2013年1月28日月曜日

魂をわしづかみ「永遠の0」百田直樹著

「俺は価値の無い作家や!本屋に並んでいる本の殆どがそうや!真に残るのは司馬遼太郎とか〇〇○(←忘れました:筆者注)とかや!後は屑や!」
印象的な手書きの帯び。これは確かに凄い。
百田氏のTwitter(@hyakutanaoki) をいつからフォローしたのか忘れてしまったが、とにかくびっくりするような下ネタ(とても引用出来ない内容、、、)を連発するかと思えば、こんな風に自虐的な事をつぶやいてドキッとさせる作家さんだ。作品を読むよりもその発言が印象的で「ただものではない」感いっぱい。いつか読もうと思いながら、処女作をやっと読む。

、、、、凄い作品だった。一気に読ませる力があると同時に、実は堅牢な構成に支えられた骨太の作品で、最初は表面的な演出の上手さに圧倒されてしまったが、後からジワリと来るものがある。今でも「どうしてかなぁ」と考えているし、間違いなく今年ナンバー1だろう。
 年末の映画公開が楽しみだ。ネタバレ無しに感想を書くのは難しいが、出来るだけギリギリ低空飛行でポイントを走り書きたいと思う。


この話のテーマは「戦争」では無い
百田氏は映画の公式サイトに短くこのように寄せている。
この映画のテーマは「戦争」ではありません。「人は何のために生きるのか」「誰の為に生きるのか」を現代の人々に問いかけた物語です。
この小説を読んだ事があれば、これだけ微に入り細にわたり太平洋戦争の事を書いていて「戦争の話じゃないの?」と言いたくなるだろう。でも、よくよく考えてみると確かに、作者が一番言いたい主題はこの言葉に込められている。

下手をすると日本がアメリカと戦争をしていた事を知らない若者が居ると聞く。そんな人が読んでも、基本的な「太平洋戦争」のアウトラインが理解出来、歴史学習という点でも一役貢献しているが、表層の話を追うのに夢中になると、作者が仕掛けた精緻な伏線に気が付かずに通り過ぎてしまう。見事と言える重層構造に、誰かと話をしたい衝動に駆られるが、今回は伏線のポイントをあげて映画が公開されたあたりに、またネタバレ込みで話をしよう。


ゼロファイター
この小説のあらすじは、零戦に乗って特攻で亡くなった自分達の祖父(宮部久蔵)の足跡を二人の成人した孫姉弟が追う形で進む。高齢になった元特攻隊員達に話を聞くうち、祖父が凄腕の零戦乗りで、しかも「臆病者」だと評価される事に行き当たる。

兵器や戦記に殆ど関心が無かった私は、零戦がいかに凄い戦闘機だったのか、この小説で初めて知った。(横道に逸れるけれど、昭和40〜60年代は反戦気運が強く、兵器の事を語るだけで「軍国主義者」とレッテルを貼られる空気があったように思う。)

言わば「空飛ぶオートバイ」のような、燃費の良さと機動性の高さは、当時の戦闘機では郡を抜いていたという。

私でも、開発秘話や、操るに必要な飛行テクニックの話は、思わず興奮してしまう。そして、つくづく「日本は現場擦り合わせ」の世界であると改めて認識した。(加藤陽子先生や池田信夫氏の言う通り、色々な意味で最強のお家芸だ。)

設計も、生産も、整備も、運用(パイロット)も、まるで申し合わせたように「阿吽の呼吸」で,精緻に組み上げて結果を出す。資源は乏しいけれど、小さな集団の中でずっと顔を突き合わせて何世紀も暮らして来た民族ならではの連携力は、他国から見れば「気味が悪い」と映る事もあったろう。

「誰が使うか想定出来ないから、出来るだけ使い方は簡単にしよう。」

と 発想出来る米軍に、戦争末期は物量で押されて全く歯が立たなかったのは周知の事だが、、、
  • 一度決めた事の見直しが苦手
  • 成功/失敗体験どちらにも引っぱられ過ぎる傾向
  • 精緻で我慢強く、優秀な現場が何とかしてしまう「現場ガンバリズム」
  • 「現場が何とかするだろう」と上が下に甘える構造
は見逃してはならない。現代のサラリーマンでこの事に涙しない人は居ないだろう。

全面的に石油を止められているのに(自国では一滴も出ないのに)アメリカと戦争を始めて何とかなると思ってしまうのは、局地戦は器用で得意だが、誰も「大局観」を見渡せない、否「見渡せる人がトップに着かない(疎まれて排斥されるので)」という、今聞いても笑えない構造が存在する。物語の中で語られる零戦の栄光と衰退は、古くて新しい話だ。


囲碁の達人
この物語で次に大事なモチーフと思うのは、この主人公(宮部久蔵)が囲碁の達人である事だ。私は囲碁に詳しく無いが、歴史の先生方は、日中戦争をこう喩える。
将棋と間違えて囲碁を打つ
あの戦争が泥沼化してしまった最大の原因を示す言葉で、大将の首を取れば、首都を落せば戦が終わると思い込んで、囲碁戦(陣地取りゲーム)を将棋と間違えてしてしまったのが日中戦争であると。。。物語でも囲碁好きの少佐に
「山本五十六大将も、将棋では無く囲碁の素養があればもっとこの戦争は違う局面になったのに。」
と、きわどい発言をさせている。次々と都市を落して快進撃のつもりで中国大陸深く前線を伸ばしてしまった日本陸軍は「駄目と分かったらいつでも陣地を落して後方へ引く」中国古来の戦法に気が付かず、どんどん補給線を伸ばして疲弊してしまった。

そもそも囲碁は中国で占いとして使われていた物が転じて「領土を奪う戦略」のシミュレーションとして発達したと言われている。毛沢東は共産党軍の将校達に、囲碁をさせたとか。。。

一度置いた石は動かす事が出来ず、相手の石に取り囲まれたらその石は取られて相手の陣地となる。石の置き方一つでその後の展開を何パターンも考えるのは、かなりの知性が必要で、将棋と基本的な思考パターンが違うという。
そして、囲碁の用語は実に多く生活に入り込んでいて、調べて驚いてしまった。
  • 一目置く(いちもく おく)
  • 駄目押し
  • 布石
  • 定石
  • 捨て石
  • 死活
  • 大局観
ビジネス書でこの言葉を使わずに文章を書くのは難しいだろう。本気で囲碁棋士を目指そうとしたという主人公のキャラクター設定に、作者の深い意図を感じるのだが、これ以上書くとネタバレになってしまうので、詳細は映画を観た後にでも。


戦後の生活クオリティを分けた士官候補生と下士官
最後に、これはなかなか気が付かないと思えるポイントを!
物語は生き残った老兵達が、インタビューに応えるオムニバス形式で構成される。彼らの口を通して、謎の人「宮部久蔵」の人物像があぶり出されるが、同時に太平洋戦争の全容も理解出来るようになっている。最初に読むと、そのストーリーを追うのに夢中で「誰が」語ったのかは、あまり注目出来ない。

ところが、物語のクライマックスの謎を考えると、ふと証言をした老兵達の事が気になった。もう一度拾い読みすると、作者は各老兵の戦後から今にかけての暮らしぶりを必ず描写している。注意深く読み返すと、そこに一本の区切り線がある事が判る。「士官」という等級だ。

主人公の宮部は「下士官」と言って、若い頃に海軍に入隊しているが、高等教育を受けていない為に「士官」に昇る術が無い。どんなに優秀でもそれ以上の昇進は無く、宮部の世代は「昭和恐慌」のあおりを受けて、高等教育を受けられなかった若者が、大量に軍へと流れた事を伺わせる。

一方、物語後半に登場する証言者は、みな「士官候補生」で学徒動員で大学の勉学途中で「軍隊に取られた」人達である。
今では大学生と聴いても何の価値も感じられないが、70年前は大変なエリートで、その知性は今の大学生は遠く及ばない。
「戦艦大和の最後」を読んだが、これが僅か二十歳前後の学生の文章だろうかと思う程、深い知性と思慮に裏付けられている。
「何の為に自分達は死ななければならないのか、その価値は何なのか。自分達の死をせめて価値あるものにしたいのだ。」
無謀な「海上特攻」を命じられた大和の乗組員の士官候補生は談話室で喧々諤々、時に取っ組み合いの喧嘩を繰り広げながら、自分達に降り掛かった命運を議論している。
「日本のブレーン」とも言うべき人材を、「保身」と「甘え」の固まりである軍上層部は、一度きりの使い捨てよろしく特攻をさせるという、、、書いていて情けない歴史の事実があるわけだが、主人公の宮部も、この事を同じく苦痛に感じている。

これ以上は、ネタバレになるので、今回はここまで!この4つのポイントが重要な伏線ではないかと思うのだ。続きは年末の映画公開の後に。。。 

2013年1月14日月曜日

だまし絵的映画?「インセプション」の遅めの鑑賞感想

2010年の作品
お正月休みにiTunesでレンタルした映画。ついこの前と思っていたのに、公開が2010年と知って愕然。。。ロードショー中の映画を観たい時に観られる幸せ、、いつになったら子どもの手がかからなくなる事やら。。

そんな事はさておき、観た人数人が「何が何だか全くわからなかった。」と言うのを聞いてずっと気になっていた。噂に違わず難解な映画である。
このブログで映画感想は初めてかも知れないけれど、凄く気になる内容だったので、感想と私なりの解釈を。。
【!注意!】
完全にネタバレです。バラさないと書きようがなくて。でも一度も観た事無い方には読んでも内容がチンプンカンプンかもしれません。一度観てる人ならば「なるほど」とおさらいに。。。この映画の解釈はいろいろ分かれているそうですが、これはあくまで私の解釈である事をお断りしておきます。


Dream in a Dream(夢の中の夢)
夢の中で「あ!夢だったんだ。」って目覚めたのに、実はまだそれも夢で、さらに目が覚める。。こんな経験をした人は多いだろう。明日の朝は遅れちゃいけない、と思って緊張しながら寝た時はそんな感じで、何度も夢の中で遅刻する夢を見て、目覚めていたような気がする。
バットマンシリーズ(ビギンズ/ダークナイト/ライジング)の監督クリストファー・ノーランが手掛けるこの「インセプション」はそんな風に夢(潜在意識)の中にまた夢があって、そのさらに下に夢があって、、と縦構造に夢が階層化されている。その夢を深く深く潜り込み、他人の潜在意識にアイデアを埋め込んで、あたかも自分が考えついた全くのオリジナルなアイデアだと思い込ませる「刷り込み屋」の話である。(主役のドミニコ・コブ役はレオナルド・デュカプリオ)
経済界の大物サイトー(渡辺謙)が競合相手の会社を潰す為に、もうすぐ跡取りとなるであろうその会社の御曹司ロバート(キリアン・マーフィ)の潜在意識に植え込み(インセプション)を行って欲しいと、コブに依頼をする。コブは「潜り込み」に必要なメンバーを集め、ロバートへのインセプションを敢行するのだが、、コブは愛妻モルとの間に問題を抱えており、夢に潜行すると度々モルが現れて、、、。というのがおおまかなあらすじである。


夢に潜行する時のルール
この映画の面白い所は、実際には「主観的なものである夢」を共有してしまう点。最初に観た時はそのルールがよく分からなくて、確認する為に都合3度も観てしまった!ネット検索すると、その構造とルールを分かり易く図解していた。(自分で描こうと思ったけど同じ事を考えている人が居たのね)
  • 共有したい仲間同士は「夢共有マシン(?)」をハブにしてケーブルを腕に巻いて眠りにつく。
  • この時誰か一人が「幹事役」になってその人が見る夢に残りのみんなが入る。
  • さらにその下の階層の夢に行く時は「幹事役」は自分の夢の中に残らなくてはならず、眠っているみんなの面倒を見る。(脱出して現実世界へ登って行く時にタイミングを合わせるんですね)
  • 夢は深くなるほど時間が20倍になるので、現実世界では1分が→その下の階層の夢では20分→さらに下では400分(6時間40分)とどんどん長くなる。
大雑把に言うとこんな所で、このくらいは予備知識が無くても初見で何となく把握出来るレベルだ。
上図はその仕組みを分かり易く図解している。でも問題はここから、、。この図で示されている「依頼を遂行」するストーリーの核部分に気を取られていると、エンディングに「あれ?」と思ってしまう。


樺沢解釈
先日のエントリーで樺沢紫苑さんの著作を紹介したが、この映画好きの先生はやっぱり予想した通り「インセプション」に関して独自の解釈を展開しておられた。詳細は樺沢氏発行のメルマガ「映画の精神医学」(まぐまぐ:登録無料)のバックナンバーに書かれているので、(2010年9月13日、28日号)機会があればお読み頂きたい。樺沢氏も「自分なりの考えだが」と前置きして、この映画の巧妙さをこう指摘している。(以下、ネタバレ。メルマガもかなり長いので要約してみました。)
実はこの映画は全編「夢の中」だとノーラン監督は仕掛けている。大半の人はそれに気がつかない。その根拠は、、
エンディングでコブは切望していた我が家へ帰還するが「これは現実か?」と確認する為にコマ(コブのトーテム)を回す。ずっと周り続けるとそれは夢で、バランスを崩して止まれば現実だが、止まるか止まらないかのギリギリで暗転する。このエンディングの解釈で議論が分かれているが、樺沢氏は「ノーラン監督なら曖昧に『解釈は観客に委ねる』という終わり方をしない。(緻密な演出をする監督なので)ノーランが想定するエンディングがあるだろう。」と予想する。
そして「トーテム(夢か現実かを判断するお守り)は他人に触らせてしまうと、夢を乗っ取られてしまうので触らせてはならない。 」とルール設定しているが、実は映画の一番最初でそのルールは「無効だ」と宣言する描写があると指摘している。(老人の特殊メイクをした渡辺謙が「このコマを知っている」とコブのトーテムを触っている)→だから「コマが倒れたら現実」とは言えない。
現実世界に見せている描写も、時間と場所のつなぎがいい加減で、全て主人公コブに都合良く「こうなって欲しい」と望む展開する。これはいかにも「夢の特性」をよく表現していて、ノーラン監督は意図的にそう演出している。(パリに居るはずの義父がなぜかロサンジェルスの到着ロビーで待っているとか、、)
最初のシーン「サイトー(渡辺謙)の日本風家屋」と最後にコブがサイトーを迎えに行くシーンは、そっくり同じで最初のシーンが「回想シーン」に見えるが、実は二つは違うもので(台詞が似ているけど決定的な所が違う)サイトーが見る夢の中でコブが望む「現実世界」へサイトーがコブを連れて行って「成仏」させているのだ。。
という内容。これを最初に読んだ時は「え!そうなの!」とかなりショックで、この解釈を念頭に入れながら、2度さらに観てしまった。
謙さん最初の登場シーンがなんとこの老け役。背中からのショットは凄く老人っぽくて感じが出ていた。


ペンローズの階段
映画でも出て来るペンローズの階段
不可能図と言われるペンローズの階段
 映画で、アーサー(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット)がアリアドネ(エレン・ペイジ)相手に、ペンローズの階段の説明をするシーンがある。有名な騙し絵だが、実際に作るのは不可能で、映画でも「パラドックスだ」と言いながら見る角度によって「種明かしが出来る」とでも言いたげなシーンがある。(つなぎ目無く続く階段も実は途中で途切れていて、見る角度で錯覚を起こしている。アーサーがホテルの無重力の中で格闘する時も同じ表現がある。)
樺沢解釈に「そうかぁ〜!」と興奮しつつも、何となく釈然としない。物語に緻密なルールを設定しているノーラン監督の事だから、「あ、そっか」とスパッと解釈で来そうな気がするのだが、樺沢説を支持するとなると、先に挙げた「夢の中に入って行く時のルール」との整合性に妙に悩んでしまう。(メルマガも二度読み返したけれどやっぱり分からず)この映画全体が夢で、それがサイトーが主幹元の夢だとすると、
  • 現実はどこにあるのか?
  • 実在した人物は誰?(サイトーとコブだけ?)
  • コブはサイトーの夢の中に入り込んで出られなくなった「すり替え人」?(サイトーが一番始めに「夢で出会った男」とコブの事を言っているから可能性は高い。)
  • じゃあコブって居る人なの???(そもそも生きているのかしら?)
因に、樺沢説では全体が夢であるなら、サイトーとコブ以外は全員コブが作り出した「陰」であるというような主張をしている。
まるで、映画全体がペンローズの階段のように思えるのだ。いかにもつなぎ目がスムーズに理論だっているようでいて、「あれ?おかしい?」と。。最初と最後のつなぎがおかしい事までは分かるけど、じゃあどっちがどうなのかと考えはじめると混乱する。ノーラン監督がほくそ笑んでいるようで、本当に「奇才」だと脱帽してしまう。(私の脳みそではもう限界)


二人の女性性
ワールドプレミアにて
出口の無い回答を堂々巡りしていても、仕方無いので、最後に、この映画に登場する二人の女性に注目したい。一人はコブの妻モル(マリオン・コティヤール:写真左))もう一人は、コブが夢の中の街の設計士としてスカウトするアリアドネ(エレン・ペイジ:写真右)。
この二人はどの面をとっても正反対で、コブにとって(或は男性全般にとって)二人は究極の女性性を表しているんだと感じた。


グレートマザー的モル
「モル」という名前からして変わっている。ちょっと調べてみたが、malは接頭語で「不全な、悪い」という意味になるらしい。この事も非常に意味深。。。
演じたマリオンは女性の私が見ても「ああいいなぁ。」と思う、大人の知性と色気を感じさせる女性だ。コブがベタ惚れしてしまうのがよくわかる。二人はどうやら建築科の学生だったらしく、成績優秀だったコブは、その恩師の愛娘モルと結婚したらしい。
コブはモルと共に潜在意識に潜って、自分達の思う通りの都市設計を延々と繰り返し、50年という歳月を二人っきりで過ごしてしまう。(現実では数時間のうたた寝程度なのだけれど)全能感に満ちあふれた世界から、モルは出るのを嫌がり、コブは「ずっとここで暮らす事は出来無い。」と畏怖の念を抱き始める。
このワンショットだけで相思相愛ぶりがよくわかる。
 モルの潜在意識に「これは夢だ」と埋め込んで(インセプション)無理に現実世界へ二人は戻って来るのだが、それを受け入れられないモルは、夫を陥れる策を巡らせて、コブの目の前で投身自殺をしてしまう。(死ねばまたあの世界に戻れると。。)
砂のお城が風と波で崩れてゆく、コブとモルの「リンボー(虚無)の世界
以来、罪悪感に苛まれ続けているコブは、妻を殺害した容疑で追われ、二人の子ども達とも会えないでいる。(この一連の話は現実にあった事なのかどうなのか、、それを考え出すと頭が痛くなるので、とりあえず置いておく)
この一連の描写がいかにもだなぁと思うのである。
女性が見ても「お!」と思うこの色気。
潜在意識下(闇や夢)は多くの神話が女性性と結びつけている。潜った先を出たがらなかったのは、コブでは無くモルだった事は非常に暗示的で、思わず「ギリシャ神話のエウデュケ」や「古事記のイザナミ」を思い出す。(どちらも妻が黄泉の国へ行ってしまい夫が連れ戻そうとするが失敗する。)
モルは全編を通し、魅惑的でありながら、ちょっと怖くて困った存在としてコブをずっと悩ませる。
「約束したでしょ?なすべきことをして。」
昔の言質をたてに、行動を促す魅力的な妻。男性は女性のこんな面がきっと恐ろしいに違いない。逃げ出したい衝動と、でも逃げられない魅力。。ディカプリオは、一人の女性を一途に愛しながら内面の葛藤を抱える役をやらせたら天下一品だと思う。(まあ、俳優として基本スキルなんでしょうが。。)しかし、容姿がそれに見合っていないと「単なる鬼婆」よねと思って自戒に務めるわけである。


知性の光を持つ守護天使アリアドネ
「僕みたいに優秀な学生は?」とスカウトしたアリアドネ
「アリアドネ」と言えば、言わずと知れた「アリアドネの糸」の女神を模しているとしか思え無い。テーセウスがミノタウロスの迷宮から出られるように糸巻を渡した女神の名前だ。(ギリシャ神話)この映画でも、モルと対照的で少女のような透明な容姿と、最後の階層までコブに付き合って同道する女性であり、コブが義父に頼んで
「自分と同じくらいに優秀な学生を紹介して欲しい。」
と言って現れたのが、アリアドネだ。彼女は教授が推薦するだけあって、建造物をイマジネーションする力に優れ、トレーニング中もコブにその実力を認めさせる。樺沢氏は
「アリアドネは、コブにとって最も都合のいい女性で、彼が『こんな人物なら自分を救い出してくれるに違いない』と投影した陰だ。」(メルマガより)
と 解説する。非常に鋭い分析で、映画でも彼女の個性はガラスの様に透明で、コブが心で思っていても出せない事を、顕在化する役割を担っている。重要な役割を担っているのに、モルと対照的で人間臭さがまるで感じられないのは、役割だけが結晶化したようなキャラクターだからだろう。
一度だけモルが「あんたは誰?」とアリアドネに対峙するシーンがあるが、基本的にモルはアリアドネが眼中に無く、アリアドネもそれがさして悔しいという訳でない。それは、互いが、コブを中心として存在しているからだろう事を考えると、納得出来てなかなか憎い演出である。

ゆっくり映画を観る時間がこの所少しづつ取れるようになったので、本と合わせて意識的に観るようにしなきゃなとつくづく思う。少なくとも、今話題のノーラン監督のバットマンシリーズ三部作は遅まきながらも観なきゃ。

2013年1月12日土曜日

「父親はどこへ消えたか」樺沢紫苑著

ハリウッドから日本アニメまで
久しぶりに「続きが読みたい、、でも読み終わるのが寂しい!」本に出会った。去年は「中国化する日本」がヒットだったけれど、今年は早くもこの本がベスト3にランク・イン?!映画がとにかく観たくなる本だ。
「現代は父性喪失の時代で、みんなそれを探そうとしている。」
ごく端的に言ってしまえば、著者の樺沢氏はそう主張している。「父性」というキーワードにピンと来たので、是非読みたいと初版を速攻で注文した。


河合隼雄と父性
20年以上前。妙に心理学の本にかぶれた時期がある。むさぼるようにユング系の本を読み倒した。思えば「遅めの通過儀礼」だったのかも。。この時に読んだ、河合隼雄さんの本はとても面白かった。河合さんは日本へ最初に「ユング心理学」を紹介した人で、日本の心理学草分けの人である。
ユングは「集合無意識(民族が共通して持つ無意識)は神話という形で現れる」と主張しているが、河合さんはこの考えをベースに、現代で語られる物語(1970~80年代頃)にも、それが顕著に現れている事を興味深く説いていた。(参照:「子どもの本を読む」「ファンタジーを読む」※どちらも絶版なのが寂しい。

今回の「父親はどこに消えた」は題材を「映画」に求め、独自の解釈を展開している所がとてもユニークで、河合さんの本を読むような懐かしさを感じる。

どの本だったか忘れてしまったが、
日本は母性原理が強い国だ。
と河合さんは説いている。私は直感で納得してしまったが、恐らく多くの方も同意見だろう。ユングが「原型」の一つと称している「グレードマザー(大母)」は、育み包むポジティブな面と、喰らい飲み込むネガティブな面、両方を併せ持つ原初的存在(ウロボロス)で、判り易く言えば「母なる大地」である。自分の母親を思い出せば「ああ、そのままだ!」とすぐ理解してしまった。
今でも、平日の昼間に新大久保や高級ホテルのランチタイムを覗いてみれば、そこはグレートマザー達で溢れている。

だが「ユング心理学の大御所」河合隼雄をしても「父性」については今ひとつ明快で無く、難解で、実感を伴って理解しにくかった。20年前の私は単純に「西洋文明圏は父性的なのかな?」と思うしかなく、まだまだ社会経験の浅い年齢だから「腑に落ちなかった」のだろう。
樺沢氏も、
「これまで父性について明確に語った本はごく限られている。」と証言している。(出版記念講演より)
だから、今回の出版は果敢な挑戦と言える。
読み進めてつくづく感じたが「父性」とは非常に「はかなく」「もろく」「時代とともに遷ろう」もので、それでも人間が社会性を獲得してゆく上で欠く事の出来ない重要なファクターであると理解出来る。


壊れた腕輪(ゲド戦記:第二巻より)

ジブリアニメで06年に公開された「ゲド戦記」をご覧んになった人はいるだろうか?私は「ゲド戦記」を先の河合さんの本を通して初めて知った。(「こどもの本を読む」)
これまで読んだ中で5本の指に入る傑作・名作で、往年のファンが多い物語だ。
宮崎駿氏はこの作品の大ファンで、ジブリが映画化するのには大反対。息子の吾朗氏が初監督を務めて大変な物議をかもしたのは、アニメファンなら有名なエピソードだろう。
本書でも、映画「ゲド戦記」の制作裏話にかなり詳しく触れられ、樺沢氏の解釈に私も全く同意見である。(亡くなられる直前の河合隼雄氏が、吾郎監督と対談していたのも本当に意義深い。)
それとは別に、この本の存在そのものが「ゲド戦記に出て来る”壊れた腕輪”」であると少し感動している。なぜなら永らく「父性って何だろう?」と思っていた疑問に、一つの解釈をもたらしてくれたからだ。丁度、半分に壊れた腕輪の片一方がやっと見つかった感じ。(ゲド戦記「壊れた腕輪」のあらすじはブログの巻末に、、。)
改めて、人間の人格形成には「女性性」「男性性」二つどちらも必要なのだと実感したのである。それは、多くの心理学者が言うように、生物学的性別に基づく「女性」「男性」という狭義の意味では無く、男性女性どちらの中にもある「女性性」「男性性」をキチンと認識して統合させる過程の事を言っているのだ。


父性とは
結局、「父性とは何なのか?」という問いに対する詳しい解釈は、是非本書をお読み頂きたい。簡単にまとめると、、
・規範を示すもの
・ビジョンを示すもの
と樺沢氏は収斂されている。別の表現では
・切り離し分かつもの
・闇に光る灯台
とも書いてあって、なかなかいい言葉である。

規範が無く、目指すべき光が無ければ、航行する船はただ彷徨うばかりだ。現代(ここ30~40年間)の抱える問題を臨床の現場から見つめた人ならではの指摘だろう。

往年の名作から始まって「父性の喪失点」とも言えるエポックメークな映画、その後の変遷、日本と海外との違い等々、、、。引用している映画の数は実に100本以上。それこそ、現在公開中の「レ・ミゼラブル」「スカイフォール」は間に合わなかったが、超最新作を網羅した考察は、お世辞抜きに一読に値する。ランダムに列挙すると、、

  • 「ガンダム」と「新世紀エヴァンゲリオン」の登場の意味は?
  • 「オペラ座の怪人」における娘と父親の関係。
  • ジブリアニメのここ数作の変遷が物語る意味
  • 爆発的人気漫画ONE PIECEは何なのか

etc、etc。。

樺沢氏は、
「多くの人が、親との問題を抱えている。自分だけと思いがちだけれど、何らか抱えている人の方が殆どではないか。」(出版記念講演より)
とも言う。こう聞くだけでホッとする人も多いだろう。巻末の「あとがき」で語られる、樺沢氏自身のエピソードも「理論という高みから冷たく言い放つ」のとは違う、人間味や親しみ易さが溢れている。

親と問題を抱えている人も、いない人も、子どもを持つ人も、持たない人も、誰かと関わって生きて行く上で、何かの参考になるのでないだろうか。

丁度、この本を読んでる最中に「インセプション」を観る機会があった。樺沢的視点で見るとこの難解な映画も味わい深く、次回のエントリーはこの「インセプション」の解釈にトライしてみたいと思う。

※ゲド戦記;第二巻「壊れた腕輪」あらすじ
「ゲド戦記」の舞台ある、架空の世界「アーキペラゴ(多島海)」のカルカド国でテナーという女の子が「名前を奪われ」「食らわれし者」としてアチュアンの地下墓所の大巫女として迎えられる。
地下墓所は灯りが全く無く、テナー(大巫女としての名前はアルハ)はその複雑な構造を、手探りで少しづつ覚えて「地下墓所の主」になる事を義務づけられる。
墓所という組織の中で、テナーは一番偉く幼少期から育ててくれたマナン(性別としては男性だけれどこの人は宦官)は何でも言うことを聞き、何くれと無くテナーの面倒をみてくれるが、墓所から出る事は全く許さない。言わば「優しい看守」という存在だ。
この墓所には「エレクアクベの腕輪」と言われる、且つて世界を統治するのに欠かせなかった腕輪の壊れた片方が大切に保管され、何としてでもこれを守らなくてはならない。
一方、成人し魔法使いとなったゲドは、ひょんな事から「エレスアクベ」の腕輪の片方を手に入れ、これを「全(まった)きもの」にする為に、アチュアンにあると言われる、もう片方を取りにこの墓所へやって来る。

第一巻「影との闘い」は主人公はゲドであり、大雑把に言えば、子どもが大人へと成長してゆく自我形成の過程を手に汗握る冒険潭で表現した話と言われている。(事実、一番面白くて人気が高い。)そして、続く第二巻はテナーの置かれた状況を中心に、後半は侵入して来たゲドとの関係が重要になる。河合隼雄氏は「第二巻:壊れた腕輪」は女性が自己を認識し、自我に目覚めてゆく過程をよく表している。」
と解説していたが、含蓄のある言葉だ。
墓所全体は「グレードマザー的」であり、それに向って「光(ロゴス)」を持って穴をこじ開けて侵入したゲドは「社会性」への踏み出しを意味している。アルハ(テナー)はその侵入に怒り、ゲドに瀕死の重症を負わせて、亡きものにしようとするが、一度「光」の存在を知ってしまったアルハの中で本来の「テナー」が葛藤を始める。
結局、行く手を阻むマナンを地割れの中に突き落として、テナーはゲドと腕輪を携えて外界へ飛び出すが、ここで二人がハッピーエンドで結ばれないところが、ゲド戦記の奥の深さなのだ。
樺沢氏も「父性の役割の一つに、社会への引っ張り出し。」を挙げている。暖かく保護された「巣」の中から独り立ちを促す行為は、時に命がけなのかも知れない。

2013年1月6日日曜日

司馬遼太郎対話選集 全10巻読了

ずっと読み続けていた、司馬さんの対談集をお正月休みに読み終わった。今年最初のエントリーは、この全10巻の感想を簡単に。。
(一時期毎週更新していたけれど、やっぱりアウトプット疲れで、秋から冬はお休みしてました。ボチボチ続けたいと思います。)

読み始めようかどうしようか、悩んでいたのは2011年の中頃ではなかったか。。関川夏央氏の「司馬遼太郎のかたち」 を読んで、関川氏の巧みな原稿編集に「この人いい仕事するな。」と思っていたが、この「対話選集」も関川氏監修と知って、読みたい気持ちがムクムクと湧いた覚えがある。
途中、読書塾を3サイクル受講したりで、読み進めるペースが遅くなったが、ポツポツと買い集めて最初から最後まで何とか一年かけて読み切った。

最近よく見る、さらりと読み易いビジネス本に比べたら、一冊一冊、(その中に書かれている一つ一つの対談)が噛みごたえがあって、私レベルではまだまだ消化不良で、大きな「謎」が塊としてゴロゴロ頭の中に残った状態だ。高い教養や人間性を持った人同士の対談は、たった一言に「鮮やかな見識」が込められている。他の本を読んで「ああ、あの時言ってた事はこれか!」と気がつく事が多い。
司馬さんの小説やエッセイは読み易くて面白いが、それを支える土台となった「恐るべき知識量と洞察力」を伺い知るには、講演録や対談録を読むとよく判る。(これだけどんなジャンルの相手が来ても読ませる内容の対談が出来るのはそう無いと思う。)

対談相手は蒼々たるメンバーで、司馬さんをはじめ殆どの方が鬼籍に入っている。1970年頃から最晩年の1996年まで、日本の高度経済成長が終わりバブル経済や東西冷戦終結等、いま振り返っても、今日に至る分岐点の時代に語られていた内容だと思うと、どれもが意義深い。

各巻はタイトルが物語るように、テーマを持ってまとめられており、必ずしも時代順では無い。様々な出版社に存在する対談原稿と、その当時の担当者へのインタビューが行われ、その頃の時代背景が各章ごとに丁寧に整理されている。
又、巻末の「あとがき」は作家「関川夏央」が解釈する、対談相手とその時代や興味深いエピソードで、このあとがきだけでも、もう一度読み通す価値がある。

特に、湯川秀樹と「日本人はどこから来てどんな人種で構成されているのか?」と言った対談や、山本七平との「見えざる相剋」、岡本太郎と意外にも意気投合している事や、ダンディーな梅棹忠夫、桑原武夫と言った京都学派とはとても親しかった事を知ると、「一度でいいから、生で対談を聴きたかった。」とつくづく思う。

「座談の名手」「人たらし」と言われた司馬さんは、本当に話好きで、作家としてデビューしようかという頃、知人に自分の文章を読んでもらったら
「面白いけど、普段お前が話す方がもっと面白い。」
と言われて軽くショックを受けたそうだ(関川氏あとがきより)。そこで、出来るだけ自分がふだん話をする調子で、文章を書こうと試みたとか。。

インターネットが普通となり、スマフォという小さなコンピュータを子どもまでもが持ち歩く現代を司馬さんが見たら何と言うだろう。

「これが文明というものです。たれもが簡単なルールを覚えればそれに参加出来る。それが文明なのです。」(司馬遼太郎)

ああ、今でもこの定義はピタリ当てはまる。やっぱり司馬さんって凄い。