笑顔が凄く素敵な写真があったのでそこから作画。 |
私は本当に経済音痴で、基本的な事は理解出来ても「円の切り上げ」とか「切り下げ」とか「円安/円高」と言われても咄嗟にどっちがどうと峻別出来ない。小さい子が「右」と「左」がすぐに覚えられないのと同じで、ゆっくり考えると判るのだが、永遠に自信の無いジャンルである。
だから、経済に強いというのは、それだけで偉いと思ってしまうし、ここが見えている人は「リアリスト」だと思う。先日の読書塾でも、池田信夫氏は
「高橋是清はリアリストだった。」と断言されていた。今回のエントリーは、分からない人間が身の丈で、高橋是清と近代の財政史を噛み砕いてみようと思う。
地生えの財政家
お題本である「大恐慌を駆け抜けた男 高橋是清」はやや看板に偽りありで、内容は殆ど「近代経済史」である。(高橋是清の記述は全体の三分の一)
財務省の現役官僚が書いたものなので、よく調べてあって非常に勉強になるが、惜しい事に構成が時系列に組んでおらず、内容が行ったり来たりで、全体の流れを掴みにくい。専門雑誌への連載記事をまとめたので、こうなってしまったのだろう。高橋是清の来歴は全く書かれていないので、少し調べる事にした。
幕末の嘉永7年(1854)幕府の御用絵師、川村庄衛門と女中キンとの間に庶子として生まれたのが是清である。「そんな時代だった。」と言えばそれまでであるが、キンが身重になったのを知った庄衛門の妻はキンを気の毒に思い、キンの叔母の家へ彼女を預け、時々見舞ったりして、手厚く面倒を見たと言う。(偉いなぁ)
無事、是清が誕生した後に、金二百両と衣服を贈って手切れにした。その後、赤ん坊のうちに仙台藩下級藩士「高橋家」に里子に出され、そこで実子として可愛がられて育つ。
十四歳で藩からアメリカ留学を命ぜられたのだから、かなり優秀だったのだろう。渡航費用を横領されたり、行った先のアメリカのホストファミリーに奴隷として売り飛ばされたり、普通に聞いたら、波瀾万丈で苦労の連続と思えるのに、その苦境を上手にバネとする、しなやかな楽天家の資質が垣間見える。
帰国後、大学へ入学したつもりが「教官三等手伝い」という職員扱いで、わずか16歳で給料取りになった。以後、是清には学歴というものが無く、全て独学で学んでいる。後年、蔵相として望んだ予算閣議で、世界地図を持ち込みながら、対ソ戦を標榜する陸軍に向って
「国防は攻め込まれないように守るだけで十分なのだ、そもそも幼い時から特殊な教育を叩き込まれた(陸軍幼年学校の事を指す)軍人は常識が無い。その常識が無い人間が嫡流として幹部となって、政治にまで嘴を入れるというのは言語道断、国家の災いだ。」と公然と面罵するのだが、それもこれも、土煙と汗と血をかいくぐりながら、日本と世界を見続けて来た明治人の「揺るぎ無い経験に基づいた自信」と言えるだろう。
この歯に衣着せぬ物言いは、庶民に人気が高かったが、陸軍の恨みは買った。二・二六事件で襲撃目標にされた要因の一つとも考えられる。
地租改正を遠因とする地方の疲弊
本書は、明治維新からの経済史を紐解いていて、いくつかキーワードが浮かんで来る。その一つに「地租改正」がある。
そもそも、江戸期は「農本経済」で米を主流として、各藩がそれぞれの才覚で経済を回していた。念のため記しておくと、徳川幕府は「各藩の代表」で一番大きな藩というだけ。国家を運営しているというものでは無い。だから国家予算などは無かったし、後を継いだ明治政府は大急ぎで「国家予算」的なものを掻き集める必要があった。(それまでは維新に参加した各藩からの支弁)
廃藩置県でまず土地を国家が吸い上げ、各藩が抱えていた士族というサラリーマンを、一気に一時金を渡してリストラしてしまう(秩禄処分)。極めつけは、農作物(米)に頼っていては安定した税収が望めないので、耕作地を改めて検地し、収穫高に応じて一律3%の金額を「現金」で納めるよう定めた「地租改正」を断行する。
この時、そもそも現金を持つような暮らしをして居なかった自作農は、耕作地の権利(地券)を地主に渡して小作人になり、地主に物納(米)する事で代わりに税金を払ってもらう事例が多く発生した。納税の義務は土地に権利を持つものが担ったが、米は毎年価格が変動するので、物納を受けている地主には「実質減税」になってその利益が直接舞い込んで来る。
一方小作人は、殆どその恩恵に預かれず、地主と小作人の貧富の格差は広がるばかりだった。ここに働かずして暴利を得る「不在地主」が登場する。
著者の松元氏は、夏目漱石の小説に登場する「高等遊民」はこの「不在地主」だったろうと推測している。前回、夏目漱石のレポートをした時の疑問「(小説『こころ』に登場する)先生は、働いている風が無いのに、一体どうやって生計を立てていたのか。」の謎がやっと解けた。この不在地主達は、やがて都市生活を楽しんだり、豊富な財力をバックに事業を起こしたりする。
この「地主」は戦後GHQが農地改革をするまで続き、不利な立場に追い込まれた「小作人」達は、大正期には「都市部の工業化の労働力」として駆り出され、日露戦争や第一次大戦後に増大した行政需要(一番増えたのが教育費)の財源のしわ寄せをもろに受けた。
国は「やりなさい」と地方に言っておきながら、その財源を手当する余裕が無く(軍事費も増えていたので)各地方は地方税として住民から徴収するよりほか無い。
この当時、地方財政の自主財源比率は高く、実に四割五分が町村税として住民から徴収していた。その事を踏まえて、是清は
「(中略)その負担は町村自ら町村会議員達が、自分達の出すべき税を求めておいて、さうして重くて困る困るという。(中略)困るからどうにかしてくれ、金をくれと言って泣きついて来るのは、元来無理は話なんじゃ。」という持論だった。でも、地方に言わせれば
「国がやれと言った事では無いか。」
となり、この事だけ見て「高橋是清は農民の敵」とまで言われてしまう。
一方、国にしてみれば、先の「不在地主」達が実質減税になっている事からも、
「国は税を取っていないんだから、地方にはその力があるよね。」
と言う理屈になる。著者の松元氏はさすが、主計局の人でこの双方対立している状況をこのように説く。
その事情はミクロ・レベルで個々の自作農や地主の担税力を高めるものではあっても、マクロ・レベルで見た場合の農村の担税力を高めるものではなかった。第一次大戦を契機として我が国が、製造業を中心に約三倍もの経済成長を実現したことは、実は農村部の相対的な経済力が三分の一への縮小したことを意味していた。都市部の担税力が大きく伸びるなかで農村部のマクロ・レベルでの担税力は縮小していたのである。(p211)二・二六事件を起こした青年将校達は、農村の疲弊は国が何も手を打たないからだと思っていた。少し視線を引くと、もっと違う関係があるのだが、ここまで深く理解させるのは難しい。
金本位制と昭和恐慌
さて、本書の最も重要と思えるもう一つのキーワードが「金本位制」である。現在の変動相場制の常識から考えると、なかなか理解しずらいが、大雑把な言い方をすれば
その国の保有している金の量に応じてお金を発行する。金は地球上に限りある物だから世界共通通貨として使える。(、、、と思う)という考え方で、近代西洋諸国では「金本位制」が主流だった。
日本では、江戸期に「江戸の金使い、大阪の銀使い」として金銀両方混在した流通となっており、幕末開国時にはこれが逆手に取られて、大量に金が国外に流出してしまう。
その後、松方蔵相によって明治30年「金本位制」に参加するが、この時は円滑に行われた。(国内では反対もあったがそれを押し切って断行)
この背景には、当時横浜正金銀行本店支配人だった高橋是清が「建白書」として新平価(通貨比率)で導入する事を薦め、それが採用された事情がある。(一円=1500mgと定められていた所を、一円=750mgに変更して実行)このお陰で、金の流出という不測の事態は避けられた。この事からも分かるように、高橋是清は金本位制には推進の立場を取っている。(地味だが、実に愉快な時期だったという意の述懐を自伝に残している。)
時代は下って、昭和初期の第一次大戦後、それまで各国が「金本位制」から一時離脱していたのが、順次解禁となり解禁していないのは日本のみとなった。内外から「金解禁は当然」と受け止める向きもあり、当時の浜口雄幸首相(ライオン宰相と愛称される)は
一時的には苦しくなるが、金解禁は経済正常化には必要な事であり、その後長い苦節を耐えた後に、日本の経済構造が改革される。と強く考え、金解禁を断行してしまう。今日これは最悪の経済施策とされている。
第一次大戦中は特需に湧いて、日本国内はバブル景気だった。これが大戦終戦と共に弾け、深刻な不況に見舞われていた最中だったからだ。
金解禁に伴って正貨流出を防ぐ為に、緊縮財政が取られ国内はますますデフレ不況へと陥ってしまう。
濱口首相が凶弾に倒れ、続く若槻内閣も瓦解した後、後継の田中義一首相は、当時引退していた高橋是清を三顧の礼で蔵相に迎える。
若槻内閣が瓦解した理由は、当時の片山蔵相が、予算委員会で
「東京渡辺銀行が支払い停止になってしまった。」
と失言した事に端を発した「昭和金融恐慌」の始まりが原因だった。(実際はまだ支払い停止になっておらず、次官が渡したメモの情報が錯綜していたらしい。)
ショートリリーフとして蔵相に着いた是清の危機対応は、まさに「電光石火」だった。
就任直後に全銀行を二日間の自主休業にし、緊急勅令で三週間のモラトリアム(支払猶予令)を敷いた、その間に片面だけ刷った札束を用意し、自主休業明けの二日後には、各銀行の窓口にそれを積んで、預金者を安心させ、危機を乗り切ったという。
読書会で、池田信夫氏は
「とにかく、一番怖いのは取り付け騒ぎがあって銀行が潰れる事である。これが一番まずい。」と言う。 その点から考えても、老いたりとは言え、高橋是清は最もクリティカルな所がよく分かっているのだと実感する。
その後、再び犬飼政権で蔵相に請われた際に、金解禁を停止して「金とのリンクを切り」ったり、次の斎藤内閣の時の「時局匡救事業(じきょくきょうきゅうじぎょう)」と呼ばれる、今で言う「地方景気対策の為の公共事業」も期限付きで導入(3年で打ち切り)するなど、必要とあらば、臨機応変に施策を断行するが、基本的には
財政は健全であらねばならぬ。地方は自活出来るよう努力しなければならないし、野方図に借金を重ねて軍備を拡張するのは言語道断である。という考えの人だとよく判る。世界最速でデフレから脱却させた人物(リフレ政策の人)と言われがちだが、実情は池田氏も言うように、決して望ましいと思って行っている訳でない。
その行為(国債は日銀が引き受ければいいんだとか)だけ見て、拙速に事を考えると、この当時の教訓を見誤ってしまう。
最後の明治人
八十を過ぎて政界に身をさらす是清に、人は
「もうそのお歳なのだから、断られたらどうか。」
とすすめたらしい。彼は
「自分は死ぬつもりだ。」
と言ったそうだから、まさに身体を張って最後まで、財政の健全性を守ろうとした人物である。
老人に向って銃弾七発を浴びせ、即死した所にさらに斬り付けた反乱将校達は、自分達のした事の本当の意味を理解したのだろうか。
知ろうとしない、理解しようとしない事は時に恐ろしい結果を招くと、この読書会を通じて学んでいる。
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