ソバと穴(街道をゆく「赤坂散歩」より)
以前、このブログに「高橋是清」の事を書く為に「赤坂散歩」の一部が読みたくて抜き読みしてたのを、今回キチンと通読。
東京赤坂を「溜池」を中心に周囲の坂を登るように描写する本編は洒脱で面白い。特にエッセイ後半の「ソバと穴」は微笑んでしまった。
穴掘りは人にカタルシスをおこさせ、ソバは人を狂わせるものらしい。落語にもいくつかソバを仲立ちにした物狂いの滑稽談があるが、ソバは病みつきの通をつくるだけでなく、研究者までつくる。物狂いとか数寄(すき)こそ文化というものなのである。ウドンにはざんねんながら、そんな鬼気がない。司馬さんは「日本は土工の国だ」という。戦時中戦車隊に居た司馬さんは、脆弱な自分達の戦車を米国のM24戦車に対抗する為に、作戦本部が考えた「穴掘り」作戦を例にとりながら「穴掘りは成就すると哄笑したくなる程にいい気分なのだ。」という。
私どもが掘ったふしぎな穴は、みずから戦車くるみそこにもぐりこんで、土をもって装甲の薄さを補うというものだった。
いったいそんなものが役にたつのかどうかは知らないし、そんなことをやった国はない。
あらかじめ予定戦場と思われる原っぱに、自分たちの戦車がもぐりこむ穴を掘っておくのである。その穴に各車ごと進入し、砲塔だけ地上に露出させて敵戦車を射つ。そのあとギアをバックに入れて猛烈な勢いで後進して穴から出、つぎの穴にむかって躍進する。
机上の空論もいいとこだが、これ以外、米国のM24に対抗する方法がなかったのだろう。(中略)
そういう穴を、栃木県の不毛の台地にいくつも掘った。大体、その台地に敵が来てくれるかどうかもわからないというあいまいな根拠に立った案だから、そのうち沙汰やみになった。私の小隊だけでも五つか六つ掘ったような記憶がある。
ともかくも、掘り上げてあげてみると、哄笑したくなるようにいい気持ちなのである。輪郭のくっきりとした成就感で、働いたぞという感じでもあり、小説が一編出来上がったときの感じなど、とてもおよばない。
おそらく私どもの祖先の弥生人などは、穴ばかり掘っていたはずである(中略)水田農業は軽度の土木をともなう。かれら弥生人は、溝を掘って排水溝を作ったり、灌漑用の池をおおぜいで掘ったりした。いざ掘り上げたときは、村じゅう池のふちに集まって大笑いしたにちがいなく、そんな感覚が、私どもに遺伝しているのかもしれない。
穴を掘る事をこんな風に考えた事は無かったし、実際苦労して大きな穴を掘った事も無いから、この文章を読んで新鮮な驚きを感じた。司馬さんの文章にはいつもどこかに身体感覚を通した「リアリティ」がある。
穴を掘るから始まって、話は「カッポレ」へと移る。江戸弁の「母音を短く、子音を強く発する」特徴を「掻(か)っ」という言葉を頭に付ける事を例を挙げている、、
- 耳を掻っぽじって聞きやがれ
- 飯を掻っ食らう
- スリが財布を掻っさらう
- 掻っ飛ばせ〜!(今や標準の日本語で大阪の球団もはやし詞に使ってる)
この「掻っ」を頭につけて「掘れ」としたのが「カッポレ」で、大勢が勢いをつけてテンポ良く、渫え(さらえ)仕事をする時に「さあ掘れ、さあ掘れ」では「なまぬるく」「カッポレ」と勢いをつける必要があったという。(でないと、風邪をひいてしまう)
カッポレ、カッポレ、甘茶でカッポレ芸能化されたお座敷踊りの起源が「穴を掘る」という原始の喜びに起因しているという考察は、凄く司馬さんらしい。
そして、一番最初に引用した「蕎(ソバ)」との関係である。
数寄(道楽)は上方文化の「茶道具」を媒介にして始まったという。「道楽者」は身代を潰すとして卑しまれ、警戒されたそうだが、この気分が「大名屋敷」が集中する江戸へと移ったのだと言う。
数寄の気分は、大名のあつまる江戸へ行ったのであろう。ただし茶や茶道具に凝るのではなく、ソバ狂いをつくった。むろん、身代はつぶさない。大阪育ちで生涯、活躍の場を大阪に据えた司馬さんにとって、東京(江戸)はどこか憧れの感があり、江戸っ子の持つ「サラサラ」とした気っ風の良さを、ソバとカッポレに見てとったのだろう。(最も、最近は「讃岐うどん」ブームでウドン狂いも多いけど、それでもどこか「ソバ狂い」と似た傾向を感じる。)
街道をゆくのシリーズでも、関東を取材した篇にはそんなエールを感じる物が多い。
今度、赤坂や溜池に行く機会があったら、江戸の人々の生活水だった貯水池を思いながら歩いてみよう。
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