2012年1月28日土曜日

アゴラ読書塾第4回「日本の思想」丸山真男著



岩波のクラシカルな本
今週の読書会のお題本は本当に難敵だった「日本の思想」丸山眞男。あの「丸山眞男をひっぱたきたい。31歳フリーター。希望は戦争」で一躍有名(?)になった思想家だ。
丸山自身による著作は少ないそうで、この本も厚さはそれほどでも無く、4章しか無い。でも、、のっけから何を書いてあるのかさっぱり判らない。。
高校で初めて「哲学」なるものを習った時、
「へぇ!面白い。」
と少し思ったけど、勘違いしなくて良かった。。 こんなに難解な文章(一字一句は判るけど、ダラダラと後ろへ後ろへ言葉の意味が掛って行く)をサラリ読みこなすだけの力が無くて、あっという間に挫折してしまっただろう。
「で?要約するとどういう事?20字以内でまとめよ。」
、、ってな事を年中要求されるビジネスの現場においては、深遠で回りくどい思想は即戦力とはならない。、、が、、、しかしである。
「やっぱり、丸山眞男は凄い。」
と池田先生は言う。

日本人の古層
確かに、凄いのだ。この著作の中では、日本の組織の特徴を「タコツボ型」と言い、沢山のタコツボが互いに干渉せず、ツボの中で通用する言葉や考え方が存在している、と表現した。これに対し、「ササラ型」と言って根元にがっちり結わえるもの(超越的存在。宗教とか哲学とか)があった上で個人がある、という社会(西洋)を対比させている。
「タコツボ」vs「ササラ」と二項対立で表現すると、最も理解し易いが、丸山はさらに思索を深め、晩年に「古層」という言葉を生み出している。
日本人の集団意識を「古層」と表現した

 よく言われる、
「日本人は集団行動が得意で、阿吽の呼吸で擦り合わせが出来、あっという間にAからBへと変わり身が出来る。」
という例の特徴をこう表現しているのだ。
  • 行き当たりばったり
  • 超越的存在が無い(無宗教)
  • 雑種性
  • なんでもありというのが唯一の共通項目
時代や社会情勢により、この特徴は「賛美」されたり「嘆かれ」たりと評価は真反対に振れるが、どうやら、この特徴は時代を経てもなかなか変わらないね、、というのが、昨夜の読書会の結論だった。この性質であるが故に、生延びる事が出来た時もあれば、破滅的に失敗してしまった事もある。なるほどと思った。

英国の慣習法(commonlow)
日本と同じ島国であり、西洋諸国の中とはちょっと違う立場を取りがちな英国の「慣習法(commonlow)」に最後は話が及んだ。
英国を語る時によくこの「慣習法」が出て来るが、wikiペディアによると
慣習法とは、一定の範囲の人々の間で反復して行われるようになった行動様式などの慣習のうち、としての効力を有するものをいう。
だそうで、「貴族達が王によって徴収される税金を認めないぞ! 」という動機がその成り立ちだそうだ。日本人も自ら持つ「古層」にもっと自覚的になれば、 commonlowの様に体系化出来たかも知れない、、と池田先生は言う。、、、自覚的に古層を意識する事そのものが難しいのかも知れないが。

「である」ことと「する」こと
今日のエントリーの最後は、この「日本の思想」の最終章に掲載されている「である」ことと「する」ことという、短い講演録の内容を紹介しようと思う。
難解なこの本の中でこの章は、唯一、理解出来た所で、しかも普段忘れてしまいがちな事を、鮮やかに心に思い起こさせてくれた。
内容を理解する為に、イラストや図を描きながら読み進めたのだが、それをそのまま載せた方が判り易いかも知れない。
権利の上に永く眠っている者は民法の保護に値しないという考え方。この言葉にドキリとする人は少なく無いのではないか。。
「私は自由だ」と言う人程、実はその偏見に凝り固まってしまい結果自由では無い。自由に物事を認識したいと常に努力している人は結果自由になっている。
近代精神は「である」価値から「する」価値への重点移動によって生まれた。
「である」「する」をプディングを食べるという行為で説明すると「味はプディングに内在しているんだ」とするのが「である」価値。「食べる都度、味は検証されるのだ」とするのが「する」価値。
「である」組織の代表例は「血族」や「人種」でこれは永遠に存在し続けるものだろう。「する」組織は近代化によって生まれたものだが、これがあらゆるものに優先するものでは無いと思う。この両者にギャップがある事が内省する手がかりを与えてくれるのではないか。
日本の場合「である」社会が長かった。「何かをする目的の限りで取り結ぶ関係」(する関係)になろうとする時、「である」社会をそのまま引きずって「丸抱え」の関係になってしまいがちであり、「バブリック道徳、赤の他人同士のモラル」がなかなか育たなかった。
近代化された時、制度や思想は丸まま西洋から輸入され、庶民の間へはそれがそのまま降って来る形で浸透した。しかし、本来、制度や思想は自分達の生活と経験を通じて、作り上げ「要求/改訂」しながら練り上げる友なれば「面倒」な作業をしなければならないものなのである。
丸山から見た現代(昭和33年)の日本社会は、中身は「である」組織のまま「近代的」殻に覆われたいくつもの集団が「赤の他人との『する』原則を練り切らないままの社会」の中にプカプカと浮かんでいる状態に見えると言う。この指摘、、現代(2012年)でも通用しないだろうか?

ああ、難しかった。。これが今の私の限界だとよく判った!

2012年1月21日土曜日

アゴラ読書塾 第3回「中国化する日本」與那覇潤著

サイン頂きました!(可愛いです)
「中国化する日本」は去年新刊と同時に購入してこのブログでも既に感想文を書いた事がある。今回の「アゴラ読書塾」に思い切って行こうと思った動機の一つが、この著者である與那覇先生(@jyonaha)と直接対話が出来るチャンスに惹かれたからである。(もちろん、池田先生も魅力だけど)

読書感想は先のエントリーに書いたので、重複する部分は省略するけど、再読に当たって、最初に読んだ時には深く考えなかった事が、頭から離れないので、今日はその事をまとまらないまま、メモ書きしてみようと思う。

日本と中国双方で進行している「少子化」
前のエントリーでも書いたが、與那覇先生の視点はとても新鮮で
「ああ、32歳世代だ。」
と感じる。それは池田さんと対談する事で、より際立ったと思う。
これは、私の実感でしか無いが、会社でもこの世代は
  • 並外れた才能を持っている。(鍛錬を怠らず競争に勝ち抜いた。)
  • 薄っぺらい考えには簡単に騙されない。
  • であるにも関らず「(おめでたい)上司に上手に合わせてくれる。」
だなぁと感じている。
(↑数字は厳密ではありません。でも知ってる人はこの歳ばかり。。。)
私の同世代(バブル組)にも聞いてみたら、同意してくれた。
(池田先生が「おめでたい上司世代」と言っているのではありませんので、念のため。)

残念ながら、時間切れで質問出来なかったのだが、翌日Twitterで
少子化(労働人口減少)は日本だけではなく中国でも深刻に進んでいる問題ですが、歴史上「巨大な数の非生産人口を掲げた国が辿った顛末の事例はあるのでしょうか?」
と質問したら。A・チェア「最強国の条件」という著作を紹介して下さった。
早速、読んでみたいと思う。

この「中国化する日本」を読むと、日本は、何度も何度も「中国化(OPEN化)」しようと少し取りかかっては、形状記憶合金が戻るように「江戸化(封建的システム)が懐かしい」と戻ってしまう。
でも「同じ状態」に戻るのでは無く、下記に書くように何処かに「割を食っている」集団を作りながら変遷している。
  1. 開墾農場主(武士)が貴族を排除して利権獲得
  2. 新田開発によるイネの普及で百姓のうち長男のみが利権獲得
  3. 明治維新の原動力になった次男/三男も重化学工業のお陰で利権獲得
  4. 最後まで割を食っていた女性もいよいよ→→→少子化
、、子どもの数が少なくなるという事は、たぶん「先進国(文明国?)」としてありうべき姿なのだろう。問題はこの変遷の実情をしっかり把握していない事にある!!と與那覇先生は警鐘を鳴らしておられる。では、具体的にどうしたら良いのか
もはや、日本人だけのメンバーでは限界が来ている。優秀な移民の獲得競争が起きる。(、、と人口学の見解を引用)
という予測は、ホリエモンも同じ事を言っていて、私もたぶんそうなると認識している。

願わくば、日本に来てくれる他国の人達にも、日本を好きになって一緒に「いい感じ」で暮らしたいと思う。この「いい感じ」とは司馬遼太郎さんが誰かと対談した時に使っていた言葉だ。

イノセントな日本人の顔
今回の読書会で一番の収穫は、與那覇先生が挿話として紹介した話である。幕末期に日本を訪れた外国人の記述を紹介して下さったが、意訳すると
イノセント(無邪気)で警戒心の無い「バカ面(意訳)」を丸出しにした人々が、わらわらと外国人である自分に近寄り、話しかける。そしてその感じが凄く幸せそうだ。
 この事を聞いた瞬間に
「あ、それは『こども』だ!」
と目の前に映像が浮かんだ。

我が家にも居るが、10歳くらいの子どもの集団は丁度こんな感じ。。もちろん、幕末のその集団は姿は一応「大人」になっているが中身がまるで「子ども」だったのだろう。(平均身長は異様に低いけど)
「だからか、、。」
とそれまでの疑問が氷解した。昨日の対談では
  • (日本人は)お上を信じ過ぎる。だから裏切られた!と遮二無二なって怒り出す。
  • (日本人は)純粋な事を尊び過ぎる。
  • (日本人は)他者と自分が同化してしまう。
  • (日本人は)「法治国家」って言われてもピンと来なくて、自分らで作るという意識が乏しい。
と指摘されたが「それはなぜだろう?」という疑問がなかなか解けなかった。

沢山の「理不尽な試練」に否応無しにさらされて、人は「大人」になっていく訳だが、グループぐるみ「何かに守られ」続けていると、雰囲気がどうしても内向きで内輪だけの感覚(空気)に支配されてしまう。

 昔、「大人の国イギリスと子どもの国日本」という本があったけれど、今この本のレビューをチラチラ読むと、そのこき下ろしぶりに改めて
「日本人がこどもって言われてもしょうがないかも。」
と、かえって日本らしさを感じる。未だにそうなのだろうか。
(私もこの本のタイトルを見た当時は、ややカチンと来たが、、)




もの凄く楽しい会だったが、このエントリーを書くのは正直、四苦八苦だった。なぜなら「ああそうか、最後の『割食い集団』は人口の半分の女性か。」と気付いてしまうと、普段心して封印している、ルサンチマンが思わず顔を覗かせてしまうからだ。
WorkingMatherの苦悩は深い。

「お上をどこかで信じてる?はぁ?!最初っからアテになんかしてないわよ。」

という本音は、もう10年以上前から持っている。自分の無知さ加減を呪う所から、WorkingMatherの生活は始まるのだから。

、、、 止めよう、止めよう。恨みつらみを書き綴った所で、何も生まれはしない。ただ、それだけ與那覇先生の視点は、あらゆる方向から眺めていて、死角が無いという事なのだ。(恐るべし!)


因に、池田先生、與那覇先生で語られた「橋下大阪市長はどんな人なのか。」の件。
私は橋下さんが、どこかの知事か市長が育休を取った事を批判した発言を目にしてからは「信用しない人物」に仕分け済みです。楽チンな考え方をしようとする人か否かを見分けるには、絶好のリトマス試験紙だと思っています。


さて、来週は気の重い、丸山真男「日本の思想」。。どうやりますやら。

2012年1月15日日曜日

アゴラ読書塾 第2回「タテ社会の人間関係」中根千枝著

 一昨日も張り切って「アゴラ読書塾」に参加して来ました。第二回の課題本は「タテ社会の人間関係」中根千枝著。

1960年代に書かれた本で、当時としては視点が非常に斬新だったとの事。池田先生曰く
「今読むと、常識的で理解し易いですね。」
確かに。「アルアル!」と相づちを打ちながら、サラッと読めてしまったから、当時としては、洒脱で鋭い観察眼からの書籍だったのだろうと思う。
  • 日本はタテ割り方向のつながり意識が強い
  • 小さな集団が縦方向に房状に連なっていて、横同士のつながりが弱い
  • 「場」に居る事の方が優先され、「資格」によるつながりが弱い。(会社を越えた職種で組織された労働組合が存在しない。例:トラック業組合とか)
、、、あたりが、上記の本のポイントと言える。

「構造的に仕組みを解き明かそうと言うよりは、機能主義的(つぶさに観察してその状態を解き明かす)記述で、確かにと思う所があるが、理論として弱いのではないか、、。」

というのが池田先生の感想で、今回の目的はどうやらこの本を深耕するというより、これを足がかりにして

「日本って国はとても特殊と言われているが、その中でも普遍的な構造をあぶり出してみようではないか。」

という所にあったらしい。

ナッシュ均衡
長年の謎だった「ナッシュ均衡」
さて、懐かしい映画のポスターを貼ってみた。観た方もおられると思うが、ラッセル・クロー主演「ビューティフルマインド」(2001)である。(ひゃー11年前だ!)

アカデミー賞を取った非常に印象的な映画だったけど、あのマッチョなラッセル(だってグラディエーターですから。。)が数学者の「ジョン・ナッシュ」を演じている。
この映画の中で有名な「ナッシュ均衡」を発想するシーンが描かれている。ちょっと再現してみると。。




  • バーで男子グループが飲んでいると、妙齢な年頃の女子グループがやってくる。
  • パッと見て男子全員が「ピカイチ!」と思う女性がその中に一人居る。
  • 男子達がこの「ピカイチ嬢」を巡って争奪戦を繰り広げると何が起きるか。。
  • 「ピカイチ嬢」を獲得出来るのはたった一人の男子のみ。
  • 残りあぶれた男子達は「そんじゃ」と女子グループの残りの女子達に声を掛ける
  • ところが、「ピカイチ嬢」を巡る争奪戦を目の当たりにし、あからさまに「自分は二番手以下」である事が判ってしまった女子達は総スカンを決め込んで、あぶれもの男子達の誘いには応じないだろう。
  • かくて、Happyな状態の男女は一人づつしか残らない。
  • だが、もし男子達が「全員ピカイチ嬢には決してアプローチしない」という協定を組んで守ったとしたら。。
  • 各自、二番目に良いと思う女子にそれぞれアプローチし、女子達は「自分は一番に選ばれた」と考えるので、カップル成立の確率が高まる。
  • かくて、Unhappyな人は「ピカイチ嬢」のみで、残りの男女はHappyとなり、全体としてHappy度は高くなる。
  • だから、全員で「ピカイチ嬢を無視する」という戦略を取るのが一番利益が高くなる確率が高まる。
 、、、という筋書きだった。当時、一緒に観ていた夫に「へぇ!そうなの?」と聞いたら
「う〜〜〜ん、ちょっと違うかなぁ、、。」と言っていた。
彼はどうやら学生時代に「ゲーム理論」を読んだ事があるらしく、この映画の筋書きが、正しく「ナッシュ均衡」を説明しているとは思わなかったらしい。
そして、その時の私と言えば、そもそも何を言ってるのかさっぱり判らず、でも
「何だか面白そうな定理だな。」
としか記憶出来なかった。では今、なぜスラスラと筋書きが再現出来たのか、、それは池田先生のお陰なわけです。

ゲーム理論
昨日の読書塾の目玉はズバリ「ゲーム理論」でした。
池田先生のブログでも「ゲーム理論」は多く語られている(「ゲーム理論による社会学の統合」)私も何度か読んでみたけれど、途中で理解が追いつかなくて、今ひとつ(というよりも全然)判らない言葉の一つだった。やっぱり、ライブは違う!行きつ戻りつ、ホワイトボードに描きながら、「超簡単ゲーム理論」の解説をして下さった。

下図は、その内容を清書してみたものである。


 ごく簡単に解説すると。。
  1. 二人の人物(A/B)が、互いに借金をする想定で「協力」「裏切り」の2 X 2のマトリックスを組んでみた。
  2. ピンク色のマスがズバリ「ナッシュ均衡」の状態で、双方「裏切る」という行動が前提となっているから、どちらかが、もう一方の行動(協力)を取ろうとすると「やりたい放題」の状況に陥ってメリットが無く、動かない状況になる。(疑心暗鬼の状態)
  3. 一方、緑のマスはこの4つのマスの中では「長期的関係」が前提となるなら、一番メリットがある選択肢。「やりたい放題」のマスに比べたらメリットは少なく、「やりたい放題」に簡単に遷移してしまう可能性をはらんでいる。(ナッシュ均衡はそもそも動く事を牽制しあった膠着状態)

そして、ここからが池田先生の真骨頂。このゲーム理論の簡単な図式を元に
  • 個人単位で考えたら「やりたい放題」状態を選択するのが合理的
  • だが、あらゆる国の、あらゆるグループが組織を維持する為に「長期的関係」の緑のマスを維持しようと苦心して来た。
  • その為には「やりたい放題」のマスへ一度でも動いた者は「許さない!グループから排除する」という規範を作って「長期的関係」のマスを維持して来た。
  • その規範を維持するのに欠かせないのが「裏切り者は卑怯である」という感情である。
 と、説く。
ああ、そうか!感情とはとても高度な人間の意識なのだ!!と直感的に思って久々に学びの嬉しさを感じましたねぇ(^^)

日本はこの「長期的関係」を維持しようとする動きが極端に強いのでは無いか、、、。狭く移動が困難で、地域で顔を付き合わせる社会では、すぐに「裏切り者」の情報が電流のように流れて
「誰がどう裏切ったか、みんなが知っている。」
「みんなにすぐに知れ渡ってしまう事を、みんなが知っている。」
という状態が、強烈な規範となっている。(村八分とか)
何も、これは日本に限った事では無く、古くは地中海商人(マグレブ商人)やらベニスの商人やらにも「規範を守らせる」工夫は凝らされていて、その方法や強さに国の違いがあるのかもしれない。。

というのが、この回の主題と言えそうです。

「長期的関係」ってやっぱ凄くいいのね、、と思いたくなりますが、アニハカランや。
クルクルとその関係の中で、やり取りを繰り返してしまうと、それはそれで「動かない状態」となってしまい「ナッシュ均衡」と性格は違うものの、「新しい世界へジャンプ」するキッカケが生まれにくいという点では相似形を成していそうです。

じゃあ、どうやったら均衡を破る事が可能なのか??
いやいや、まだまだ先は長いですね。でも「ゲーム理論」のスカートの端だけでも掴めたのは快感でした。

メーカーに勤めていれば「長期的関係」が如何に居心地良く、 そして、それを解消するのに非常な痛みを感じるか、よ〜〜く判りますよね。

ツーカーで試作や下請け製造を担ってくれた国内の協力会社さん、、上からの命令一下、海外に拠点を移さなくてはならない時の苦悩と苦痛。。
「ああ、国内だったらもうとっくに出来ているのに。」
 コストを下げながら、何とか同じ品質で安く生産出来ないか。。
多くの同僚が嘆息しながら、苦心惨憺していたのを思い出します。
それでも、緑の枠から飛び出さないとグローバル社会で生き残れない。。

そんな事を考える読書塾でした。
来週はいよいよ輿那覇先生です!いやぁ〜〜楽しみですね。

2012年1月7日土曜日

アゴラ読書塾 第1回「文明の生態史観」梅棹忠夫著

 池田信夫さんが主宰する「アゴラ読書塾」に初めて参加してみました。テーマは「日本人とは何か?」
非常に遠大な設定で、日本人でありながら、改めて問われると「うっ」と言葉に詰まる問いです。

「なにゆえ、あんな製品が出来るのか?」
「なにゆえ、あんな人が昇進するのか?」
「なにゆえ、問題を見なかった事にするのか?」
「なにゆえ、なにゆえ。。」

「なかなか答えが見えない問い」を考えていると、行き着く先に、この「日本人とは何か?」という問いが待っているように思います。
自分の読解力と思考力がどこまでついて行けるのか、甚だ不安ながらも一人で考えているより、新しい視点が開けるだろうと、あちこちに頭を下げて全12回の読書塾に参加する時間を捻出しました。(協力してくれる家族に感謝です。)

毎週1冊「お題」となる本を読んで、それを中心に、参加者と池田先生による討議が予定されています。
 昨夜はその第1回。梅棹忠夫著「文明の生態史観」でした。

文明の生態史観概要
不勉強で、この本の存在を全く知ず「へぇ〜!」と思う事ばかり。(自分の趣味ばかりで本を読んではいけませんね。)
「蒙を開かれる」とはこの事で、昭和30年代にこんな大胆な「文明を論じた説」があったとは驚きです。
さて、大雑把に言ってしまうと、この本の言わんとする所は、下記の図に集約されています。
文明の生態史観(筆者がリライト)
 梅棹先生は、元は京大の理学部出身でいわゆる「理系」畑の人(動物学専攻)。自身が学術調査の為に訪れたアジア地域(内蒙古、アフガン、バングラディシュ、インド、東南アジア等)を直に回った経験から、
「文明が成立するには、地理的条件(生態学的条件)が深く関係している。」
との仮説を立て、それを一枚の図に示したものです。考察の対象はとりあえず「ユーラシア大陸」に限定しているのは、いわゆる「四大文明」がユーラシア大陸とそれに近い地域(北アフリカの東)で起きているからかも知れませんが、それまで
「文明は直線的に段階を踏んで発展する」(唯物史観:下図参照)
と考えられていたのとは、全く発想が異なって、新鮮な衝撃と刺激を与えたそうです。
梅棹論を大胆に意訳すれば、、
ユーラシア中央部を斜めに走る「大乾燥地帯」には遊牧民がおり、そこは「暴力と破壊の巣窟」となって、周辺の「準乾燥地帯(サバンナ)」に発達した文明社会(中国/インド/ロシア/地中海・イスラム)をしばしば脅かし、文明社会はその打撃との攻防と回復の繰り返しだった。
一方「暴力の源泉」から遠かった「西ヨーロッパ」や「日本」はぬくぬくと温室の中で育ち、独自の発達を遂げる。地理的に最も遠い「西ヨーロッパ」と「日本」は文明の発達の型の系譜が非常に似ている。もし、日本が江戸時代に「鎖国」をしなければ、織豊時代に盛んに交易して東アジア地域に作った「日本人街」を発展させ、インドあたりでイギリスと衝突していたかも知れない。
 なかなか大胆な説です。そして、物議をかもしただろうなと思うと同時に、凄く魅力的でもあります。先の図は、読書会で話された内容を少し加味して、私なりにリライトしたもので、本書の中ではもっと素っ気ない「直線的図形」です。
「色使い」や「情報」を少し加えて自分で書き起してみると、実感としてこの学説の正しさを感じられます。(学術的には、こんな「小手先の装飾」をあまり加えない方が良いのかも知れませんが)
「日本海(対馬海峡)」の存在は大きいと思ったので、僅かに離して「日本という国の特殊性」を出してみました。(昨夜もそこがポイントでした)

唯物史観の直線的発達段階



分権と集権、OPENとCLOSED
池田先生の博識な解説を伴って、「梅棹論」を補強する形で読書会は進行しましたが、最も秀逸だったのが、下記の図でしょう。
「ああ、こんな時に2X2のマトリックスを使うんだな。」
と、自分の能力の低さにガッカリ。思考を深めるにも経験とテクニックの修練が必要だとここ数年痛感しています。

「西ヨーロッパと日本が似ていると言うが、なぜ日本では、かの『個人主義』が発達しなかったのだろうか?」
の問いに対して、描かれたのがこれです。

梅棹論と與那覇論の関係を説明するマトリクス

このマトリックスを眺めていると、今の中国に対するWhy?の答えが見えて来そうな気がします。
梅棹論は「分権が進んでおり、西ヨーロッパと日本は直線的に発達段階を踏めた。」事を論じており(つまり赤紫枠)、三回目にゲスト予定の與那覇先生は「中国は1000年も前から個人主義(OPENシステム)導入済みで日本よりずっと年季が入ってます。」のOPENの横軸(緑枠)を説明している訳です。

、、、やや先走ってしまいましたが、
  • 対角線にある「日本」と「中国」はどう付き合ったら良いのか?
  • 何度トライしてもCLOSEDの欄に引き戻ってしまう日本はどうなるのか?
など、が次回以降の根幹を成す「問い」となりそうで、なかなかエキサイティングです。

次回の課題図書は
「タテ社会の人間関係」(中野千枝著)

実はこれも既に読んでしまったのですが、少しでも「日本の組織」に属した事がある人ならば、痛すぎるほど判る話。。(うっかり何かの「長」になってしまった人は必読の書ではないでしょうか。)次週も楽しみです。


2012年1月1日日曜日

【謹賀新年】新春にふさわしい切れのある100年インタビュー「塩野七生さん」 〜おんな司馬遼太郎〜

あけましておめでとうございます。
今年は無事な一年でありますように、、とお祈りした矢先、早速の地震でややドキドキ。なにごとも無いと良いのですが。

さて、新春一番のエントリーは何が良いかと考えていた所、偶然NHKで塩野七生さんの100年インタビューが放映されていました。

塩野さんと言えば「ローマ」の人で、私もまだ著作を読んでいないのですが、いつか読みたいと思っている作家さんです。夫が文庫本に挑戦しはじめているので、そのうち、後に続こうと思いますが、ご本人がお話されているのを初めて聞いて
「ああ、歯に衣着せぬ物言いで、非常に気持ちのいい人だなぁ。」
と思いました。チャキチャキの江戸っ子で、生涯現役。先日「十字軍」を完成させたばかりだそうです。
既にローマの永住権を得ているので、作家活動の殆どはイタリアですが、日本に対する思いは深く、インタビューの中で語られた指摘や提言の鋭さに、うなりました。

NHKオンデマンドでも視聴可能ですが期限が今日までなので、これは!と思った内容をかいつまんで抄訳してみます。


言葉とは
物事が想定通りに進んでいるのなら、「言葉」は必要の無いものである。まあ、普通は想定通りになんて進まないので、その時に「言葉」の出番である。現代の政治家は「言葉の使い方」を知らない。(『何ゆえ、マニュフェストは実現出来ないのか、それはかくかくシカジカで』と語る為に言葉はあるのである。)

リーダーの資質
古代の男達は、命を取られるリスクを負い、そこまで追い込まれていたから、持てる資質を十分発揮していた。現代はそこまで追い込まれている訳では無いし、辞任だの謝罪会見だの、あの程度は「リスク」と言えない。
いつの時代でも「資質を持った人材」はいるのであって、特別に古代の人達が優れていたという話では無い。

イタリアの教科書に載っている「リーダーの条件」
  1. 知力 知識は貯める事が出来るが、知力はアタマの使い方
  2. 説得力 敵を説得する為の力。考えの違う人達を自分の考えに引き寄せる
  3. 肉体的持久力 激務に耐えるには耐久力が必要(筋力があるとかでは無くタフさ)
  4. 続ける意思 ぶれない
  5. 自己制御力 シーザーの言葉「我々は地位が高くなる程不自由になる。市井の男が怒ればそれだけだが、我々が怒ってしまうと、誰かの命が取られる可能性がある。」つまり『職責』を考えた上で自己を抑制する能力が必要である。
「リーダーに必要なのは、決断力であるとか、実行力であるとか、、、よく言われるが、それは上っ面の結果を見ているだけで、この5項目を備えているのなら、当然そんな事は出来るはずである。」(おっしゃる通りです。)

ローマ帝国が1000年続いた理由
  • 被征服民も共同体に入るのなら市民権を与えた
  • 防衛線は設けたが、国境という考えを無くした
  • ギリシャアテネではアテネ市民になるには、両親共アテネ市民でなければならなかった(ローマの施策は画期的であった)
  • ローマの「寛容(クレメンティア)」
  • 格差のある社会ではあったが、非常に流動的であった
1000年間も続いた帝国は、ローマの前にも後にも無く、この続いた秘訣はここにあった。有名な「五賢帝時代(ローマの安定と繁栄をもたらした時代)」の皇帝達は、皆「被征服民」出身だったり、貴族出身で無い人だったりと様々であった。

格差は無くならない
  • 格差が無い社会などない。
  • 問題は、格差が「固定化」する事で、この瞬間に国家は衰退を始める。
  • 格差があっても流動性を保証して「どうぞ努力して下さい」というシステムにしていた。
  • 中産階級にボリュームがあり、安定して豊かな国家は長続きする。
  • どの国にも、どの時代にも人材は居る。それを活用するシステム(見いだす仕組み)が生きていなければ国家は衰退する。
  • リーダーだけでは上手く行かない。素質を持つ人達を適材適所に登用すれば相乗効果で効果は倍増する。

多神教の強さ
ローマが繁栄を遂げる事が出来たのは、「寛容さ」と「多様性」を内包出来たからだが、その素地になったのは「多神教」だったからである。一方、一神教の危うさは狂信(ファナティック)的な方向に走りがちになる。これは「無知(知らない)」が元凶でもあろう。(十字軍遠征を書いたのはこの為で、敵味方双方に、それぞれ『相手の事を知ろう』する人々が居ると考えたから。)

新しい事が生まれる素地
日本は今「覇気が無い」と言われている。ここ数十年は資産を食いつぶして来た感もあろう、しかし、ゆっくり過ごしたその間に 無駄な事をする余裕(精神的/物質的余裕)があったのでは無いか。(料理とお菓子の種類が無駄に多いのがその現れ)しかしながら、その『無駄に多い』中からしか「新しいもの」は生まれない。

新しい事が始まる時「既得権者」は「損をする」ので気が付くのが早い(だから新しい事反対!となる)。
一方、物事が動く時には、必ず得する人も生まれるはずなのだが、何しろ新しい事なので新規の得する人は「気が付いていない」事がままある。ここで重要なのが、政治家が言葉で説明する事である。

日本人の欠点
日本人は具体的な問題に対処するのは得意である。であるが、抽象的な事案を想定する事が不得手。
この様な民族であるのなら、その特性を伸ばして行けば良い。イタリアで言えば「ベネチア公国」に学ぶと良いのでは無いか。(高級織物、知的集約産業である出版業に力を入れたローマ周辺国家)
お金になる芽を見つけ、そこに集中投資して、これでみんなで食って行く(ローマは超大国なので、真似のしようが無い)
  • 徹底した合理化
  • 人材登用
  • 情報の重要性を認識する(←今の日本に最も欠けている)
というのが、ベネチアが取った戦略である。

歴史を知る意味
自分の人生はたかが知れているが、歴史を知れば何百倍もの人生を送る事が可能である。「歴史は使うものである。是非使って欲しい」


「ああ、この人は『おんな司馬遼太郎』だな」
と思いました。事実インタビューの中でも

「司馬遼太郎先生に『日本には「歴史研究」と「歴史小説」しか無い。しかし、君はその間を行こうとしているんだね。』と言われました。」

と語っています。それは傍流である事を意味しているのだけれど、塩野さんはそれで良いと思ったそうで、なぜなら「歴史を通して人間達(カエサル等の歴史上の英雄)」を描きたいのだから、その為の方法に「研究」なのか「小説」なのか、どちらかでなければならない、、と決めるのはばからしいと考えたのだと思います。(私も賛成)
司馬さんも、塩野さんのそんな思い切りの良さを高く買っていたんだろうなと思いました。

今後、どうしても書きたい人物が二人居るとか。。
「生きていれば書く予定です。」
と語るその熱意には、本当に感服。
魅力的でキリリとした素敵な女性だと思いました。(あんな風に年を重ねたいですね)