鶴見俊輔、上野千鶴子、小熊英二著 |
かれこれ半年以上この状態で、この夏やっと手に取った。恥ずかしながら、この共著に名を連ねているお三方のうち(鶴見俊輔、上野千鶴子、小熊英二)上野氏しか存じ上げず、この座談の主人公である、鶴見俊輔氏を初めて知った。
鶴見氏は、戦後、雑誌「思想の科学」を創刊し、数々の知識人と交流があり、ベ平連(ベトナム平和連合)の主要メンバーという来歴の持ち主で、その筋(現代思想?)の人々の間ではスター的存在だったそうだ。(wikiによると哲学者の分類)
本には「面白くてすぐ読める」物は多いけど、これはきっといつまでも心に残る一冊だと思う。
私はとにかく、昭和から現代までの知識が薄い(特に生まれてから物心つく60〜70年代後半まで)と思っているので、この座談で語られた戦後から連合赤軍事件の頃までの話は、ボンヤリとしか知らなかった。非常に興味深い内容である。
鶴見氏は、母方の祖父が後藤新平(台湾総督府民生長官を務めた明治の大物政治家)で、父は鶴見祐輔−戦後厚生大臣を務めた政治家。いわゆる政治一家に生まれた。自らを
「悪人で、ヤクザでいえば仁義の世界に生きているんだ」
と、座談の間、一貫して語る。その視線は率直で飾る事無く、歴史と世情を見つめている…であるが故に言葉の多くが心に響く。
話が前後してしまうが、この著書は、小熊英二という社会学者(現慶応大学教授、小熊氏の講義はどれも人気で、受講が困難らしい)が発起人で、戦後の思想家を代表する鶴見氏に三日間みっちりインタビューしたその記録である。(収録は2004年)
この小熊氏の質問がどれを取っても恐ろしく詳しい。鶴見氏が書いた物は全て、そしてそれ以外の文献も半端無い分量を読んでいると思われ、とにかく、詳しく鋭く斬り込んで行く。(上野氏も恐らく知っている内容が多いのだろうが、若い小熊氏に多くを譲って見守っている)
とても、この本の感想を簡単に書けるものでは無いが、とにかく印象に残った事柄をトピック的に、、
一番病
鶴見氏は、自身の父鶴見祐輔を「一番病の人」だと言う。
戦中は大政翼賛会で演説し、戦後はアメリカが来たら自分は総理大臣になれると無邪気に信じていた。貧乏学生から頭脳一つで東大まで一番で登り詰め、妻の実家をバックに政界へ打って出る。時流が軍国主義ならそれの一番たろうとし、戦後民主主義になったら、いとも簡単に転向してしまう。実父のそれを嫌悪し、永らく実家には帰らなかったそうだ。
恐るべき強い人それは母親
インタビューの冒頭、生い立ちを鶴見氏は語るのだが、母親の存在は大きく、重かった。姉弟4人居る中で一番折檻され、それでも
「動物の感で自分が一番愛されているのが分かるんだ、だから辛い。愛されるのは辛いと物心つく頃から気が付いてしまって、その先はどうしようも無い不良少年だった。何度も自殺未遂をするんだけど、本当に死にきれる所まではやらない。死んでしまったら母が壊れるのが分かったから、そこまで出来無いんだ。」と語る。
十代で女性関係を持ち、学校は放校、自殺未遂と、親の手に余る息子を見かねた父親が、母親と離す為にアメリカへ留学させたのだそうだ。
母親から植え付けられてしまった女性に対する一種の憎しみは、永く鶴見氏を苦しめ、成人してから発症してしまった鬱症状の根底には、その苦しみがあると言う。
「不良少年だった反動で、成人してからの私は、女性に何も反応しないようにと、自分を追い込んでしまったんだ。」
と赤裸々に語る。なるほどなぁと思えるし、切ない。
私にも息子が居るので、思い当たる部分があったりして、母親の存在が子どもに与える影響の大きさを思うと考え込んでしまう。
それでも日本へ帰国する
鶴見氏が米国留学中に日米は開戦してしまう。
「あの国と戦ったら日本は必ず負ける。」
と思っていたそうだが、負けると思っていても
「ズボンに手を突っ込んで、英語なんぞをしゃべりながら、アメリカと一緒に日本に上陸しなくない。」
と思って、日米交換船に乗って帰国する。聞き手である小熊氏は、その動機を不思議がるが、シニカルに世間を見つめているのに、ギリギリの所で「仁儀」へと行動の舵を切る鶴見氏は、とても人間臭いと感じた。
人を見る目
連合赤軍の事を語った下り。イデオロギーの為に、それまで仲間だった人を吊るし上げてリンチにする等と言う愚行を、まして、心ではおかしいと思っているのに、仲間の命令に従ってそれを実行するなぞは、くだらないと語る。
「逃げる器量を持たなくちゃ。」
「大義というような抽象的なものによって決断を下すべきじゃない。人間にはそんな事判断する能力は無いんだ。誰となら一緒に行動していいか。それを見るべきだ。普段から人をよく見るんだ。」
特にこの言葉がとても印象深かった。
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