2013年2月24日日曜日

オランダを考えてみる〜「最強国の条件」A.チェア 「オランダ紀行」司馬遼太郎 他


オランダからの客人と週一回ミーティングをする機会があった。折角のご縁なのだから、彼の国はどんな国なのか、最低でも基礎知識を入れておこうと大慌てで「オランダ紀行」を読む。
オランダへは旅行で一度行った事がある。両親がベルギーのアントワープに三年程住んでいた時に、隣国へ気軽に遊びに行く感覚でアムステルダムを訪れた。ベネルクス三国と言われているけれど、国境を越えると両国の違いがすぐに判る。まず、道路の舗装レベルがオランダは格段にいい。
「ベルギーは貧しいからね。インフラに手が回らないんだよ。走っていてすぐに判る。」
と父が話していた。もう15年以上前の話で通貨統合前だから、今はどうか判らない。スキーポール空港はヨーロッパでも一番立派な空港だとも言われていた。小国ながらいろいろ立派だけど、料理には無頓着でベルギーの方が何を食べても美味しく、フランス系ラテン文化の薫りがした。オランダはどちらかと言うとイギリスに通ずる所が強く(アントワープの前にロンドンにも両親は赴任していたので)今回「オランダ紀行」を読んでその理由が少し判った。


最強国の条件(A・チェア著)
オランダ紀行を読みながら、「この内容どこかで読んだな。」と既読感を覚えた。暫くわからなかったが、やっと去年読んだ「最強国の条件」(A・チェア著)の中にオランダが取り上げられていた事を思い出す。この著書は、以前輿那覇先生に薦められた本で、古代ペルシャ帝国から現代のアメリカ、果ては、最近注目の中国、インドまでを「最強国になった要因」と言う視点で読み解いている面白い著書だった。
チェア女史は「最強国(HighPower)」をこう定義している。
「最強国」は単なる帝国や超大国よりも「珍しい」存在で、軍事的経済的な優位が突出しているあまり、世界を事実上支配するにいたった社会、国家のことである。(本文p3)
そして、歴史上の最強国に見られる法則性を
最強国が世界支配にいたる上昇過程では「多元主義的」且つ「寛容」で、それが衰退期に入る時は 「不寛容」「排外主義」宗教的、民族的に「純粋さ」を求め出す時に始まっている。
と説いている。アメリカの著書らしく、冒頭数ページでズバリ要点を書いてしまっている所が、何とも明快だが、各章は便覧的だけれど世界史を「国家の成り立ち」という点で俯瞰するのには非常に面白い。
  • 古代ペルシャ帝国
  • ローマ帝国
  • 大モンゴル帝国
  • 中世スペイン
  • オスマン帝国
  • ムガール帝国
  • 大英帝国
  • アメリカ
  • ナチス・ドイツ
  • 大日本帝国
  • 現代の中国、インド、EU
と古今東西の「最強国」と言われる事例を取り上げ、この中に「小国オランダ」を列挙しているのである。


不利な条件からアイデア一つで成り上がった国
ここからは「最強国の条件」と「オランダ紀行」両方で読んだ事を織り交ぜながら、私なりの感想を。。
チェア女史も、司馬さんも、オランダが17世紀に「輝けるグローバル帝国」になり得たのは、「宗教/民族に対する一切の差別をしない=寛容政策」によるものだとしている。

低湿地帯で地理的に恵まれたとは言えないこの地域は、各地が「公国」単位で割拠し、沿岸部は海洋民族として生きていた。「海の乞食(ゴイセン)」と呼ばれていた彼等は、直接自分達が食べられる「農」では無く、何かに「付加価値」を付けて売って利益を得る「商」に生きなければならなかったとしている。司馬さんはよく
「商売とは、物の「量」と「質」を正確にはかることだ。」
と語る。そうでなければ商売は出来無いと。
17世紀は「宗教改革」の嵐が吹き荒れ、血で血を洗う争いに明け暮れ、その先頭に立ったのがスペインであるが、オランダは80年かけて、このスペインからの独立を勝ち取り、宗教や民族の違いから迫害を受けた人々(ユダヤ教やプロテスタント)が資本と技術を持って次々とオランダにやって来た。この起業心溢れる「資本とアイデア」とそれを支える「労働力(プロテスタント)」が僅か数十年にして「近代市民国家の小サンプル」を作ったと言えるらしい。
「自由」
というのは、後世の東洋人が恍惚となるほどには、高邁なものではなかった。ただひたすらに実利的だった。
十六世紀末、この国の市民達が懸命にもがいて領有国のスペインから独立したのも、自由のためだった。どんな思想をもってもよく、何を信仰してもいい、という社会でなければ生きられないし、商売もできないし、はるかな遠洋にも出てゆけないのである。
たとえば、カトリックならば船上に神父がいないと死ぬ場合に天国にもゆけなくなるが、プロテスタントならば聖書一冊あればいい。
「なぜオランダは繁栄したか、それは、自由があったからだ」
とこの繁栄の時代(十七世紀)に生きたスピノザが痛切に言っているのである。(「オランダ紀行」p89)
商売重視になれば、当然「拝金主義」にもなるし、汚職、賄賂が頻発し「まず『官』が腐った」とも司馬さんは表現する。有名な「チューリップバブル」も世界で初めて金融システムが出来上がったオランダでの出来事だったし、「オランダ東インド会社(VOC)」は世界初の「株式会社」だった事は有名で、鎖国していた江戸期の日本と取引をしていたのが、このオランダ東インド会社である事を考えると、当時のオランダの「商魂逞しさ」を窺い知る事が出来る。


「オランダのビジネスモデル」をそっくり継承したイギリス
チェア女史は、短時間で勃興したオランダが「名誉革命」を契機に、そっくりイギリスに移ってしまったと指摘する。
野心家だったオランダの執政官ウィレムが、従姉妹でイギリスの王位継承権を持つメアリー・スチュワートと結婚し、イギリス議会を味方につけて自分がイギリス王になってしまった(名誉革命/無血革命)時点で、オランダにあった一切(寛容政策、資本、有能な人材、ビジネスモデルetc)をイギリスはそっくり恩恵として受け取ったのだという。
チェア女史は、オランダの章の最後に鋭い指摘をしている。
イギリスはオランダがついに解決出来無かった問題まで継承する事になる。オランダにとって、寛容さは主として内政問題だった。オランダの国境の中で実現した宗教的寛容さは特筆すべきものだったが、海外の通商基地における人種的・民族的寛容に繋がったわけではない。(中略)奴隷制、人種隔離、文化破壊と典型的な植民地支配を実行したのである。(中略)オランダ人はインドネシア人やセイロン人を、大オランダ帝国の忠実な臣民に作り変える事に一度たりとも成功しなかった。(そもそもそんなつもりも無かった)啓蒙主義の諸原則、白人中心主義、ローマ流の帝国建設という三つの、互いに異質な原則を組み合わせる努力は、次代の主役であるイギリス人が支払うことになるであろう。(「最強国の条件」p230)
「台湾紀行」(司馬遼太郎著)を読んだ時、オランダが台湾南部に海運の為の基地を開いた記述があったが、その中でも
「宗主国としてその土地 に『何かをもたらそう』(例えばインフラとか)というつもりはまるでなく、自分らの都合優先で、取れるものだけその土地から吸い上げて(例えば資源や労働力)後は知らないとばかりに、海岸線に張り付く形の城で(ゼーランディア城)統治と言えないような統治をしていた、、、
と表現していた。


美術史の中のオランダとゴッホ
「馬鈴薯を食べる人々」ゴッホ
最後に「オランダ紀行」を読んでとても「儲かった!」と思った話。同書にはレンブラント、ルーベンス、ゴッホに対して解説している文章が多く、非常に秀逸で示唆に飛んでいる。
一応、画学生だったので美術史は詳しいつもりだが、美大の悪い所は「井の中の蛙」でそれが、当時の社会とどう関わったのかという解釈がいつもスッポリ抜け落ちている。
技法と流派とそれの時代が補足的に語られるだけで、その意味や意義までは思考を深めない。。。
司馬さんは作家デビューをする前の新聞記者時代に美術欄を担当していた時期があるそうだが「もっとありのままの絵画を楽しめば良かった。」と色々な所で後悔しておられる。でも、その圧倒的「下調べ」に依って立つ解説はもの凄く面白かった。

オランダが生んだレンブラントとアントワープを代表するルーベンスの違い(プロテスタントとカソリックの違いにも見える)もさる事ながら、ゴッホに関する文章はとっても秀逸でこんな解釈これまで読んだ事が無かった。
「存命中は評価されなかった孤高の画家、自分の耳を切り落とす狂気の狭間に生きた炎の画家」等と表現されるが、司馬さんは「ゴッホは狂人でも変人でも無い」と言う。死の直前まで弟テオと取り交わした往復書簡を読み込み、最後にこう書いている。
ゴッホは精神を絵画にした。
このことそのものが、異様であった、
それ以前の、たとえば宗教絵画でいえば荘厳さとか神秘的光景、または聖母の慈愛、あるいは神にたいする敬虔といった心理的情景は絵画によって描写できた。それも、一種の『説明』だった。
そういう、『説明』からいえば、ゴッホはいわば無茶だった。かれは自分の精神を、絵画で表現しようとした。自己の皮膚を剥ぎ、自己そのものを画面にひろげてみせたのである。
半ば冗談で(むろん半ば本気で)いうと、ゴッホがもし十七世紀に生をうけていれば、とてもレンブラントのような画家にはなれなかったにちがいない。レンブラントの場合、対象を再表現するために --説明するために-- 稀代の写実力をもっていたのである。
ゴッホのころ、すでに写真機が出現していた。
画家たちは写実力の上で寝そべっているわけにはいかなくなり、ゴッホのように精神へ向うか、もしくは同世代のセザンヌ(1839〜1906)のように、自然がもつ形を抽象して(自然を円筒状、球状、円錐状に分析して)それらを絵画のなかで再結合させるか、どちらかしかなかった。(「オランダ紀行」p388)
期せずして、これまで自分が抱えて来た命題に、一つの見方を示してくれたように思った。そうか、写真機は大変な「イノベーション」だったんだ。。
「絵画」は今日では文学的な所に近いと思われがちだけれど、そもそもの成り立ちはもっと科学技術に近い技能だったのだ。(司馬遼太郎)
この記述にもハッとする。ああ、やっぱり読書って面白い。
オランダからの客人と、こんな事をベースに話し合う事が出来そうだ、、(悲しいかな語学力が伴わないけれど。。。)
ゴッホの最後の絵と言われている「カラスの群れ飛ぶムギ畑」

2013年2月13日水曜日

いい男、いい女に読んでもらいたい「海賊と呼ばれた男」百田尚樹著

仕事の出来るビジネスマンは小説なんて読まへんのやろな。

確か、百田さんは二年以上前にこんな内容をつぶやいていた。仕事がデキル人ほど小説を読んで欲しい。。今回「海賊と呼ばれた男」を読んで「あの時のつぶやきの真意はこれか。」と思うと同時に、これは百田さんの「坂の上の雲」だなと思った。

どこで読んだか忘れてしまったが、司馬遼太郎が超人気作家だった高度経済成長期(1960~70年代)、サラリーマンはこぞって同氏の作品を読んだと言われている。「竜馬がゆく」は若い20~30代の現場を支える人から支持され、「坂の上の雲」は管理職クラスの必須教養だと、その短い書評では表現していた。
百田氏も「永遠の0」では「人は何を信条に生き抜くのか」を表現し、この「海賊と呼ばれた男」は「世の趨勢と、それにどう対処し判断して人を引っ張って行くのか、人を育てていくとはどんな事なのか」をリアルに目の前に描いてくれている。

内容の薄いハウツー本10冊よりも、このほぼ実話に近い小説をジックリ読む方が、よっぽど「デキルビジネスマン」には役に立つだろうと私も思う。


人が最大の財産
武田信玄の昔から「人は城、、」と言われるように、人材の大切さは叫ばれている。しかし、ギリギリの土壇場でもこの信条を守り抜ける人は少ないだろう。
「海賊と呼ばれた男」は明治の末期に一代で石油小売店を築いた国岡鐵造(くにおかてつぞう:出光興産の創始者出光佐三がモデル)が、終戦の玉音放送を聴く所から始まる。
「愚痴をやめよ、直ちに建設に取りかかれ。」
鐵造は、茫然自失の社員を終戦二日後に招集し、こう下知する。国内の石油小売各社は戦時下に軍部が指導して作った国策会社「石油配給統制会社(石統)」に入っていたが、鐵造はそれは国内の自由な商いを阻害するもので、国家にも国民にも「為にならない」として真っ向反対し、加盟しなかった。今も昔も日本にありがちな「身内いびり」が始まり、国岡商店は国内では商売できないよう同業者からイジメられていた。
やむなく、当時占領下にあった南方、台湾、韓国、満州と海外に支店を展開し、そこで外資相手に堂々と渡り合って脅威的な売り上げを計上する。それが、終戦と共に灰燼に帰してしまうのだ。建て直しには「馘首致し方無し」と周囲の幹部が進言する。すると鐵造は
「ならん、ひとりの馘首もならん。」(中略)「たしかに国岡商店の事業はすべてなくなった。残っているのは借金ばかりだ.しかしわが社には、何よりも素晴らしい財産が残っている。一千名にものぼる店員たちだ。彼らこそ、国岡商店の最高の資材であり財産である。国岡の社是である『人間尊重』の精神が今こそ発揮されるときではないか」(上巻p20)
もうここを読むだけで滂沱の涙だが、「社歴の浅い店員だけでも。。」と進言する重役に、さらに雷を落す
「馬鹿者!店員は家族と同然である。社歴の浅い深いは関係無い。君たちは家が苦しくなったから、幼い家族を切り捨てるのか」
「人育て」の真骨頂である。

私事で恐縮だが、20数年務めている今の会社で、忘れられない事がある。最初の子を妊娠した14年前、産休に入る直前に昇格試験を受ける年次に当たってしまった。既にお腹は大きく、二ヶ月後には休みに入る予定だったが、試験実施日はまだ在籍していた。当時の上司も周囲も、そして自分自身も「こんなに大きなお腹の妊婦はきっと落されるだろう。」と思っていた。論文試験をパスし、グループ面談に進んで、私が妊婦であると面接官に知れてしまったら、きっと落される。それでも、面談の時に尋ねられた「将来どんな事業を思い描くか自分はそれにどう貢献出来るか。」と問われた時に、本心から「こうしたい」と思う事を述べた。すると後日「まさか通ると思わなかった驚きだ。」と当時の上司から合格した事を告げられた。(僅か14年前でもこんな上司の方が普通でした、、今なら、パワハラ、セクハラものですな。)
あの時、あの場に居た五人の面接官にどれだけ感謝したかわからない。私の将来の可能性のみを評価してくれたのだ。当時は産休/育休を取って、そのまま会社に復帰しない女性も多かった。私がしれっと休むだけ休んで退職してしまうだろうと見られやすい世の中だった。それでも面談の内容のみを公平に評価してくれた事は
「雑音に振り回されず、評価すべき点のみを評価する」
という筋の通った態度をとったわけで、それが私に与えた影響は計り知れない。その後の社内評価は決して恵まれているとは言えないけれど、たった一時、自分を信頼してくれた人達が居た(当時の面接官はとっくに退職されてきっと今は居ないだろうし、どの部署の方かも判らない)という事にどれだけ助けられたか判らない。人は信頼される事で、苦しくとも奮い立つ事が出来るのだと身に染みて思う。だから、鐵造の言葉はどうしても涙無しには読めないのだ。

国岡商店の創業当時は、鐵造自ら講師を勤め、若い社員を社内夜学で教えたという。より高度な知識と見識を身につけるべく、懇切丁寧、辛抱強く教え、手塩にかけて育てた店員達は、簡単に置き換えの効く「人員」なぞという存在では無く、まさに国岡商店にとって、なくてはならない存在なのだ。
こんな風に丁寧な「人育て」をしていた企業は、戦前/戦後と多かったように思う。実際に知ってる例では、松下幸之助も工場の工員が学べるように夜学を開いていたし、東レもそうだったと記憶する。国全体が貧しく、不況の嵐が吹くと、働きに出なければならなかった若者達が大量に生まれた。彼、彼女らに学ぶ機会を与え、社会の一員として育て上げる、企業はそんな役割を担っていた。この一見すぐ効果が現れない地道な育成が、後の幾多の苦境を乗り越える底力となって発揮される。色々な意味で「日本の特徴」と言っていいと思う。
この主人公鐵造を中心に、登場する男達はどの人物も鐵造が繰り出す難題に「出来ません」と簡単には言わず、考え抜き、辛い仕事にも何度でも挑む、満身創痍の戦士達だ。


シレッとスマートな海軍大佐が学んだ事
最も印象的なのは、戦後「ラジオ修理事業」を国岡でやらないかとら持ちかけた海軍大佐藤本のエピソードだ。とにかく、石油が一滴も無く商いができない国岡は、社員を食わせる為にどんな事業もやった。選り好みせず、農業漁業まで取り組んだとか。。。どれも赤字で採算が合わず、糊口を凌ぐ状態だった。
ラジオ修理はGHQの指導で、広く民主主義を浸透させる為に、それを伝えるデバイスが必要でラジオを行き渡らせる必要があった。ところが当時の日本には新しくラジオを生産する力が無い。急場凌ぎに「壊れて放置されたラジオでもいいから直せ!」となったわけで、この事を知った藤本は、かつての部下達で海軍の技術畑の退役軍人達を修理に当たらせようと事業プランを考えた。国岡に話を持ち込んだ藤本は、即断即決する鐵造に舌を巻く。ところが、この後本当の「鐵造の人育て」に遭遇するあたりが面白い。
「この事業をするには五百万円用意して頂かなければなりません。」
藤本が事業プランを練って鐵造に進言するが、一言
「君はその金額を経理に用意しろと言うのかね。君に事業部長を任せた以上、一国一城の主だ。他はどうか知らんが、金の工面も事業部長の仕事だ。」
と言われてあっと気が付く。さればと銀行に融資の相談に行くが「元海軍大佐だった」と名乗った事によって
「戦艦大和の様な、大変な無駄遣いをしておきながら、、、銀行屋に言わせれば海軍は経済がわかっていない。」
と痛罵される。
「自分は真に海軍気質が抜けて居なかった、申請したらそれで金が降りると思う甘さがあった。」
と、ものの見方をガラリと転換させる。融資願いに訪ねる時に、ラジオの修理を銀行担当者の前で実演し、それまで門前払いだった銀行サイドの興味をひいて、何とか前向きな回答を得る。この気付きと、軌道修正の柔軟さはとても印象的で心に残る。

実は、この本を読む前に「戦艦大和の最後」(吉田満著)を読んだのだが、そのあとがきにこんな一節がある。
海軍の人間にはどんな雑兵に至るまで今も共通の面差しが残っている。海軍士官はシレッとした動作が身につくよう心がけた。しかし今度の戦争で、その開始から終局まで陸軍を中心とする無思慮と蛮勇に海軍が押切られる場面が多かったのは、シレッとし過ぎた結果ともいえるのではないか。いつの頃か、ネーヴィーの伝統に一種のエリート意識、みずからの手を汚すことを潔しとせぬ貴族趣味が加わり、受け入れ難い相手とトコトンまで争わずに、自分の主張、確信だけを出して事を決着する正念場から身を引くという通弊が生まれた。(「海軍という世界」『勝海舟全集』第十六巻月報より 司馬遼太郎)
ドキッとする人も多いのではないか。元々優秀で資質のある人間でも、環境によっては身を労する事をサボってしまう。自分の回りのみ身綺麗にして、やり過ごそうとする姿勢は、現代人にも、否、分業化が行く所まで進んでしまった現代だからこそ、この藤本のエピソードに、何らかの内省を感ぜずにはいられない。


生きたビジョン
鐵造は、神戸商業高校(現神戸大学)に学んだ時に、後の社是とも言える幾つかのビジョンを示す言葉に出会う。組織の長たるもの「ビジョン」無しには夜も日も明けないのが、昨今の常識だか、以下に挙げるものは、誰にもわかりやすく、且つ「お!それに自分も乗りたい」と思わせる魅力がある。ビジョンの有るべき本質を捉えていてとても秀逸に感じる。

●士魂商才
鐵造が創業時に恩師からもらった言葉で「武士のこころをもって、商いせよ」という意味。武士と商人という江戸時代の身分制度の一番上と下という組み合わせが妙だが、この相入れない役割の全く違う二つを成り立たせる為には自ずと考え続けなければならない。考え続ける体質を持った組織は強い。

●黄金の奴隷たる勿れ
神戸商業高校の学生達の間で言い交わされた言葉。第一次大戦の戦勝景気で出現した「成金」が同校で演説した時に「所詮、金儲けや!」と言い放った事に学生達は若者らしく反発してこう語り合う。若き日の「青臭い理想」はやはり大事だ。鐵造が先頭に立って喧嘩を仕掛ける時に常にこれが行動指針になっているのが、よくわかる。

●大地域小売業
中間搾取を出来るだけ抜いて生産者と消費者を繋げる流通の在り方。当時、工業化の躍進に伴って消費者が購買力を付け、需要がどんどん増して、これまでの流通方法では供給が追いつかなくなって来ていた。その時代の趨勢を読んで、創業当時から目指した商いの在り方。このアイデアの筋目の良さに真っ先に気が付いたのは、鐵造の創業時に資金援助をした日田という人物。この人が寄せた鐵造への信頼が後の国岡商店を作ったと言っても過言では無く、結局「人育て」は世代を越えるレンジで考えなければならない事がよくわかる。

鐵造の姿勢は、徹頭徹尾「店員達の能力を信じ、自らの行いが天に恥じる所は無いか常に見つめ、本当に解は無いのか考え抜く」事に貫かれている。トップとしての仕事
大勢におもねらず敢然と喧嘩を仕掛け、向かうべきビションを常に示す。
をする姿勢は、この闘将の元だったら奮い立って働くだろうと、各エピソードは物語る。

タイムカードも、労働組合も、定年も無く(注:現在の出光には有るらしい)それを知った官僚が「こんな宗教じみた会社上手く行くはずが無い。」といぶかる社風であるが、一度社員達の働きと、鐵造の寄せる信頼に触れると「これぞ!」と惚れ込んでしまう。
Amazonの書評に「今度から出光のカードを作る!」と書いている人があったが、機会があれば私も出光を選びそうだ。百田氏は
「この忘れられていた真実を小説に書いて、今の日本人に何かを思い出してもらいたい。」
と語る。どの会社にも「創業の理念」があり、それは「金儲け」ばかりで無い何かがあったのでは無いか、、、。
自分の足元からもう一度見つめたいと思わせる、味わい深い作品だ。

【追記】
少し出光興産の事をネットで調べたら、バブル期に「2兆円クラブ」(有利子負債額)という、ありがたく無いあだ名がついていたそうだ。日産、ダイエー、出光で構成された、このクラブから他社や政府の資金援助を受けずに、自力で脱出出来たのは出光のみと言う。偉大な創始者亡き後の、企業の危機と再生にも非常に興味がある。(皆さんAppleを思い浮かべるのでは?)機会があれば読んでみようか。

出光興産の自己革新