は
という感じに終始している。いかに網野学説が異質で、これまで常識とされてきた歴史学から「異端児」扱いされていたかが伺い知れる。ご批判はありがたく頂戴するが、それでも私は自説を曲げるつもりは無い。
脈略無く、細かな史実が羅列される本書をざっと眺めてみると。
- 農耕の定住人以外に、遍歴する芸能民(職人、芸能、遊女、禅僧、広くは漁撈民もこちらに属する)が日本の中世(平安末期〜鎌倉期)には存在した。
- その集団は時に「無縁」の場(山林と寺社、市と宿、墓所、公道や橋、アジールとしての家)を形成していた。
- 無縁の場は一種の「治外の場」であり時の権力とは別の原理により成り立っていた。
- その無縁の場と「天皇家」とは細々と関係していた。
- 織豊時代から江戸期にかけて、この「無縁の場」は急速に失われてしまった。
池田先生は「網野さんの学説はそのままそっくり本当とは思えない。」と前置きをしながらも。
しかしながら、今読むと日本人にも「ノマド(遊動民)/モビリティ」のDNAはきちんと入っているのではないか。と言う。有史以前、永きにわたる「移動/狩猟採集生活期間」 (最近放映された NHKスペシャル『ヒューマン』が良い内容です。)の方が生物学的に遥かに大きく遺伝子に影響を与えているのではないか、、と述べていた。(私も賛成)
でなければ、こんなにみんな「イライラ」と現状に不満で「自由」に憧れるわけが無い。同じ事を「現状維持」でじっと繰り返している状態が、唯一の正解ならば、みんな幸せであろう。これは「丸山真男の言う古層」が現状維持の「たこ壷レイヤー」なのに対し、ひょっとしてそのさらに深部には「網野的自由を希求するノマドレイヤー」があるのかも知れない。という解釈は、なかなかにうなずけた。
主流派になれないノマド達
読書会では、ノマド的職業人達の日本社会におけるあり方に話が及んだ。
- 主流派にはなれないけれど、居なくなったら困る人々
- 全体の三割以下ならば「ノマド」はすり潰されない
- 全員がノマドになると、、それは「中国化」のはじまり。。
「歴史的に見ても主流派になれませんな(平家・海軍・国際派)。」
の確認で終わってしまった。これまでも、この事はいろいろな場面で言われて来た気がする。(自分の身の回りを見ても。)
体験的に思うに過ぎないが、ノマド達には定住民には無い
- ブレイク・スルーを呼び込む力
無縁、苦界の原理とは、自己を貫徹する、深い生命力に寄っている。という考えと無関係ではないと思う。定住型民がしばしば襲われる「体勢の崩壊」時に現れるのが、この「ノマド達が持つ能力」ではないかと思うのだ。(会社の中でも一定数のノマド層がいないと成り立たない:池田先生談)
そして、注目したいのが
- インターネットの発達で「内なるノマド」の欲求がバーチャルで満たされているのではないか。
- バブル崩壊以降の不況下に「ノマドに成らざる終えなくてなった若者達」の存在をどう考えるのか。
もののけ姫再認識
読書会のレポートでも「網野学説」と「もののけ姫」のエピソードを紹介させて頂いたが、これは輿那覇先生の「中国化する日本」の内容を受けての事で、意外にも池田先生は「もののけ姫」をご覧になった事が無いそうだ!!(驚き!)
あのアニメで表現された「タタラバ」は間違い無く「網野的公界」を表していて、蔑まされた人々が、女首領である「エボシ御前(彼女の装束は白拍子)」 のもと、森を切り開きながら砂鉄から製鉄を行っている。大量の木材を燃料としながら、燃料が無くなると「タタラバ」ごと移動し、産出した「タマガネ」(これを鍛練させて農耕具にする訳ですね)で財を成している集団である。
周辺の領主連中がこれに眼を付け、「タタラバ」を蹂躙しようと仕掛けて来るのだが、自衛の武器を開発するのは、エボシがかくまう「癩病患者」の集団である。
、、というのは、わざわざ説明するまでも無い有名な内容だが、無知な私は
「時代設定を室町あたりにしたおとぎ話」
としか観ていなかった。それでもあの映画が醸し出す不思議な生命力に魅了されたし、我が家の子ども達も、大好きでよく観る映画だ。
なぜ、あの映画のキャッチコピーが
「生きろ」( by 糸井重里)だったのか、当時はポカンとしてしまったが、今は何だかとても納得出来た。と同時に何とも話しの終わり方が「悩んだんだろうな」的、難しい感じなのも合点がいった。
この「無縁・苦界・楽」そのままなのである。混沌として話の収拾をつけるのが難しく、でも無視し切れない力強い可能性、、。とでも言うべきだろうか。
、、、、とにかく、なかなか噛みごたえのある内容だった。
来週のお題本は「メルトダウン」これまたホットな話題である。
最後に昨夜のレポートを転記したいと思う。
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アゴラ読書塾 第10回「無縁・公界・楽」〜日本中世の自由と平和〜
●主題
無縁・苦界の原理とは、自己を貫徹する、深い生命力に寄っている。
網野善彦氏は、それまであまり注目されて来なかった、「非農民層(漁撈民・商人・職人・芸能人)」にスポットを当て、「無縁の原理」を様々な歴史的資料を紐解いて、あぶり出そうと試みている。
これは、発表当時かなりの批判を浴びたようだが、今日読むと、新鮮に感じる事も多い。
この研究の出発点は
- なぜ、天皇は滅びなかったのか?
- 平安末〜鎌倉のみ優れた宗教家が輩出され
●無縁・公界・楽 8つの特徴
① 不入権
権力等の立ち入りが出来無い独立圏
② 地子・諸役免除
「地子」律令制で余剰公田を人民に貸し付けて収穫の何割かを税として取り立てたり、荘園制では田畑屋敷に課した雑税。これが免除されていたらしい。但し、供御人(くごにん)だった桑名衆や、戦国大名から諸役免除とされたいた鋳物師達は、朝廷への朝廷への貢納(こうのう)を続けている事から、この免除とは「戦国大名が課す」課役に限定される。そして、公界と朝廷との関係が細々と繋がっている事は無視出来ない。
③ 自由通行権の保証
そもそも、無縁・公界を構成する人々は、「遍歴の人」だったので、それが特定の「場」で保証されたと言える。
④ 「平和領域」「平和」な集団
公界の人々(勧進上人・禅僧・山伏・連歌師・茶人・桂女)商工民も含む広義の「芸能民」はみな「平和の使者」たりえた。
⑤ 私的隷属からの解放
主持ちの武士は住む事が出来ず、そのような関係から逃げ落ちる人々が逃げ込む場であり、それが社会的に認められていた。
⑥ 貸借関係の消滅
公界という「場」に「徳政(借金の形に取られた土地の回復や、免税措置とする政治)」という属性があった。これにより、平等・対等な交易が保たれ、祠堂銭(しどうせん)の金融活動も保証された。
⑦ 連座制の否定
当時の世俗では厳しく追及された「連座制」が、ここでは適用されなかった。
⑧ 老若の組織
年齢階梯(かいてい)的な秩序原理。自然的な年齢階梯のみならず、それぞれの集団に特有な「芸能」そのものの年功「臈次(ろうじ)」(仏教用語:出家受戒後の年数による僧の位から来ている)によって区別さたり、商人などは「富」の多寡そのものが区別の基準たりえたであろう。但し、これらの人々の間には「平等原理」が貫徹していた。多数決原理による会合によって、都市の運営をしていたのではないか。
この8つの原理が全て実現されれば、驚くべき「理想郷(桃源郷)」であるが、現実は厳しく、俗権力によって極力狭く限定され、その圧力によって「内部矛盾」も呼び起こされていた。こうした世界の一部は体勢から切り離され「差別」の中に閉じ込められようとしていた。
餓死・野たれ死と自由な境涯とは背中合わせの現実だった。これらの積極性は、織豊時代から江戸期にかけて急速に失われて行く。
楽 ― 信長/秀吉に取り込まれ
公界 ―「苦界」に転化
無縁 ―「無縁仏」のように淋しく暗い世界に相
応しい言葉へ
王権との闘いによって鍛え上げられて来た、西洋の「自由・平等・平和」思想に比べると、この「無縁・苦界・楽」の思想は、体系的明晰さと迫力は欠いている。しかし、これこそが原始以来日本に脈々と流れる「無主・無所有の原思想」であり、精一杯自覚的・積極的に表した「日本的」表現であると自覚しなければならない。
●無縁の原理の場
山林
この存在自体が「無縁」であり「アジール」であった。山林の中にある寺の多くがこの機能を持ち、百姓が圧政に堪え兼ねて逃げる事を「山林に交わる」という表現もある。
又、湊、浦にもその性格があり、漂着物(難破船等)は神社の修理材とされ、それは「流れたものは無縁のもの」という考え方があったからと推測出来る。
市と宿
市にも「無縁性」が認められ、寺社の門前に市が開かれた事実は注目すべきである。まだ「町」の様相を呈する以前であるが、祭礼に伴い、様々な「芸能民」が集い著しいにぎわいを見せていた。(平安後期〜鎌倉前期)
宿もほぼこれに同じ特性が見られ、宿と切っても切れない「遊女」との関係を考えると、中世の「芸能民」の中の女性達(桂女、白拍子、傀儡子)はまことに「野性的」で「たくましい」姿が浮かび上がる。(雑掌:役人を相手に幕府の法廷で堂々と争ったり、遊女を束ねる女性の長者が居たり。。)
銭湯の起源にもこのような「無縁性の場(アジール)」を見る事が出来る。
墓所と善律僧・時宗
墓所も、山林に多く点在し、それ自身無縁所と言える。河原も同じ性格で、死体集積の場であり、葬儀の場でもあった。鎌倉、南北朝期の時衆、禅律僧も無縁の原理を身につけた人々だった。
これらの人々には、激しい差別的非難が浴びせられた。差別に閉じ込められよつとしながらも、天皇や一部の貴族と繋がりがあり、ある部分では無視出来ない勢力となっていた。
橋と勧進上人
勧進(寄捨)を、受けるには、無縁の原理を身につけた人でなければならない。又、多くの橋、泊が勧進聖によって作られている。
これは、橋、津泊、渡、道路が無縁所だったからである。
金融・倉庫と聖
無縁所と、金融、倉庫の繋がりは深い。御賽銭を元にした金融活動や、貴重な家財を無縁の原理である寺に預けて戦火から守ったのは必然だった。
女性の無縁性
伊勢志摩の都市では、土地、家屋の名義が女性である割合が高い。40%に及ぶケースもあり、女性の無縁性を伺い知る事が出来る。これは、性そのものの特質と関係しており、無縁の原理が衰退してゆく歴史と無関係では無い。
女性「性」の「非権力的な特質」、「自由」と「平和」との結び付きが、衰退の原因であるとも言えるし、その過程の徹底的な理解が、開放への確固として揺るぎない立脚点になるだろう。(心強く思える言葉だ。)
アジールとしての家
家にも無縁性があった。これも無縁性が辿った衰退と同じ関係にある。
自由な平民
百姓達の抵抗。原始的な氏族共同体以来の流れをくむ「自由民」としての特質を見出しうる。
●無縁という言葉
否定的な意味で使われ、寄るべない、貧困な状況で使われる言葉であったが、そればかりではなく、権力に依存しない「自由への追求」的意味合いや、事例がある、というのが網野さんの主張。
【感想】
●もののけ姫の原作
輿那覇先生の「中国化する日本」でもちらっと触れられていたが、スタジオジブリの「もののけ姫」はこの網野説を全面的に採用していると改めて認識した。
映画が公開された当時、日経新聞の文化欄に小さな囲み記事が載っていた事を覚えている。
「女性ばかりが働くタタラ場〜アニメ制作の現場〜」という感じだったと思うが、本来、女人禁制の鍛冶場で、女ばかりが働いている設定の不思議さを、アニメ制作の現場を支える女性達とを重ね合わせて読み解いた内容だったが、この本を読んだ後だと、また違う感想を持つ。
かの映画での女性達はとても力強い(宮崎アニメの多くがそうだけれども。)
世間から蔑まされた人々で「タタラバ」は構成されている。精錬によって大きな財を成し始め、周辺勢力から干渉を受けたり、リーダーは女性だったりとこの著書の内容そのままである。
「ここの仕事は辛いさ、でも下界よりずっとマシさ。」
身売りされたところを、エボシ御前に買い拾われた娘が、主人公のアシタカに向ってこんな台詞を言う。
●オープンな実力社会?
網野説によれば、無縁は「逃げ込む」事が可能な世界らしいが、無条件、無制限に受け入れていたのだろうかと疑問に思う。
来る者は拒まず、追っ手の侵入を防いでくれる所なのだろうが、首尾よく中に組み込まれた人間はどのように暮らしていたのだろうか?
「芸能民(広義の)」は手に職系の実力、能力がものを言う社会だから、能力の錬磨について行けなくなった人間はどうなってしまったのだろうか?
私の読み落しかも知れないが、本書ではあまりその部分は明確に推論されていない。
網野氏の言う「無縁性の衰退の原因 −自由と平和の結びつき-」にその一旦が想像出来るようにも思う。
今回の読書会で、そんな事も共に議論出来たらと思う。
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