岩波のクラシカルな本 |
丸山自身による著作は少ないそうで、この本も厚さはそれほどでも無く、4章しか無い。でも、、のっけから何を書いてあるのかさっぱり判らない。。
高校で初めて「哲学」なるものを習った時、
「へぇ!面白い。」
と少し思ったけど、勘違いしなくて良かった。。 こんなに難解な文章(一字一句は判るけど、ダラダラと後ろへ後ろへ言葉の意味が掛って行く)をサラリ読みこなすだけの力が無くて、あっという間に挫折してしまっただろう。
「で?要約するとどういう事?20字以内でまとめよ。」
、、ってな事を年中要求されるビジネスの現場においては、深遠で回りくどい思想は即戦力とはならない。、、が、、、しかしである。
「やっぱり、丸山眞男は凄い。」
と池田先生は言う。
日本人の古層
確かに、凄いのだ。この著作の中では、日本の組織の特徴を「タコツボ型」と言い、沢山のタコツボが互いに干渉せず、ツボの中で通用する言葉や考え方が存在している、と表現した。これに対し、「ササラ型」と言って根元にがっちり結わえるもの(超越的存在。宗教とか哲学とか)があった上で個人がある、という社会(西洋)を対比させている。
「タコツボ」vs「ササラ」と二項対立で表現すると、最も理解し易いが、丸山はさらに思索を深め、晩年に「古層」という言葉を生み出している。
日本人の集団意識を「古層」と表現した |
「日本人は集団行動が得意で、阿吽の呼吸で擦り合わせが出来、あっという間にAからBへと変わり身が出来る。」
という例の特徴をこう表現しているのだ。
- 行き当たりばったり
- 超越的存在が無い(無宗教)
- 雑種性
- なんでもありというのが唯一の共通項目
英国の慣習法(commonlow)
日本と同じ島国であり、西洋諸国の中とはちょっと違う立場を取りがちな英国の「慣習法(commonlow)」に最後は話が及んだ。
英国を語る時によくこの「慣習法」が出て来るが、wikiペディアによると
慣習法とは、一定の範囲の人々の間で反復して行われるようになった行動様式などの慣習のうち、法としての効力を有するものをいう。だそうで、「貴族達が王によって徴収される税金を認めないぞ! 」という動機がその成り立ちだそうだ。日本人も自ら持つ「古層」にもっと自覚的になれば、 commonlowの様に体系化出来たかも知れない、、と池田先生は言う。、、、自覚的に古層を意識する事そのものが難しいのかも知れないが。
「である」ことと「する」こと
今日のエントリーの最後は、この「日本の思想」の最終章に掲載されている「である」ことと「する」ことという、短い講演録の内容を紹介しようと思う。
難解なこの本の中でこの章は、唯一、理解出来た所で、しかも普段忘れてしまいがちな事を、鮮やかに心に思い起こさせてくれた。
内容を理解する為に、イラストや図を描きながら読み進めたのだが、それをそのまま載せた方が判り易いかも知れない。
権利の上に永く眠っている者は民法の保護に値しないという考え方。この言葉にドキリとする人は少なく無いのではないか。。 |
「私は自由だ」と言う人程、実はその偏見に凝り固まってしまい結果自由では無い。自由に物事を認識したいと常に努力している人は結果自由になっている。 |
近代精神は「である」価値から「する」価値への重点移動によって生まれた。 |
「である」「する」をプディングを食べるという行為で説明すると「味はプディングに内在しているんだ」とするのが「である」価値。「食べる都度、味は検証されるのだ」とするのが「する」価値。 |
「である」組織の代表例は「血族」や「人種」でこれは永遠に存在し続けるものだろう。「する」組織は近代化によって生まれたものだが、これがあらゆるものに優先するものでは無いと思う。この両者にギャップがある事が内省する手がかりを与えてくれるのではないか。 |
日本の場合「である」社会が長かった。「何かをする目的の限りで取り結ぶ関係」(する関係)になろうとする時、「である」社会をそのまま引きずって「丸抱え」の関係になってしまいがちであり、「バブリック道徳、赤の他人同士のモラル」がなかなか育たなかった。 |
近代化された時、制度や思想は丸まま西洋から輸入され、庶民の間へはそれがそのまま降って来る形で浸透した。しかし、本来、制度や思想は自分達の生活と経験を通じて、作り上げ「要求/改訂」しながら練り上げる友なれば「面倒」な作業をしなければならないものなのである。 |
丸山から見た現代(昭和33年)の日本社会は、中身は「である」組織のまま「近代的」殻に覆われたいくつもの集団が「赤の他人との『する』原則を練り切らないままの社会」の中にプカプカと浮かんでいる状態に見えると言う。この指摘、、現代(2012年)でも通用しないだろうか? |
ああ、難しかった。。これが今の私の限界だとよく判った!