ハリウッドから日本アニメまで |
「現代は父性喪失の時代で、みんなそれを探そうとしている。」ごく端的に言ってしまえば、著者の樺沢氏はそう主張している。「父性」というキーワードにピンと来たので、是非読みたいと初版を速攻で注文した。
河合隼雄と父性
20年以上前。妙に心理学の本にかぶれた時期がある。むさぼるようにユング系の本を読み倒した。思えば「遅めの通過儀礼」だったのかも。。この時に読んだ、河合隼雄さんの本はとても面白かった。河合さんは日本へ最初に「ユング心理学」を紹介した人で、日本の心理学草分けの人である。
ユングは「集合無意識(民族が共通して持つ無意識)は神話という形で現れる」と主張しているが、河合さんはこの考えをベースに、現代で語られる物語(1970~80年代頃)にも、それが顕著に現れている事を興味深く説いていた。(参照:「子どもの本を読む」「ファンタジーを読む」)※どちらも絶版なのが寂しい。
今回の「父親はどこに消えた」は題材を「映画」に求め、独自の解釈を展開している所がとてもユニークで、河合さんの本を読むような懐かしさを感じる。
どの本だったか忘れてしまったが、
日本は母性原理が強い国だ。と河合さんは説いている。私は直感で納得してしまったが、恐らく多くの方も同意見だろう。ユングが「原型」の一つと称している「グレードマザー(大母)」は、育み包むポジティブな面と、喰らい飲み込むネガティブな面、両方を併せ持つ原初的存在(ウロボロス)で、判り易く言えば「母なる大地」である。自分の母親を思い出せば「ああ、そのままだ!」とすぐ理解してしまった。
今でも、平日の昼間に新大久保や高級ホテルのランチタイムを覗いてみれば、そこはグレートマザー達で溢れている。
だが「ユング心理学の大御所」河合隼雄をしても「父性」については今ひとつ明快で無く、難解で、実感を伴って理解しにくかった。20年前の私は単純に「西洋文明圏は父性的なのかな?」と思うしかなく、まだまだ社会経験の浅い年齢だから「腑に落ちなかった」のだろう。
樺沢氏も、
「これまで父性について明確に語った本はごく限られている。」と証言している。(出版記念講演より)だから、今回の出版は果敢な挑戦と言える。
読み進めてつくづく感じたが「父性」とは非常に「はかなく」「もろく」「時代とともに遷ろう」もので、それでも人間が社会性を獲得してゆく上で欠く事の出来ない重要なファクターであると理解出来る。
壊れた腕輪(ゲド戦記:第二巻より)
ジブリアニメで06年に公開された「ゲド戦記」をご覧んになった人はいるだろうか?私は「ゲド戦記」を先の河合さんの本を通して初めて知った。(「こどもの本を読む」)
これまで読んだ中で5本の指に入る傑作・名作で、往年のファンが多い物語だ。
宮崎駿氏はこの作品の大ファンで、ジブリが映画化するのには大反対。息子の吾朗氏が初監督を務めて大変な物議をかもしたのは、アニメファンなら有名なエピソードだろう。
本書でも、映画「ゲド戦記」の制作裏話にかなり詳しく触れられ、樺沢氏の解釈に私も全く同意見である。(亡くなられる直前の河合隼雄氏が、吾郎監督と対談していたのも本当に意義深い。)
それとは別に、この本の存在そのものが「ゲド戦記に出て来る”壊れた腕輪”」であると少し感動している。なぜなら永らく「父性って何だろう?」と思っていた疑問に、一つの解釈をもたらしてくれたからだ。丁度、半分に壊れた腕輪の片一方がやっと見つかった感じ。(ゲド戦記「壊れた腕輪」のあらすじはブログの巻末に、、。)
改めて、人間の人格形成には「女性性」「男性性」二つどちらも必要なのだと実感したのである。それは、多くの心理学者が言うように、生物学的性別に基づく「女性」「男性」という狭義の意味では無く、男性女性どちらの中にもある「女性性」「男性性」をキチンと認識して統合させる過程の事を言っているのだ。
父性とは
結局、「父性とは何なのか?」という問いに対する詳しい解釈は、是非本書をお読み頂きたい。簡単にまとめると、、
・規範を示すものと樺沢氏は収斂されている。別の表現では
・ビジョンを示すもの
・切り離し分かつものとも書いてあって、なかなかいい言葉である。
・闇に光る灯台
規範が無く、目指すべき光が無ければ、航行する船はただ彷徨うばかりだ。現代(ここ30~40年間)の抱える問題を臨床の現場から見つめた人ならではの指摘だろう。
往年の名作から始まって「父性の喪失点」とも言えるエポックメークな映画、その後の変遷、日本と海外との違い等々、、、。引用している映画の数は実に100本以上。それこそ、現在公開中の「レ・ミゼラブル」「スカイフォール」は間に合わなかったが、超最新作を網羅した考察は、お世辞抜きに一読に値する。ランダムに列挙すると、、
- 「ガンダム」と「新世紀エヴァンゲリオン」の登場の意味は?
- 「オペラ座の怪人」における娘と父親の関係。
- ジブリアニメのここ数作の変遷が物語る意味
- 爆発的人気漫画ONE PIECEは何なのか
etc、etc。。
樺沢氏は、
「多くの人が、親との問題を抱えている。自分だけと思いがちだけれど、何らか抱えている人の方が殆どではないか。」(出版記念講演より)とも言う。こう聞くだけでホッとする人も多いだろう。巻末の「あとがき」で語られる、樺沢氏自身のエピソードも「理論という高みから冷たく言い放つ」のとは違う、人間味や親しみ易さが溢れている。
親と問題を抱えている人も、いない人も、子どもを持つ人も、持たない人も、誰かと関わって生きて行く上で、何かの参考になるのでないだろうか。
丁度、この本を読んでる最中に「インセプション」を観る機会があった。樺沢的視点で見るとこの難解な映画も味わい深く、次回のエントリーはこの「インセプション」の解釈にトライしてみたいと思う。
※ゲド戦記;第二巻「壊れた腕輪」あらすじ
「ゲド戦記」の舞台ある、架空の世界「アーキペラゴ(多島海)」のカルカド国でテナーという女の子が「名前を奪われ」「食らわれし者」としてアチュアンの地下墓所の大巫女として迎えられる。
地下墓所は灯りが全く無く、テナー(大巫女としての名前はアルハ)はその複雑な構造を、手探りで少しづつ覚えて「地下墓所の主」になる事を義務づけられる。
墓所という組織の中で、テナーは一番偉く幼少期から育ててくれたマナン(性別としては男性だけれどこの人は宦官)は何でも言うことを聞き、何くれと無くテナーの面倒をみてくれるが、墓所から出る事は全く許さない。言わば「優しい看守」という存在だ。
この墓所には「エレクアクベの腕輪」と言われる、且つて世界を統治するのに欠かせなかった腕輪の壊れた片方が大切に保管され、何としてでもこれを守らなくてはならない。
一方、成人し魔法使いとなったゲドは、ひょんな事から「エレスアクベ」の腕輪の片方を手に入れ、これを「全(まった)きもの」にする為に、アチュアンにあると言われる、もう片方を取りにこの墓所へやって来る。
第一巻「影との闘い」は主人公はゲドであり、大雑把に言えば、子どもが大人へと成長してゆく自我形成の過程を手に汗握る冒険潭で表現した話と言われている。(事実、一番面白くて人気が高い。)そして、続く第二巻はテナーの置かれた状況を中心に、後半は侵入して来たゲドとの関係が重要になる。河合隼雄氏は「第二巻:壊れた腕輪」は女性が自己を認識し、自我に目覚めてゆく過程をよく表している。」
と解説していたが、含蓄のある言葉だ。
墓所全体は「グレードマザー的」であり、それに向って「光(ロゴス)」を持って穴をこじ開けて侵入したゲドは「社会性」への踏み出しを意味している。アルハ(テナー)はその侵入に怒り、ゲドに瀕死の重症を負わせて、亡きものにしようとするが、一度「光」の存在を知ってしまったアルハの中で本来の「テナー」が葛藤を始める。
結局、行く手を阻むマナンを地割れの中に突き落として、テナーはゲドと腕輪を携えて外界へ飛び出すが、ここで二人がハッピーエンドで結ばれないところが、ゲド戦記の奥の深さなのだ。
樺沢氏も「父性の役割の一つに、社会への引っ張り出し。」を挙げている。暖かく保護された「巣」の中から独り立ちを促す行為は、時に命がけなのかも知れない。
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