2012年3月30日金曜日

アゴラ特別セミナー 輿那覇潤x池田信夫「江戸化する日本? 変わる世界・変われない日本人」〜歴史の基礎知識はやっぱりビジネスに必須であると思う〜

どちらもサイン入り!大切にするのだ。

「歴史は過去と現在の対話である。」E.H.カー

最近つくづく良いと思っている名言である。(NHK-BS歴史館のオープニングに流れてる言葉なんですけどね。)

先日、アゴラ特別セミナーを受講して来た。 先週まで続いた「アゴラ読書塾」の特別補講で、大変盛況で会場は一杯だった。それだけ「中国化」という言葉にみなさん敏感になっている証拠だ。

ビジネス界の焦り
輿那覇先生/池田先生、共に口を揃えて
「40年前から『日本人論』は変わっていない。言い換えると、それ以来、新しく書かれていないし、課題提起や問題点の指摘のみでそこから先の指針が無い。」
と指摘する。(読書塾を終えた身としては深くうなずくばかり。)
両氏共、様々な公演/取材でお忙しいく、その先々で
「無視出来ないまで、巨大で力をつけたアジア。もはや、『安い人件費の発注先』では無く『お客様』であり『新進気鋭の発想力を持った強烈なライバル』---なのに、彼の国々のことを何も知らない自分達。それに焦りと恐怖を感じている。」
という状況らしい。これは全くその通りで、私の務める会社でもご多分に漏れない。

私が「学んで」いた70年代半ば〜80年代と言えば、バリバリの冷戦時代。社会科の地図帳はソ連や中国はいつも白地図で何もデータが無く、
「共産圏は情報を出さないのです。」
と教えられた。
下手な教師に当たってしまうと、随分偏った事を教えられた人も居ると思う。(幸い、私はバランス感覚に優れた社会科の先生達が多かった。)
こんな状況だから、日本人の視線はいつも遠く欧米を見つめ、敗戦という状況がさらに加速させて
「あんな生活をしたい、欧米に追いつきたい。」
と遮二無二なって働いて来たのが20世紀末だったのだ。(あの時、日本経済が隆盛を極められた理由は先日のエントリーの通り)

そして、目の前に横たわるアジアの国々を「まるで存在していない」かの如く、無視してしまった(私を含め)。

私の親世代は、「アジアのお仲間」的、貧乏で、汚くて、だらしが無くて、、という時代の日本を知っているから、アジアと聴くと「遅れてる」と咄嗟に拒否反応を示してしまう。恐らく、現在日本企業の経営層の多く(特に旧世代)は、まだ頭の奥で、このマインドセットを持っていると思う。(人間の脳の深い部分--感情--への刷り込みは、そう簡単に拭えないとつくづく思う。)

感度の良い、深遠に考える知識人達は、早くから「日本」という国の特異性を指摘して来たが、その声はいつでも「アウトロー」だった。(池田先生、教えて下さってありがとうございます。)そして、ここに来て「しまった!」と焦っているわけだが、
「遅れてるってバカにしてる中国の方が、ずっと『個人主義』的振る舞いには慣れているんでっせ。」
と、鮮やかに説いてみせたのが、輿那覇先生、、という図式だ。(輿那覇先生、しばらくは「教えて、教えて」とコール鳴りっぱなしでしょうが、知らない人が殆どなので、一つ可能な限りよろしくお願い致します。)

最古層レイヤーをどう慰撫して来たか
対談の内容は多岐に渡ったが、いま一度おさらいしておきたいのが、各民族がどうやって「DNAに埋め込まれた平等感」を慰撫して来たのか、その方法論だ。

読書会でも「古層(丸山真男が指摘)」 の下に「最古層」があるのではという説を取って来ていた。これは近年、最新の自然考古学研究から明らかになった、人類の歴史(※1)に因っている。
※1)人類の祖先は全て共通のDNAを持ち、その起源は東アフリカから始まっている。遠く食べ物を求めながら、大きくても最大50人程度(それが集団で移動する限界)のグループで行動を共にした「狩猟採取時代」が全人類史の99%の時間を締めている。(詳細は NHKスペシャル「ヒューマン なぜ人間になれたのか」参照)

この「最古層」は
  • 集団は守らなければならない。(でないと自分達が死んでしまう)
  • 狩猟採取能力は個人差があり優秀な人間は必ず存在するが、優秀な者が多く稼いでも集団へ平等に分配しなければならない。(結果平等)
  • 平等を乱す者は許さない。 (制裁措置として見せしめに殺す)
という特徴を持っている。 これは地球各地の未開地の部族に共通した特徴で、先に引用したNスペ「ヒューマン」でも、印象的な取材が放映された。

アマゾン奥地の未開部族に芽生えた「俺の才能をもっと換金して、良い暮らしをしたい。」と思い始めた村の男の話を例に取ると分かり易い。

彼は、珍しくて貴重な木の実をジャングルから採って来る才能に長け、いつも同じ村の人々に均等に平等に分けて来た。
ところが、道路が通り、生活物資が細々と村に入るようになり、町から引越してきた「商売人」が近所に住み始めて、「木の実を売って現金化」する事を思いつく。
村人に分ける前に、いくらか取置いてそれを売りに行くのだが、簡単に実行したのでは無く、思い悩み「後ろめたい感じ」で彼は逡巡していた。
この逡巡に注目したい。
「平等を乱さない」というマインドセットが強く埋め込まれていることを、物語っているからだ。

転じて、彼の例のように、いつまでも「最古層」の規範に捕われていては、グループが発展出来ない。(というか肥大化した人数を養えなくなるだろう。)
ここで「より食えるように稼ぐ」施策として
  1. 才能やチャンスを生かしてどんどん独占して下さい。但しそのポジションへ付くのは自由競争で全員に機会があります。(機会平等主義)結果は保障しません。「各自頑張って生き抜くように。以上。」→中国や西欧諸国
  2. 独占は許しません!でもある部分だけ独占していいです。みんなが少しづつ我慢して、こっそり部分的に優越感です。「みんな一緒に生きましょう。」(結果ならすと平等主義)→日本(江戸時代に一つの完成型)
 この特徴を理解しているか否かは、結構重要である。

お隣中国はどうなってゆくのか
輿那覇先生のコメントは凄く面白かった。アウトラインをかいつまんでご紹介すると。。。
  • 共産党に対しては「言い方」を注意すれば、マイルドな「単一政党の下での自由化」が実現するのではないか。
  • 「人権」「言論の自由」「複数政党制」とお決まりの三点セットをゴリ押ししたら絶対ダメ!(人権/言論のみであれば、徐々に実現して行くのではないか)
  • 何だったら「国家主席にノーベル平和賞!」というのも大いにあり。
  • なぜなら、「おだてる→真の徳治政治」が彼の国には一番合っているから。
なかなか!である。
中華帝国が周辺国と行っていた「朝貢貿易」は「一の貢ぎ物」を持って来た周辺国に対して、「十の恩賜」で答える、「持ち出しばっかり」の貿易だが、そうして「徳治」を振る舞う方が、コスト的に安いと考えたからだと言う。
歴史の授業では「冊封(君臣関係を結ぶ)」と混同されがちで、たぶんキチンと教えてもらえない方が殆どでなかろうか(私もつい最近まで誤解!)。彼の国の「面子(メンツ)」を考えなくてはならないという事だ。

歴史を知るとは過去から今を読み解く力
冒頭のカー氏の名言に戻るが、ある程度、歴史の基礎知識が蓄積されて来ると,受け取った情報をより深く面白く感受出来ると実感する。

記憶に新しい「ギリシャ危機」。
次は「イタリアか!」と世界が固唾を飲んでいる訳だが、先日来日したモンティ首相は、まだまだ予断は許さないものの、堅実な国家運営をしているように思える。(塩野七生さんが「独裁官」と喩えているのを池田先生が紹介)このニュースを聴いた時に、あ!と思い出した事がある。
ローマ帝国と言えば、よく登場される青柳正規教授(考古学史/美術史)が、先日のBS歴史館でこんなコメントをされていた。
ローマ帝国は、それ以前のギリシャ文明から沢山の事を学んだ、ローマはソクラテスもアイスキュロスも生みださなかったが(神話まで借りて来てますからね)、ギリシャが滅んだ原因--「小さな都市国家の集合体がそれぞれ覇権争いをして自滅」を良く理解して、絶妙な国家運営を果たした。
何だか、現代でも符合すると思いませんか?

2012年3月24日土曜日

アゴラ読書塾第12回(最終回)総集編

楽しかった読書塾が昨日最終回を迎えた。因にパート2もすぐ始まるのでご興味のある方は是非!


  • 福沢諭吉
  • 北一輝
  • 石原莞爾
  • 東條英機
  • 南方熊楠
  • 高橋是清
  • 柳田国男
  • 廣松渉
「うわぁ!どんな人だったんだろう!」
と思う人名ばかり。私も、もの凄く行きたいのだが、これに行ってしまうと、子ども達の夕飯を実母にお願いし続ける事になってしまう。。実の親とは言え「仏の顔も三度まで」の通り、好意に甘え続けるのは気が引ける。(、、それに、長期的関係にも悪影響を及ぼすしwww)
学校の窓の外、ねんねこ半纏で子守りをしながら、授業を聴く「おしん」の心境(古!)ながら、泣く泣くパート2は「ひとり自習参加」予定。
テキストだけでも読もうかと思う。(でもやっぱり、ライブが一番です!)

パート1は「日本人とは何か」を大きな枠をなぞる方法で、理解を進め、全て終わってみるとポイントを押さえた著書がセレクトされていたんだと、改めて池田先生の構成力に感服する。
パート2が視点を変えて「人物」に焦点を当てているのも、非常に意味ある事だと分かる。


評価され過ぎた日本的経営
最終回は「日本的経営」の正体を、これまで読み重ねた本の内容を「元肥(地味を蓄える目的で事前に撒かれる肥料)」に考察を深めていった。
「80年代に日本的経営は凄くもてはやされた。でも90年にバブルが崩壊し、暴きだされた いい加減な実態に、『これは根深い何かがある』と思った。」
と池田先生は語る。
産業の大きな流れから見ると、「2.5次産業(自動車・マイクロエレクトロニクス:生産する時に擦り合わせが必要)」時代に
  • 戦後の高度経済成長 →低賃金労働力と米国のデッドコピーで優位性を確保。(今の中国と同じ)
  • 70年のオイルショックからの一早い立ち直り →資源が乏しいが故に「省エネで動かす」という目的に、各自一斉に少しずつ工夫調整を重ねて総使用量を下げるという、「お得意のお家芸」が優位に働いた。
という要因を日本は持っていて、それが上手くマッチしてしまった。


時流にのった主要産業で勝つのは誰か
今回の「ああ、そういう事だったのか!」を下図にまとめてみた。これが理解出来ただけでも、本当にめっけものである。

  1. 食品・石油化学が強かった時代は、垂直統合型企業が強く、今でも欧米企業が世界的に強い。
  2. 自動車・電気精密は当初「擦り合わせ技術」を設計/生産現場で、多く必要とし細かい作業と局地戦が得意な日本企業が一時的に席巻した。
  3. ところが、情報通信革命が起き、IT産業が隆盛を極めると「人海戦術」では対応不能なまでに複雑化し、モジュール化とそれを「使うルール」を定めたプラットフォーム設計が得意(戦略思考に練達)な米国企業の独壇場である。
図中の紫の矢印が「複雑さを示しているんです。」と池田先生に言われて本当に「は!」とした。そうかと判った時の嬉しさは、何歳になっても変わらない。
実は「垂直統合型」と「水平分業型」は構造は同じで、使い方が違うだけだという指摘にも唸らされた。ここまで見通した見解を、私はこれまで聴いた事が無い。
「今の所、勝ち残るには二つの道しか無い、モジュール屋としてそればっかり作るに徹する(サムスンとか)か、プラットフォームを決めて独占しちゃう(シリコンバレー型) かである。」
 確かに、この戦略を取っている所ばかりが、今の所景気がいいのは周知の通りだ。

日本が生き残るには
読書会で通底していたテーマである。
「難しいよね。」
というのはよく分かった。
少なくとも、実態をしっかり理解して、下手な幻想を抱かないだけの認識は持てたかなと思う。それなりに覚悟しながら、それでも考え続けるのが及ばずながら使命と思うし、何より若い世代に申し訳無いと思うのだ(自分の子ども達も含め)。
会の最後にフラッシュ的に出て来たアイデアや予測を、簡単に列挙したいと思う。
  • 日本が得意な「ルールがありそうで無い、ぐちゃっとした細かい局地戦」が世界中から求められた時、日本にアドバンテージがあるかも知れない。(それが何かは未だ明確にはわからないが、、、)
  • 娯楽や遊びといった極端に「ドメスティック」な世界では爛熟と言える程、基礎財産を持っている。上手くそれをロジカルに説明できたら、グローバルに売り出せるかも知れない。(ソーシャルゲームとか?)
  • 結局「大博打」を打たなければ活路は見いだせない。それが打てるリーダーが出れば大きな戦いが出来るのに。
  • ネットは本質的に「チャージフリー」が根付いてしまったから、マネタイズが難しい。利益を出すには、相当巧妙に考えなければならない。
  • 否が応でも日本は「個人」へと分解せざる終えないだろう。大陸法(成文主義)的現在の法律を、何とか状況へ合わせて行くという道を辿るのが現実的ではないか。英米法(コモンロー:習慣法→訴訟中心主義)を採用していた方が、日本人には合っていたのになぁ。。(池田先生談)
 凄く沢山のヒントを得た読書会だったと思う。

「毎週一冊読むってキツイっすよね。しかも自分では絶対読まない本だったし。」

と皆さん口々に言うものの、読まないで臨んだ人は恐らく一人も居なかったろう。レベルが高くて、質問が途切れる事も無い。最後の打ち上げたるや、あちこちで喧々諤々のクロストーク。談論風発とはこの事だなと思う。

毎回、帰りの電車である事に気が付いた。
いつも電車では本を読む習慣なのだが、読書会の帰りだけは、気が付くとボーッと同じ箇所を凝視していて、読書が中々進まない。2時間の読書会の内容について考え事をしてしまうのだ。
「脳が反芻したがってるんだな。」
と思って無理に読むのを止め、出来るだけぼーっと取り留めも無く過ごす事にしている。

拙いながらもブログに書き落とす事で「アウトプット」らきしものを自分に課してみた。インプットだけでは、この歳になると、そのままどこかへ雲散霧消してしまうからだ。
覚えておく自信も無いから、ノートにマインドマップで書き取ったりもしていたら、それを注目して下さったりと、感度も意識も高いグループなのだ。

本当にいい経験だったと思う。
我がままを受け入れてくれた家族に感謝しつつ。おしんはしばらく子守りに専念して、また ほとぼりが冷めた頃に、お邪魔しようと決意するのである。
(>池田先生 是非続けていて下さい。)

2012年3月18日日曜日

アゴラ読書塾第11回「メルトダウン」大鹿靖明著 〜「失敗の本質」現代版〜

これまでのお題本とは一味違う。
東日本大震災から丸一年過ぎた。読書塾の終盤に読むに相応しい著作の登場である。
「いろいろ読んだ中で、一番バランスが取れて現時点で良く事実を述べていると思う。」
と池田先生のお墨付きである本書は、震災直後に発生した「福島第一原発事故」とその後の「東電救済」「エネルギー問題」を巡る「東電」「官邸」「省庁」の複雑に絡み合った関係を分かり易くドキュメントしている。

事故発生直後は、食い入るようにニュースを眺め、ネットの書き込みやブログを梯子して、喧々諤々の議論に「ニワカ論客」よろしく参加していたが、そのうち内容が複雑になり過ぎてついて行けなくなった(私を含む)----- そんな諸氏に本書はうってつけである。

125人に及ぶ、聞き取りやインタビューで浮かび上がった事実は、相変わらず日本組織にお馴染みの風景なのが、なんとも寂しく、空恐ろしくもある。

平時の組織
現役ジャーナリストの文章なので、詳細は是非本書を読む事をお勧めしたいが、第1部の原発事故を巡る事実レポートは、当時の記憶を思い起こして生々しい。
福島原発/東電本店/保安院/官邸、それぞれの連絡も噛み合なければ、各組織単位の中でも素早く伝達が行き渡らない。

「Aの回路が寸断されたら、B、それがダメだったらC、それもダメならD。。。」
「誰が方針を決めるのか、どこに最新状況が集約されるのか。」
「指示が来ない場合はどうすべきなのか。」

 矢継ぎ早に発生する、非常事態はまさしく「戦時」と考えて良い、、と池田先生は言う。
本書を読むと、管政権は精一杯頑張った事がよく分かる。でも、「頑張る」事と「適正な能力がある」かどうかは、全く関係無く、その点では「間の悪い時に間の悪い人々がリーダーの座に居た」事に危うさを禁じ得ない。
しかし、これは「東電」や「官邸」だけの話だろうかと思う。
規模を小さく、ミニュチュアに眺めてみれば、私が所属する会社も
「ひとの事は言えない。」
と嘆息してしまう。

「無能な将校、優秀な兵士」は日本組織を評した有名な言葉だが、優秀な兵士がステップアップして仮に「将校」になった時、果たして「優秀な将校」になりえるのだろうか、、というのが、最近持つ疑問である。
多分「必ずしもそうならないんだよね〜。」というのが真実だろう。

現場大好き!で、それなりの地位になったのに現場っ気が抜けなくて、いつまでも下が育たなかったり、迷惑したりする例は枚挙にいとまが無い。
それ相応のトレーニング(いわゆる「帝王学」ってやつでしょうか)をしなければならないのだろうが、難しいのが、「別枠」で鍛練育成されたリーダーがポッと出て、グループの長に据えられても、下が言うことをきかない。。。これが日本組織なので、ある程度の規模までは「現場叩き上げ」のリーダーの方が良く集団を統治出来るのだと思う。

今回の福島第一の吉田所長は正しく「現場叩き上げ」のリーダーで、日本にも数千人規模ならば、機敏に統治出来るリーダーは沢山居ると思う。(昔で言えば、戦艦艦長、今で言えば工場長、事業部長、統括スーパーバイザーとか、、)ただ、これが「優秀な兵士」の限界かなぁと感じる。

テンパってしまったトップの「トチ狂った命令」に上手い事合わせて、自分の部下を守るのは「優秀な現場リーダー」の得意技で、今回の事故も曲面、曲面で、きわどく回避している。又、日本の組織はそんな事が出来る人が「リーダーに相応しい」と評価され、担ぎ上げられる訳だが「でもな」と思わなくも無い。

例えば、奮興した管総理が無理矢理ヘリで福島第一へ乗り込んでしまった時、メディアも識者もこぞって
「何考えてんだ!」
と首相のテンパりぶりを嘲っていた(私もその通りだと思う)。
だが、吉田所長が首相の相手をした為に「指揮命令」がその間途絶してしまった、というのは、かなり辛い状況である。
「言い訳になるかもしれないけど、管総理が現場に来たことで、そちらにばかり目がいってしまい2時間ほど『ベント』などの指示が出せなかった。当時は、全てわたしが指示して動いていた。それが止まったことで、周りも動けなくなってしまった。」(吉田所長談:p83)
「なぜ、指揮権委譲が出来無いのか?」と考えずにはいられない。

例えば管さんが乗り込まず、吉田所長が突然倒れて指示命令が出せない状態になった時、どうするつもりだったのか?
形の上では、命令権委譲のルールは決まっているのかも知れないが
「吉田所長クラスの判断が出来る人材」
が常に数名居る体勢ならば、所長が総理の「お相手」をしている間も、必要な手立てを講じる事は出来たのではないか。。

「ベントで万一重大な事故が発生してしまった場合、首相が居てはアクティブな行動が取れない。結局、代理で命令系統が機能しても、結果は管さんが帰るまで変わらなかった。」

との意見もあるだろう(だから、管総理の興奮ぶりは考え無しと思う)だが、それを承知で乗り込んでいるのなら、あの場合

「首相が居るから、万一首相に何かあったらまずい、危険な措置は首相が帰ってから。」

と判断するのはたぶん最悪だ。何しろ、時間の方が優先なのは明らかで、首相ですら「変えが効く」のが「戦時の組織」なのではなかろうか。
つまり、「平時の組織」しか日本人は作った事が無く、「戦時の組織」の本質が身に染みて理解出来てないんだなぁ、、というのが、このエピソードからよく分かる。
「危機管理は政府の専権事項で、コアな仕事なのです。」
という池田先生の言葉は重い。

とは言うものの、ギリギリの現場を統率した吉田所長には本当に敬意を表するし、病を得て療養されている事を思うと、本復を心から願いたい。(何だかんだと、私も現場が大好きなので。)


分かりにくかった賠償スキームの顛末
第二部の「覇者(東電)の救済」は、とにかく知らない事だらけで、非常に勉強になった。日本の最高学府を卒業したエリート達の「紳士の喧嘩」(池田先生談)はそもそもが複雑で、生半可な知識で、書いて墓穴を掘るのは避けたいと思うが、、、
  1. 古賀ペーパー(東電を破綻処理、発電/送電分離会社、減資、債権放棄、相対的に国民負担減。積年の課題である「電力自由化/発送電分離」への道を開く。)
  2. 三井住友案(原発賠償機構を設立。東電に変わって賠償業務。機構への資金は「東電以外の電力会社に義務付けられた保険料」「政府保障付きで金融機関から調達する借入金」「東電の負担金(総額7000億円)」で賄われる。東電のメーンバンクである三井住友銀行にとって東電が引き続き社債を安定して発行出来る健全な経営体に留めておく事を狙った。)
  3. 財務省案(賠償保障の矢面に立つのはあくまで東電。但し、バックに「東電救済機構」を設けて都度賠償に必要な資金を機構から東電へ交付する。救済機構は各電力会社から特別負担金を集める他「交付国債」で賄われる。)
という主に3つの「東電救済スキーム」について描かれている。一番ラディカルな「古賀ペーパー案」は握りつぶされ、最も「八方上手く言いくるめられる」財務省案になりつつあって、このテクニックには舌を巻いてしまう。
だが結局、「将来への借金(国債)」と「電気料金値上げ(税金みたいなもんですね)」で賠償を賄うのだから、何だかズルズルとどこまでもお金を使えてしまう仕組みに見えて、嫌な予感がする。。

 さて、楽しかった読書塾も残すところ残り2回(ラストは特別セミナー)。来週は総仕上げとして池田先生の「日本的経営」をベースに「サンクコスト(埋没費用)」の事を話し合う。
今回の読書会でも少し触れられた「サンクコスト」。この言葉と意味を知って意識するだけでも、「ああ、一つ賢くなった。」と思えます。
さて、来週も楽しみ。

2012年3月10日土曜日

アゴラ読書塾第10回「無縁・公界・楽」網野善彦著 〜「もののけ姫」の原作として考えてみる〜

無縁・公界・楽ともののけ姫
毎週一冊の本を読んで集う読書会。今週は何と「レポート」担当になってしまった。
うっかり池田先生に「先生が最初にブックリストに挙げられていた『無縁・公界・楽』は取り上げないのですか?」と質問してしまったのが運の尽き。「しまった!」と思ってももう遅い。一度先行して読んだけれども、内容が捉えにくく、でも、これまで読んで来た本とは、何かが違う気がして、そこが知りたいと質問したのだが、レポートを書く為に再度本書に立ち向かわなくてはならなくなった!大慌てで辞書を引きながら、会社のレポートを書くより真剣に取り組んでしまった。

満身創痍のアウトロー学説
本書(平凡社ライブラリー刊行)は全体の三分の一を「補注」が締めている。こんな本は見た事が無い。補注の殆どがこの発表した内容に対する批判に「返答」するもので、要は
ご批判はありがたく頂戴するが、それでも私は自説を曲げるつもりは無い。
という感じに終始している。いかに網野学説が異質で、これまで常識とされてきた歴史学から「異端児」扱いされていたかが伺い知れる。
脈略無く、細かな史実が羅列される本書をざっと眺めてみると。
  • 農耕の定住人以外に、遍歴する芸能民(職人、芸能、遊女、禅僧、広くは漁撈民もこちらに属する)が日本の中世(平安末期〜鎌倉期)には存在した。
  • その集団は時に「無縁」の場(山林と寺社、市と宿、墓所、公道や橋、アジールとしての家)を形成していた。
  •  無縁の場は一種の「治外の場」であり時の権力とは別の原理により成り立っていた。
  • その無縁の場と「天皇家」とは細々と関係していた。
  •  織豊時代から江戸期にかけて、この「無縁の場」は急速に失われてしまった。
というものである。(詳しくはこのエントリーの後半に昨日のレポートを転記したいと思う)
 池田先生は「網野さんの学説はそのままそっくり本当とは思えない。」と前置きをしながらも。
しかしながら、今読むと日本人にも「ノマド(遊動民)/モビリティ」のDNAはきちんと入っているのではないか。
と言う。有史以前、永きにわたる「移動/狩猟採集生活期間」 (最近放映された NHKスペシャル『ヒューマン』が良い内容です。)の方が生物学的に遥かに大きく遺伝子に影響を与えているのではないか、、と述べていた。(私も賛成)
でなければ、こんなにみんな「イライラ」と現状に不満で「自由」に憧れるわけが無い。同じ事を「現状維持」でじっと繰り返している状態が、唯一の正解ならば、みんな幸せであろう。これは「丸山真男の言う古層」が現状維持の「たこ壷レイヤー」なのに対し、ひょっとしてそのさらに深部には「網野的自由を希求するノマドレイヤー」があるのかも知れない。
 という解釈は、なかなかにうなずけた。

主流派になれないノマド達
読書会では、ノマド的職業人達の日本社会におけるあり方に話が及んだ。
  • 主流派にはなれないけれど、居なくなったら困る人々
  • 全体の三割以下ならば「ノマド」はすり潰されない
  • 全員がノマドになると、、それは「中国化」のはじまり。。
なぜ、主流派になれないのか、、の議論を深堀するには読書会の時間が少し足りず、
「歴史的に見ても主流派になれませんな(平家・海軍・国際派)。」
の確認で終わってしまった。これまでも、この事はいろいろな場面で言われて来た気がする。(自分の身の回りを見ても。)
 体験的に思うに過ぎないが、ノマド達には定住民には無い
  • ブレイク・スルーを呼び込む力
 があるのだと思う。これは網野さんが最も主張したかった
無縁、苦界の原理とは、自己を貫徹する、深い生命力に寄っている。
 という考えと無関係ではないと思う。定住型民がしばしば襲われる「体勢の崩壊」時に現れるのが、この「ノマド達が持つ能力」ではないかと思うのだ。(会社の中でも一定数のノマド層がいないと成り立たない:池田先生談)
 そして、注目したいのが
  • インターネットの発達で「内なるノマド」の欲求がバーチャルで満たされているのではないか。
  • バブル崩壊以降の不況下に「ノマドに成らざる終えなくてなった若者達」の存在をどう考えるのか。
という意見である。ここは個人的に、もう少し考えたい部分で、まだまとまり切らないが、私たち世代(40代半ば)が感じる「世代間に横たわる深い谷」(年金格差とかそんな表面的な事では無く)と考え合わせると、向こう側に違う風景が見えて来る気がしている。

もののけ姫再認識
読書会のレポートでも「網野学説」と「もののけ姫」のエピソードを紹介させて頂いたが、これは輿那覇先生の「中国化する日本」の内容を受けての事で、意外にも池田先生は「もののけ姫」をご覧になった事が無いそうだ!!(驚き!)

あのアニメで表現された「タタラバ」は間違い無く「網野的公界」を表していて、蔑まされた人々が、女首領である「エボシ御前(彼女の装束は白拍子)」 のもと、森を切り開きながら砂鉄から製鉄を行っている。大量の木材を燃料としながら、燃料が無くなると「タタラバ」ごと移動し、産出した「タマガネ」(これを鍛練させて農耕具にする訳ですね)で財を成している集団である。
周辺の領主連中がこれに眼を付け、「タタラバ」を蹂躙しようと仕掛けて来るのだが、自衛の武器を開発するのは、エボシがかくまう「癩病患者」の集団である。

、、というのは、わざわざ説明するまでも無い有名な内容だが、無知な私は
「時代設定を室町あたりにしたおとぎ話」
としか観ていなかった。それでもあの映画が醸し出す不思議な生命力に魅了されたし、我が家の子ども達も、大好きでよく観る映画だ。
なぜ、あの映画のキャッチコピーが
「生きろ」( by 糸井重里)
だったのか、当時はポカンとしてしまったが、今は何だかとても納得出来た。と同時に何とも話しの終わり方が「悩んだんだろうな」的、難しい感じなのも合点がいった。
この「無縁・苦界・楽」そのままなのである。混沌として話の収拾をつけるのが難しく、でも無視し切れない力強い可能性、、。とでも言うべきだろうか。

、、、、とにかく、なかなか噛みごたえのある内容だった。
来週のお題本は「メルトダウン」これまたホットな話題である。
最後に昨夜のレポートを転記したいと思う。

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アゴラ読書塾 第10回「無縁・公界・楽」〜日本中世の自由と平和〜

●主題
無縁・苦界の原理とは、自己を貫徹する、深い生命力に寄っている。

網野善彦氏は、それまであまり注目されて来なかった、「非農民層(漁撈民・商人・職人・芸能人)」にスポットを当て、「無縁の原理」を様々な歴史的資料を紐解いて、あぶり出そうと試みている。
これは、発表当時かなりの批判を浴びたようだが、今日読むと、新鮮に感じる事も多い。
この研究の出発点は
  • なぜ、天皇は滅びなかったのか?
  •   平安末〜鎌倉のみ優れた宗教家が輩出され
たのか?の二点である。

●無縁・公界・楽 8つの特徴

① 不入権
権力等の立ち入りが出来無い独立圏

② 地子・諸役免除
「地子」律令制で余剰公田を人民に貸し付けて収穫の何割かを税として取り立てたり、荘園制では田畑屋敷に課した雑税。これが免除されていたらしい。但し、供御人(くごにん)だった桑名衆や、戦国大名から諸役免除とされたいた鋳物師達は、朝廷への朝廷への貢納(こうのう)を続けている事から、この免除とは「戦国大名が課す」課役に限定される。そして、公界と朝廷との関係が細々と繋がっている事は無視出来ない。

③ 自由通行権の保証
そもそも、無縁・公界を構成する人々は、「遍歴の人」だったので、それが特定の「場」で保証されたと言える。

④ 「平和領域」「平和」な集団
公界の人々(勧進上人・禅僧・山伏・連歌師・茶人・桂女)商工民も含む広義の「芸能民」はみな「平和の使者」たりえた。

⑤ 私的隷属からの解放
主持ちの武士は住む事が出来ず、そのような関係から逃げ落ちる人々が逃げ込む場であり、それが社会的に認められていた。

⑥ 貸借関係の消滅
公界という「場」に「徳政(借金の形に取られた土地の回復や、免税措置とする政治)」という属性があった。これにより、平等・対等な交易が保たれ、祠堂銭(しどうせん)の金融活動も保証された。

⑦ 連座制の否定
当時の世俗では厳しく追及された「連座制」が、ここでは適用されなかった。

⑧ 老若の組織
年齢階梯(かいてい)的な秩序原理。自然的な年齢階梯のみならず、それぞれの集団に特有な「芸能」そのものの年功「臈次(ろうじ)」(仏教用語:出家受戒後の年数による僧の位から来ている)によって区別さたり、商人などは「富」の多寡そのものが区別の基準たりえたであろう。但し、これらの人々の間には「平等原理」が貫徹していた。多数決原理による会合によって、都市の運営をしていたのではないか。
この8つの原理が全て実現されれば、驚くべき「理想郷(桃源郷)」であるが、現実は厳しく、俗権力によって極力狭く限定され、その圧力によって「内部矛盾」も呼び起こされていた。こうした世界の一部は体勢から切り離され「差別」の中に閉じ込められようとしていた。
餓死・野たれ死と自由な境涯とは背中合わせの現実だった。これらの積極性は、織豊時代から江戸期にかけて急速に失われて行く。
楽 ― 信長/秀吉に取り込まれ
公界 ―「苦界」に転化
無縁 ―「無縁仏」のように淋しく暗い世界に相
応しい言葉へ

王権との闘いによって鍛え上げられて来た、西洋の「自由・平等・平和」思想に比べると、この「無縁・苦界・楽」の思想は、体系的明晰さと迫力は欠いている。しかし、これこそが原始以来日本に脈々と流れる「無主・無所有の原思想」であり、精一杯自覚的・積極的に表した「日本的」表現であると自覚しなければならない。


●無縁の原理の場

山林
この存在自体が「無縁」であり「アジール」であった。山林の中にある寺の多くがこの機能を持ち、百姓が圧政に堪え兼ねて逃げる事を「山林に交わる」という表現もある。
又、湊、浦にもその性格があり、漂着物(難破船等)は神社の修理材とされ、それは「流れたものは無縁のもの」という考え方があったからと推測出来る。

市と宿
市にも「無縁性」が認められ、寺社の門前に市が開かれた事実は注目すべきである。まだ「町」の様相を呈する以前であるが、祭礼に伴い、様々な「芸能民」が集い著しいにぎわいを見せていた。(平安後期〜鎌倉前期)
宿もほぼこれに同じ特性が見られ、宿と切っても切れない「遊女」との関係を考えると、中世の「芸能民」の中の女性達(桂女、白拍子、傀儡子)はまことに「野性的」で「たくましい」姿が浮かび上がる。(雑掌:役人を相手に幕府の法廷で堂々と争ったり、遊女を束ねる女性の長者が居たり。。)
銭湯の起源にもこのような「無縁性の場(アジール)」を見る事が出来る。

墓所と善律僧・時宗
墓所も、山林に多く点在し、それ自身無縁所と言える。河原も同じ性格で、死体集積の場であり、葬儀の場でもあった。鎌倉、南北朝期の時衆、禅律僧も無縁の原理を身につけた人々だった。
これらの人々には、激しい差別的非難が浴びせられた。差別に閉じ込められよつとしながらも、天皇や一部の貴族と繋がりがあり、ある部分では無視出来ない勢力となっていた。

橋と勧進上人
勧進(寄捨)を、受けるには、無縁の原理を身につけた人でなければならない。又、多くの橋、泊が勧進聖によって作られている。
これは、橋、津泊、渡、道路が無縁所だったからである。

金融・倉庫と聖
無縁所と、金融、倉庫の繋がりは深い。御賽銭を元にした金融活動や、貴重な家財を無縁の原理である寺に預けて戦火から守ったのは必然だった。

女性の無縁性
伊勢志摩の都市では、土地、家屋の名義が女性である割合が高い。40%に及ぶケースもあり、女性の無縁性を伺い知る事が出来る。これは、性そのものの特質と関係しており、無縁の原理が衰退してゆく歴史と無関係では無い。
女性「性」の「非権力的な特質」、「自由」と「平和」との結び付きが、衰退の原因であるとも言えるし、その過程の徹底的な理解が、開放への確固として揺るぎない立脚点になるだろう。(心強く思える言葉だ。)

アジールとしての家
家にも無縁性があった。これも無縁性が辿った衰退と同じ関係にある。

自由な平民
百姓達の抵抗。原始的な氏族共同体以来の流れをくむ「自由民」としての特質を見出しうる。

●無縁という言葉
否定的な意味で使われ、寄るべない、貧困な状況で使われる言葉であったが、そればかりではなく、権力に依存しない「自由への追求」的意味合いや、事例がある、というのが網野さんの主張。

【感想】
●もののけ姫の原作
輿那覇先生の「中国化する日本」でもちらっと触れられていたが、スタジオジブリの「もののけ姫」はこの網野説を全面的に採用していると改めて認識した。
映画が公開された当時、日経新聞の文化欄に小さな囲み記事が載っていた事を覚えている。
「女性ばかりが働くタタラ場〜アニメ制作の現場〜」という感じだったと思うが、本来、女人禁制の鍛冶場で、女ばかりが働いている設定の不思議さを、アニメ制作の現場を支える女性達とを重ね合わせて読み解いた内容だったが、この本を読んだ後だと、また違う感想を持つ。
かの映画での女性達はとても力強い(宮崎アニメの多くがそうだけれども。)
世間から蔑まされた人々で「タタラバ」は構成されている。精錬によって大きな財を成し始め、周辺勢力から干渉を受けたり、リーダーは女性だったりとこの著書の内容そのままである。

「ここの仕事は辛いさ、でも下界よりずっとマシさ。」
身売りされたところを、エボシ御前に買い拾われた娘が、主人公のアシタカに向ってこんな台詞を言う。

●オープンな実力社会?
網野説によれば、無縁は「逃げ込む」事が可能な世界らしいが、無条件、無制限に受け入れていたのだろうかと疑問に思う。
来る者は拒まず、追っ手の侵入を防いでくれる所なのだろうが、首尾よく中に組み込まれた人間はどのように暮らしていたのだろうか?
「芸能民(広義の)」は手に職系の実力、能力がものを言う社会だから、能力の錬磨について行けなくなった人間はどうなってしまったのだろうか?
私の読み落しかも知れないが、本書ではあまりその部分は明確に推論されていない。
網野氏の言う「無縁性の衰退の原因 −自由と平和の結びつき-」にその一旦が想像出来るようにも思う。
今回の読書会で、そんな事も共に議論出来たらと思う。

2012年3月3日土曜日

アゴラ読書塾第9回「高度経済成長は復活できる」増田悦佐著

なかなか刺激的な本で一気に読んでしまった。書かれている内容は、夫が若い時からいつも言っている事そのままで、論旨の組み立てに、やや乱暴な所はあるものの、内容は無視出来ない。

夫の郷里は九州の片田舎である。結婚する前からよく言っていたのは

「こんな誰も使わない所に、道路や立派な建物を作っても仕方無い。首都圏がこんだけ不便なのに、都心の人はそれをよく我慢している。投下された税金をいくらかでも都市のインフラ整備に回した方が、恩恵を受ける人の数が違う。」
郷里に有利な政策や補助金が投下されるのを、苦々しい思いで見つめていたのだろう。(竹下政権での「ふるさと創成一億円事業」も典型的バラマキと言って鼻で笑っていた。)今回のお題本は戦後「奇跡」と言われた高度経済成長がなぜ止まってしまったのかを大胆に論じる内容だった。

主犯は「田中角栄」説
池田先生は「この増田説はちょっと乱暴である。」とおっしゃっていたが、本書の内容を簡単に言えば。。
  • 角栄がぶち上げた「列島改造論」は都市に集中している経済成長の要因を強引に地方に振り分けようとした、ある種「社会主義的」な富の再分配行為だった。(本人は非常に無邪気に行っているが)
  • 都市への人口流入が止まり(多くの公共事業/補助金政策で地方でも暮らしが成り立つようになったから)それが高度経済成長の息の根を止めてしまった。(悪平等の弊害)
  • これに加担したのが、左寄りの文化知識人だったり、「弱者」の味方を標榜する人々で、角栄失脚後も流れが止まらなかった原因はこれにある。(弱者は弱者のままでいて)
  • もっと都市にインフラを集中させ、人が集まる「高密度都市」に整備すべきだし、世界的に見て潜在能力の半分しか生かせていない、女性の就労率をもっとあげるべきだ。
 というものだ。書かれたのが2004年なので、何となく「威勢がいい感じ」に思えるのは、今思えば「まだ余裕があった時期」だからかも知れない。この所感じる
「マジでヤバいんじゃない。」
の気持ちで読むと、本書に書かれた事のいくつかは、「理想論」では無く、早く実現しないと、、と思う。

幻想を捨て切れない人々
昨夜の池田先生の見立ては以下の通りだ
  1. 高度経済成長の要因 「生産性の高い場(都市)」に「安い働き手(田舎の次三男)」が集中出来た事の、相乗効果によるだろう。
  2. 70年代に入って成長が落ち込んだ理由 「優生保護法」などの整備から出生数を意図的に押さえる方向に世の中が既に変わっていたから。
  3. 自民党の主流派は真の保守派では無い 「皆が平等に仲良く暮らしたい」事を目指している人が多く、薄く広くHappyにする政策を捨て切れない。
 「今、一番注目すべきは、『人口減少』の現実で、就労可能な年齢が年1%づつ減っている現実をもっと認識すべきである。その為には女性の就労率をもっとあげる方向に、男性中心の理論を改めなければならない。少子化対策と言っても効果はすぐに現れない。」

この言葉には、本当に勇気づけられる。
思い切って、最初に質問の口火を切らせて頂いた。質問の内容は
「男性中心の理論で、人事査定をしてしまう今の50代後半の『人事裁量権』を持つ人々の意識は変わる可能性はあるのでしょうか?それとも、年齢による退場を待つしか方法は無いのでしょうか?」
だった。
この質問の背景は、私自身の経験に基づいているのだが、いつまでも男性の「育児参加率」が上がらない元凶はここにあると、常日頃思っているからだ。
 妻にばかり不利な状態を押し付けているのを、今の夫達は「当然」とは思っておらず、何とかしたいと考えている。(良識あるきちんと考えている男性達は)
しかし、「育休を取ります。」「残業せずに帰ります。」と言って、その行為が全く査定に響かないかと言えば現実はそうでは無い。(特に「転勤辞令」で昨夜は盛り上がりました)
 「同じ働きをしている人が並んだら、それは制度を利用した方に不利な査定を付けざる終えない。」
と決まり文句が返って来るのだが、池田先生は
「それが幻想である。」
と鋭く説く。つまり
  • 人はいくらでも変えがある(人は沢山居る)
  •  土地は少なくて大切にしなければならない(日本は狭い)
という昔ながらの常識が、今や幻想でしかなく「人が足りない」現実から眼を逸らせてはいけないという。
「折角高い教育を受けた人々(女性)を家庭にだけ閉じ込めてしまうのは、社会的損失と考えていい、キチンと社会に出て働き動き回る人々が、経済を牽引する要因になるのだ。60歳を過ぎた人ばかり再雇用を繰り返しても、それは将来には繋がらない。」

との言葉に深い共感を覚えた。
地域のPTAや、お母さん達の集まりに出てつくづく思うのが、
「環境にきちんと身を起き続けて能力を磨けば、もっと可能性があったろうに。」
と思える女性達によく出会うからだ。

限られた範囲に10年以上も閉じこもってしまったら、それなりのサラリーをもらえる能力を身につけるのは簡単では無い。ガラケーのメールを打つまでが精一杯で、しかも若い時に修練しておけば飛躍的に吸収出来る事も、年齢と共に衰える学習能力が追い打ちを掛け簡単に追いつけない悪循環に陥ってしまう。
女性のキャリアパスと、出産可能時期との兼ね合いをもっと真剣に考えるべき時に来ているとつくづく考える夜だった。

新しきコミュニティー
この読書会では、「日本人とは」という視点でずっと考察を深めて来たので、
「閉じた『タコツボ』社会を簡単に壊す事は出来無い。」
という認識は非常に深まった。一方、このままではどうにもならず、集団の単位がどんどん小さくなって最後は「家族」か「個人」という所まで行き着くだろうという認識も共有している。
「村」から出発して、それがそっくり「会社」に移植され、その会社が怪しくなった先に何があるのか。。。
居場所を失うとは、自分を失う事と同じ意味である。
 池田先生の言葉は深い。
恐らく、ネット上のそこここに、小さくコミュニティーが出来て行くのだろう、、、という予測は、何だかとても明るかった。

この「アゴラ読書塾」も池田先生がネットで一言呼びかけて集まったメンバーで構成され
「社会に出てから、もう一度『真剣に何か考えて学びたい』と思う人々に場を提供する働きかけ。」な訳である。(やる気の無い大学生に講義するより、遥かに実りがあるとか。。)

仕事と家事子育てで精一杯だった私でも、何とか参加出来たのだから、こんな試みがいろいろ形を工夫しながら、発展していきそうな予感がする。
とにかく資源が無い国で、人も減り始めている事実を考えると、人々の交流による『化学反応』を促進するしか、生き残る道は無いよなぁと考えを新たにした。

さて、来週はレポーターという大役で、今からビビリ気味。。
しっかり仕込みをしたいと思います。