2012年5月26日土曜日

アゴラ読書塾Part2第7回「東條英機と天皇の時代」保阪正康著 〜凡庸な独裁者?〜

読めば読む程、東條英機は誰の中にも居ると思う。
近代史の研究や著作と言えば、保阪氏の名前は必ず出て来る。これまで、半藤氏は読んだ事があるが、保阪氏は初めてなので良い機会だった。
単行本の上下巻を一冊にまとめた文庫版なのでとても分厚いが、前々回の「地ひらく」(福田和也著)と同時代を、東條を中心に描いているので、昭和初期の重層で複雑な状況がよく判る。(今回の読書塾はボリュームの多い物が続くので、咀嚼力が鍛えられる!)
レポーターの阿部氏はいみじくも、東條の『作られた時代』『利用された時代』『捨てられた時代』」と表現した。
彼はまさに時代に翻弄されてしまった人物で、この浩瀚(こうかん)な書物はそれを浮かび上がらせている。


偉大な父を持つ息子
本書は、東條家の成り立ちから始まる。盛岡藩に請われて東北へ能楽師として赴いた東條英機の曾祖父の代から同家の苦悩は始まる。支援者である当主の失脚や、維新の煽りを受けて没落した家から、英機の父である英教(ひでのり)は活路を見いだそうと、18歳で単身東京へ出て来る。(明治6年)
当時出来たばかりの「陸軍教導団歩兵科」に入って、一軍曹から軍歴を積み上げた叩き上げの人である。
明治と言えば「薩長閥」の時代。賊軍側とされた東北藩出身者は栄達の道は厳しく、英教が学んだ教導団は「士官学校」や「兵学校・兵学寮」よりも低く見られていた。
後に創設される「陸大(高級指揮官養成目的の大学)」の第一期生に教導団出身者からたった1人選ばれ(陸大一期生は総勢14名)卒業時には「成績一番」、軍人としての能力が最優秀であると証明する「参謀職務適任証書」の第一号という輝かしい「不滅の金字塔」を手にした人物だった。
この英教が、山縣閥が牛耳る陸軍内で、順調に出世を重ねるのは難しかった。実力一つでのし上がった彼は、あろう事か山縣に面と向かって、陸軍の人材登用の長閥偏重傾向に苦言を呈して左遷人事の憂き目に合う。
それでも、英教の才能を愛する先達や後進もそれなりにいて、冷や飯を食いながら、そのルサンチマンを息子の英機に注ぎ込んだ。東條にとって、父は物心つく頃から眼前に立ちはだかる偉大な岩だったのだろう。
東條は、両親にとって三番目に生まれた男の子で、上二人の兄は一歳の誕生日を迎える前に夭折している。石原莞爾の時も思ったが、明治期の乳幼児の死亡率の高さには驚かされる。生まれた子どもの半数以上が5歳前に死んでしまう(出典:「歴史人口学で見た日本」清水融著)のだから、現代とは随分死生観が違うだろうと思う。山縣有朋の子ども達も、成人出来た娘が一人というのだから、親の貧富に関係無さそうだ。

父親が果たせなかった思い、夭折した兄達の代わり、その重たい想いを生真面目に受けて育った東条英機に、痛々しさを感じるのは私だけでは無いと思う。
学校ではそれほど成績優秀で無く、ただただ「暗記」する事で何とか期待に答えようと必死に努力した。同時代の石原莞爾が「楽勝」で通過していく痛快さと比べると、後に満州で「上官(東条英機)」「副官(石原莞爾)」という微妙な関係で、互いに蛇蝎の如く嫌い合うのもしかたないと思えて来る。
「努力の人」vs「天才肌」は古今東西「上手く行かない組み合わせ」の典型で、小さな組織の中でやり合っている分には、周囲に格好の「酒の肴」を提供して他愛も無いが、影響が大きくなると笑い事では済まされない。

そもそも、東條英機と日本の不幸は
「このような、努力型で定見の無い凡庸な人が、軍人になるしか道が無かった。」
というオプションの無さにある。
「凡人がトップに立ててしまう日本の制度設計の欠陥」
が本書の最も訴えたい事であり、今回の読書会のテーマでもあった。
もし仮に、東條英機が軍人にならなかったとしても「第二の東條」が同じようにトップに押し出されてしまったであろう。
日本的組織の構造は、そんな性格をはらんでいる。歴史はそれを教えてくれていて、単に「戦争は悲惨だから止めましょう。」と表面的な事をなぞっていては本質を理解出来ない。
「戦争から学べるものは、意思決定の在り方なのだ。」
池田信夫氏の言葉は重い。


投げ出された権力の空白
東条英機は日米開戦時の首相であったが、彼は自発的に戦争を望み、権力の中枢にありたいと、のし上がったわけでは無かった。 言わば「たまたま」そこにハマってしまった感が強く、前政権の近衛文麿がもう少ししっかりと、国の舵取りをしていれば、、とか、陸軍のエース永田鉄山が惨殺されていなければ、、とか、数々の不運が重なった上に「危険な賭け」として「東條陸相を内閣総理大臣へ」というカードが切られた。

当時の大日本帝国憲法下では、総理大臣への指名は表向き天皇からの「大命」という形で下され、誰にすべきかは「明治の元勲(元老)」達の推挙によって決められて来た。
最後の元老、西園寺公望亡き後は、内大臣を務める人間が「何となく」その任に当たっている。そもそも「内大臣」は明治政府が発足した時に、功労者であった三条実美(お公家さん)の処遇に困って作られた「後付け的ポスト」で「天皇の相談役」という曖昧な役割だった。
それがいつしか「天皇への取り次ぎ」という性格を帯び、明文化された権限を持た無いのに、重要な役割を担って来る。

「東條の首相指名」に動いたのは、当時の内大臣木戸幸一(明治の元勲、木戸孝允の係累)が深く関与している。
東條は天皇への忠誠心が篤く彼が首相になれば、何かと「陸相現役制(陸軍大臣は現役武官が務めなければならない制度)」を盾に辞任をちらつかせて倒閣をほのめかす陸軍を牽制出来ると考えた。(昭和天皇はこの策を「虎穴に入らずんば虎児をえずだね。」と微妙な言い回しで誉める)
木戸は終世「自分が考えて天皇に進言した。」と繰り返していたが、作者の保阪氏はこの証言の裏に「昭和天皇の強い関与」があったのだろうと推測している。 池田信夫氏も「昭和天皇独白録」は非常にはっきりと関係者への好悪が語られていて、面白いと語る。

理系で生真面目な昭和天皇は、これまた事細かに報告をし、数字を諳んじる東條の事を信頼していた節がある。それまでの、陸相はいい加減に言い繕ったり、前に報告した事と辻褄が合わなかったりで、天皇は陸軍に対し不信感を持っていたが「東條なれば」とやや期待していたのかも知れない。その期待を震える思いで受けた東條は、その後、目も当てられない振る舞いへと転げ落ちて行く。

そもそも「与えられた仕事を正確にこなす」だけが得意な人間が、自分の能力を越えた権力を無自覚に握ってしまうと恐ろしい。
憲兵隊を手足のように使い、自分への不満分子がどこに居るのか猜疑心の塊になって探し出し、片っ端から検挙したり左遷したり、潰してまわる人事を断行し始める。
物資の枯渇が目に見えているのに、無謀に始めた戦争を「精神論」「英霊に申し訳ない論」で、ただただ時間を空費して最悪な状況へと押し流してしまう。
戦争が上手く行かないのは「作戦本部の怠慢」と、果ては参謀総長まで自分が兼任すると言い、強引に通してしまう。1人が多くの役を兼任しだす組織は末期的だ。
酷いエピソードは枚挙にいとまがないが、結局周囲に不満が蔓延し「東條外し」が画策され、東條は辞任へと追い込まれる。

詳細に見て行くと、ドイツのヒトラーやイタリアのムッソリーニとは随分違う。確かに、最悪期は非人道的な独裁者の感も否めないが、「確固たる思想(一歩間違うと危険な)」があって行動しているというよりは、ねずみが袋に入り込んで「わけが分からなく」なっている印象が強い。それを周囲は判っていながら、誰も何も出来無くなる。東條の向こう側に透けて見えるのは
  • 優秀な人材を潰しにかかる(主君押込
  • 小利口な人間は中心からすっと身を引く(強い中間集団)
  • 中心あるいは頂点を「空」にしておいて、責任の所在を不明確にする
という日本的集団の特徴だ。あの戦争ではこの特徴が最悪の結果を招いてしまった。

自分が受けて来た教育を振り返っても、この本質を学んだ記憶が無い。。。最も社会生活を営んだ事が無い学生時分に聞いても、実感を伴わないから、右から左へと忘れてしまっただろう。つくづく思うが、現役真っ最中に内省する事の大切さを最近強く感じる。


東条英機と石原莞爾の共通点
、、、などと言うものは無さそうに思うが、二人の伝記を読んで一つだけ、気になったのが、共に兵士に対する愛情の注ぎ方である。この場合、軍人として専門教育を受けた将校達では無く、徴兵された一般兵卒の事だ。

石原莞爾は晩年「兵は神だ」という深淵な言葉を残している。人の命を預かる将校は、これを心しなければならないと言いたかったようだ。
自分の連隊を持った時、微に入り細に入り、兵士の生活に心を配る姿は、東條にも見受けられる。最も、東條は石原ほど崇高な考えがある訳では無く、もっと素朴でプリミティブな感情に突き動かされていたようだ。
水と油ほどに違う二人が、共に心を砕いた「兵士=一般の人々」の存在はどんな意味があるのだろう。

二・二六を起こした青年将校達もそうであったが、日本人は「他者の感情」と「自分の感情」との隔てが薄皮一枚しか無い。
ヒリヒリと痛みや喜びを、センシィティブに感じ過ぎてしまうのは、この目まぐるしく変化する気候が育んだものなのだろうか?(山本七平曰く)
日本人は「いつものおなじみさん」が顔付き合わせて永く暮らして来たからか、 集団が大きくなり過ぎると、どうして良いのか判らず、結局「村の寄り合い」方式が通用する範囲に集団を小分けにして、それらが強い自律性を持ちはじめる。

この特性を理解しないと、どんな借り物のシステムを移植しようと思っても、結局根付かないのではないかと、最近気が付いた。

村落からこぼれ落ちてしまった労働力を、大正期の工業化が吸い込んで、安い大量の労働力として、戦中/戦後の復興期を支えた。(兵隊として、工場労働者として)
そこで使われたシステムは、軍隊でも工場でも、案外村落の共同体で育まれた意識とさほど代わりは無さそうだ。
そう思うと、最早「安い労働力」では海外の生産拠点に太刀打ち出来ない昨今、日本の産業構造はどうやって生まれ変わったらいいのか、改めて問題の難しさに立ちすくむ思いがする。

歴史のIF
「歴史に『もし』は許されない。」のだが、最後に少しだけ歴史の ifを夢想してみた。

東條英機がもし軍人にならなかったら、、、今ならさしずめ、メーカーの工場長だったろう。現にご子息は戦後、三菱重工業でYS11の設計プロジェクトを率いたエンジニアだ。緻密で手続き主義で、コツコツと精緻に積み上げる資質は、工業の世界でこそ遺憾無く発揮出来る。このタイプは、メーカーの「生産ライン設計管理」とか「品質保証管理」とかがぴったりで、間違っても総務や法令部門に行かない方が良いと思う。(総理大臣に座った時の東條の資質が出てしまい、社内は疲弊しまくり!!)
結局、戦争は回避出来なかったとしても、彼はもっと有意義な人生を送れたのではないかと思えてしまうのは、それだけ「東條英機」の中に我々自身を見いだしてしまうからだろう。

もう一つのifは、永田鉄山の暗殺が阻止出来たら、、だ。永田の事はまだよく勉強していないので、何とも言えないが、池田信夫氏も
「誰がどうみても次期陸軍大臣。」
と目された人物が、派閥抗争の末に惨殺されるというのは尋常では無い。
それだけ、時勢が不穏だった事を意味しているのだが、彼がどんな事を考え、存命だったらどう舵取りをしたのか、NHKスペシャル「日本人はなぜ戦争へと向ったのか」でも
「永田さんが生きていたら、あんな事にはならなかった。」
としみじみ証言者が語るのを聞くと、一時じっくり読んでみたいと思う。

さて次回は「高橋是清」
またまた、レポーターの役を仰せつかったので、大急ぎで読まなくては。経済音痴の私としては、どうしてもこの人は理解したい人なのである。来週を乞うご期待!

2012年5月20日日曜日

アゴラ読書塾Part2第6回「森のバロック」中沢新一著 〜南方熊楠 博覧強記異色の天才〜

24歳渡米した時のポートレートを元に作画。驚く程イケメン! 
毎回「噛みごたえ」たっぷりのお題本な読書塾であるが今回も、ひえぇの本である。池田信夫氏曰く
「そんなに難しいかなぁ、この文体は格好付けてるだけですよ。」
とサラリ言ってしまうのがさすがである。

著者の中沢新一氏は「チベットのモーツアルト」を1983年に発表して、メディアからは「ニュー・アカデミズム・ブーム」ともてはやされたらしい。
「チベットのモーツアルト」というタイトルを何処かで見たなと思ったら、うちの書棚に昔からあった本だ。夫の学生時代の荷物にあったもので「内容を覚えてる?」と聞いたら、
「全く覚えて無い。何が書いてあるのかさっぱりわからんかった。当時はあれでも読まないとインテリとは認められないから、格好付けてみた。でも、挑戦しただけエラいだろ。」
とのたまったので、なぁーんだみんな同じジャン!とホッとする。
色々な意味で80年代っぽい感じの書物だ。(「みんな、当然こんな単語知ってるよね。」の前提でバンバン学術用語が説明無しに続くので、辞書をひかないと文意をあっという間に掴み損ねる。)

とにかく根性で読通した感想は、文字だけで表現するとわかりにくいもの(例えばビジュアルとかミュージックとか)を無理に文字で表現していると感じた。なので、今日のエントリーは出来るだけビジュアルを沢山援用しようと思う。


南方熊楠の不思議
2012.05.18Google Top ページより。熊楠生誕145周年
熊楠(くまぐす)をどこで知ったのか、何かを読んだ時だったと思うのに、それが見つけられずちょっと気持ち悪い感じである。この「いつの間にか知っていた。」というのは熊楠らしい。読書会をした日が生誕145周年というのは恐るべき偶然だ。
彼の人となりを、池田信夫氏のブログが端的に語っているので、詳細はそちらに譲るとして、この「森のバロック」から受けた印象をいくつか述べたい。


大樹の子 熊楠
熊楠は、慶応三年(1867)江戸末期に生まれ、昭和16年(1941)日米開戦の年に亡くなっている。命日が12月29日なので真珠湾攻撃の報を聞きながら亡くなったのだろう。見事に時代の節目から節目へと生きた生涯だった。それなのに、この時代の王道とされた「末は博士か大臣か」のエリートコースからは早々に見切りを付けてドロップアウトしている。
大学予備門に合格し、同期生には正岡子規や夏目漱石らが居て、それだけでもとんでもない事なのだが、学校が大嫌いで二年後には中退してしまう。
父親に懇願して、私費でアメリカ留学をしたのを皮切りに、キューバからロンドンへ渡る。途中、恐慌のあおりを受けて実家からの送金が滞り、時にジプシーと一緒に放浪したりもしたそうだ。語学のセンスが良かったのか、先々の言葉を会得して18〜19カ国語も操れたというのだから、恐るべき頭脳の持ち主だ。雑誌ネイチャーへの論文掲載(池田氏によれば『コラム的』性格の論文だったらしいが)記録はいまでも破られていないらしい。
NHK「日本人は何を考えてきたのか」より
丁度、今年の一月に「日本人は何を考えてきたのか」という地味ながら興味深い番組が放映されていた。その中で熊楠が取り上げられている。(左図)
 田中正造と合わせた扱いだったので、内容はやや薄めになってしまうものの、熊楠が終世暮らした和歌山県田辺の映像もあり、直筆の書簡が紹介されたりもして、熊楠入門にはうってつけだ。
熊楠は「エコロジー」という言葉を初めて日本に紹介した人物とされているが、彼の言うエコロジーとは
「自然と人類は一帯のシステムである。」
というものだ。ともすると「守らねばならないひ弱な自然」と思いがちな昨今のエコロジー感とは随分と違う。本書「森のバロック」の冒頭に印象的なエピソードが紹介されている。
「(熊楠が)四歳で重病の時、家人に負われて父に伴われ、未明から楠神へ詣ったのをありありと今も眼前に見る。また楠の木を見るごとに口に言うべからざる特殊の感じを発する」(「南紀特有の人名」)
モチーフが宮崎アニメを彷彿させた
熊楠が生まれた南紀州の故郷では、楠の巨木をご神体に祀った神社があり、重篤な病を患った熊楠が、巨木に平癒してもらおうと、願掛けに連れて行かれた時の様子である。かれの「熊楠」という名前も、この御神木から付けられている。この話を聞いてすぐに思い出したのが、数年前に話題になった、映画「アバター」である。
「樹木に平癒してもらう。」
というモチーフは、映画後半のクライマックスに出るシーンだし、さらに踏み込むならばこの映画全体が、日本の「宮崎アニメ」の影響を色濃く受けていると感じた人は多いだろう。
(Googleで「アバター/宮崎アニメ」と検索するとわんさか記事が出て来る)



大地と人間は決して切り離せない、聖なるものも、俗なるものも、それは全てが渾然と一体化している。。
と熊楠は言いたかったのかと思うが、そもそも、陳腐な言葉の羅列ではとても太刀打ち出来ないのが、自然なのである、、と感じた。


南方曼荼羅
熊楠が記した「科学的方法論の曼荼羅図」
この、書き損じのような「ぐちゃぐちゃ」っとした図が「南方曼荼羅」と言われているものだ。何だかさっぱりわからないというのが、本音であるが、本書の中で熊楠が唯一「まともに結論まで書いた論文」として紹介されている「燕(つばめ)石考」の解説と合わせるとやや理解出来る。(第三章:燕石の神話論理)
この部分だけは、他の章よりも読み易く面白かったので、おすすめである。

南方曼荼羅は、多数のコード軸(思考の軸のようなもの?)を複雑に組み合わせて、その間に生ずる「類推(アナロジー)」を使って大きな変換体系を作ろうと試みたらしい。

「燕石」という燕が巣の中に持ち込む石に関する、言い伝えや神話/伝説とそれに関係しそうなエピソードを組み合わせて、次々と話が縦横無尽に展開して行く。
  1. 燕がある特定の石を海辺から運んで、その中にしまっておく。
  2. その燕石は、ひな鳥の目の病気を直す力を持っている。
  3. 燕石を身につけた女性は、安全に子どもを出産出来る。ほかにもこの石にはいろいろな医療効果をもつ。
  4. 燕は「燕草(草の王:セランダイン)」と呼ばれる植物を使って、子燕の眼病を治す。
  5. それとは別に「石燕」と呼ばれる民間医療用の石がある。これは実際にはスピリフェル種の腕足類の化石で、その形は燕の飛ぶ姿に似ている。この石は酸性の液体に入れると、生き物のように動きだし、まるで両性が愛の交歓を行っているようにみえる。
  6. 「眼石」と呼ばれる、眼の病気を治すための民間医療用の石がある。これは貝類の「へた」にほかならず、「石燕」と同じように、酸性液の中でエロティックな運動をする。
  7. 燕石は、鷲がその巣の中に大切にしているという「鷲石」とも深い関係がある。この鷲石も女性の出産を助ける魔力を持つと言われている。またヨーロッパの伝承世界の中では、鷲と燕は深い関係をもっていると考えられていた。
何だか、ちょっとづつは関係ありそうだけど、明確に因果関係があるとは言いがたい要素である。でも、それぞれが「おや?」と興味をひく「地下的な魅力」に富んでいないだろうか。(この話がどう展開していったのは、とても語り切れないのでごめんなさい。)

熊楠は、後に民俗学の権威とされる柳田国男とも、往復書簡で激しく議論をしている。
著者一流の小難しい言い回しで、かなり理解しずらいが、乱暴を承知で噛み砕いてみると、柳田は「民俗学の中から『制度』をあぶり出したい」と願い、「俗なもの(エロス)」を見ようとしなかった。熊楠は「それは違う。」と言い、むしろ「それが(エロスが)主たるものである」と言いたかったらしい。
彼の残した膨大な書き付けは、余白までびっしりと言葉や図で書き尽くされ、話は猥談をしていたかと思えば、いきなり難しい論文調のものになりと、脈絡無く続くと言われている。その有様こそ「自然なのだ」と彼は言いたかったのかも知れない。


誰も注目しなかった粘菌
熊楠が生涯をかけて研究を重ねた粘菌
そして、熊楠が生涯をかけて研究していたのが、粘菌である。(変換すると先に「年金」と出てしまうのが昨今の悲しさ。)
何と、昭和天皇もこのマイナーな生物「粘菌」の研究者で、熊楠が晩年、若き昭和天皇にご進講をした事は有名なエピソードである。(うる覚えだが、天皇の事を「おいおまえ」と呼び捨てにしたとかしないとか。。)
キャラメル箱に入れた粘菌の採取サンプルを110個献上し、周囲は「キャラメルの箱なぞ!」といきり立ったが、昭和天皇は「このままで良い」と不問にしたのもなかなか面白い。
本書では一部カラーページになって、粘菌の事が紹介されていたが、最近はもっと凄い図鑑があるのを発見!
表紙の絵を見ただけでもゾワッと来てしまうが、カラフルで様々な形態をしたこの生き物は、摩訶不思議である。
図鑑の中身はもっと凄いらしく、見た人は日本人ならば、知らない人は居ない、有名な作品を思い出すだろう。


風の谷のナウシカ(原作版)
熊楠を知ってもう一度読みたくなる。
本書を読んでいる途中から「これは風の谷のナウシカだ。」と直感した。映画版では無く膨大な時間を使って描かれた、漫画原作版の方だ。
特に、ナウシカで描かれた「腐海(ふかい)」はその描写が限りなく「粘菌」の様に近く、原作版では「腐海」は意志を持っているというような描かれ方をしている。
最近の研究でも、粘菌が迷路を最短ルートを使って餌に辿り着く実験がされたりして、なかなか興味深い)

映画では、尺の関係からその部分の描き方が弱く、「善悪の単純な二項対立」のように見えてしまうが、原作はもっと複雑で、物語の結果も深い。
(宮崎監督は映画版が非常に不満で、鈴木プロデューサーの目の前で分厚い台本を引き破ったそうだ)
借りて読んだので、手元に無くうる覚えであるが、クライマックスのエピソードは、熊楠が言う所の「エコロジー」とは何かを、真摯に捉えようとして、宮崎氏の筆が苦悩しているようにも思えた。
網野善彦の時も感じたが、この「メインじゃないグループ」(※)が持つパワーは、日本のサブカルチャーに多大な影響を及ぼしているとつくづく思う。

池田信夫氏も「熊楠とアートは親和性が高い。」とコメントされ、日本人のポテンシャルと言っていいのかも知れない。(構造的に弱い弱点はあるものの)
この不思議な、超人の事はまた考える機会がありそうだ。

※本郷和人先生(@diamondfloor41)曰く、網野善彦は中世学のマイナーどころか、最早メジャーだそうですが。。

2012年5月13日日曜日

アゴラ読書塾Part2第5回「地ひらく」福田和也著 〜石原莞爾 稀代の戦略家〜

兵力差20倍の状況で満州事変を遂行した戦略家
文庫上下巻でしっかりとボリュームのある書籍だった。1995年から2001年にかけて雑誌に掲載された作品で、石原莞爾(いしはらかんじ)を中心に明治の日露戦争から昭和の終戦までを描いた渾身の意欲作である。
「北一輝」のエントリーでは今ひとつ掴み切れなかった、当時の混迷する中国国内事情も丁寧に描かれ、合わせて読むと、20世紀の世界情勢を立体的に理解する事が出来る。


見過ごされたされた風雲児?
石原莞爾と聞いて「誰でも知ってる」とは言いがたいだろう。少しでも昭和史に詳しい人なら、当然知っている有名人であるが、歴史の授業ではまず深く取り上げられない。或は「関東軍の独走の先鞭を着けた問題児」という認識が一般的だったろうと思う。私もそうだと思っていた。
ところが、本書を読むと石原はもっと複雑で独創的で、色々な意味で日本人には珍しい逸材だった事が判る。
庄内藩(今の山形県)に生まれ、わずか13歳で仙台陸軍幼年学校に合格する。陸軍幼年学校は全国合わせて300人しかいない「超エリート集団」だ。著者は少年期の石原を
聡明というより、跳ねるように知恵が疾った。周りの大人が、その回転についていけないと、癇癪を起こすか、黙りこんで、それでも意を通した。
と表現する。抜群に成績はいいものの、ガリガリと詰め込むわけでなく、常に「一番」というわけでも無い。試験勉強で同僚達が必死で勉強していても、悠然と違う事をしていたり、とにかく「天才肌」である。(でも幼年学校は主席、最後の陸大は次席で卒業ですが)
服装も無頓着、何においても型破りだが、人懐っこい性格は友達の中でウケが良く、教官によっては「とても可愛がる」か「酷く嫌う」かのどちらかに分かれた。
この、色々な点で「他人の顔色を伺わない(今風に言えば空気を読まない)」天真爛漫な石原の気質が、後々いろいろな局面で微妙に作用する。

満州事変と支那事変(日中戦争)
「満州事変と支那事変(日中戦争)は大きくその内容が異なる」という事が、この著作を読んでようやく判った。一般的に
「満州事変は出先機関の『関東軍』が中央の許可無しに独自で事を起こしたものであり、中央は後からそれを追認する事になって、ここから軍部の独走が始まった。」
とされている。石原莞爾はその満州事変の首謀者だった。(→だから悪者/問題児 という図式)しかし、本書を読むと、実際の内容は極めて戦略的であり、勝算が成り立つよう、綿密に計画された謀略だった事が改めて判る。(事の正否はとりあえず置いておくとして。。)「それでも日本人は戦争を選んだ」の加藤陽子先生は「起こされた満州事変、起こった日中戦争」という表現をされている。

日露戦争の結果として、中国東北部(旧満州国)の権益を獲得した日本は、「満蒙は国家の生命線」などというスローガンのもと、国絡み(がらみ)で投資をしていた。(主に満鉄。全投資の85%が国がらみ:「それでも日本人は戦争を選んだ」より)この「軍も民間も一蓮托生」の状況が、巧妙な満州事変を可能にした下地となるわけである。
当時の満州には張学良率いる軍閥が兵力19万(本書では20万としているけれど正確には19万)で割拠していた。関東軍参謀として満州に赴任していた石原は、張に対する反乱を華北地方で起こさせて、反乱鎮圧の為に張が11万の自軍を率いて満州を留守にする状況を作り上げた。本書では
満州の場合、満鉄をはじめとする交通網、電信、電話などの通信、道路交通、そして金融、商業などのネットワークが、ロシアと日本の積年の投資によって、かなりの程度発展していた。そのために、日本軍は、交通と通信、経済基盤の大半を掌握することで、数としては圧倒的に不利であっても、敵側の連絡を寸断し、機能不全に追い込む事が出来たのである。(下巻p154)
と書かれている。著者の渡辺氏は、この「インフラ側の協力」が満蒙に対する「共通に持っていた夢」によってなされたように表現している。そんな側面もあったろうが、言うなれば「お膳立てが揃った状況」を見極めて決行されたとも言え、これは注目に値する。

一方、7年後に起きた支那事変(日中戦争)は全くその性格も状況も異なっており、「不拡大(これ以上戦線を広げてはいけない)」という方針を持って、石原は現地の関東軍を止めに行くのだが、皮肉にも
「あなたの行動を見習って、同じ事を実行しているのだ。」
と言い返えされ、沈黙してしまったとも言われている。
池田信夫氏は「悪しき下克上の先例を作ってしまった事が、彼の首をしめた。」と言う。

少し抵抗しては、さっと兵を引いてしまい、後退した先で「自給自足」で時間稼ぎをする相手方に「勝ちに乗じて」どんどん戦線を拡大するやり方は、補給路が長くなり、近代兵器が行軍するには必ずしも有利でないアウェイへどんどんハマり込む事につながった。
「泥沼の日中戦争」と表現されるのはそのゆえんである。

石原は第一次大戦後のドイツに留学し、なぜドイツが戦いに破れたのかを詳細に研究分析して「決戦戦争」と「持久戦争」という全く異なる戦略があると理解する。後の回想録で
「陸大では指揮官として戦術教育の方は磨かれて居りますが、持久戦争指導の基礎知識に乏しく、つまり決戦戦争は出来ても持久戦争は指導しえない」(回想応答録より)
と問題意識を持っていた事を述懐している。
石原にはクリアに見えている事が、周囲はなぜ理解出来ないのか、池田信夫氏は
「手段へのこだわりが強く、目的意識が希薄だから。」
と明快な言葉で解説する。

学校型秀才の問題の解き方
池田氏は「石原莞爾には演繹的に物事を考える能力があった。」と言う。世界的に見れば当たり前の思考方法だが「最終的にあるべき姿(目的)」があり、それに至る為にはどうあるのか、とさかのぼって考える資質はリーダーに欠かせないという。
ところが、当時(実は今も)の日本軍のリーダー達は、とりあえず、解き易い所から、手を付ける。
「このアドホックな物の考え方や進め方は、学校秀才型の問題の解き方だ。」
とこれまた痛烈な指摘をする。本書でも書かれていたが、全軍を統べる能力は、必ずしも陸大だけで育成出来るものでは無いと考えられていたが、ではどこで?と問うとそれを担う機関も無く、全てが陸大に集中してしまったと言う。
日本軍が代表する日本的組織の悲しさは、迷走する指揮命令系統に可憐に現場が合わせてしまう事にある。
しかも日本軍は日本的な組織の常として現場での対応にきわめて長けていた。他国の軍隊ならば、前進し得ない状況においても、日本の部隊は、自力で食 糧、資材、輸送手段を調達し、弾薬が枯渇すれば敵から奪い、あるいは手榴弾を石礫にかえて、戦い続け、前進し続けたのである。(下巻156p)
 何度この悲しいフレーズを聞いた事か、山本七平も司馬遼太郎との対談で、南方戦線の苦しい行軍の様子をこんな風に語っていた。
「ジャー ジャーとラジエータから水が漏る自動車なのに、兵隊の誰かが『木屑を入れるといい』と言い出すんです。そうやって一握りの木屑をラジエーターに放り込む と、それがやがて目詰まりの要領で穴を塞ぎ、水漏れが止まって、また自動車が動いてしまう。日本の現場はそうやって貧弱な装備をその場その場で、しのいで しまう。本来だったら動かないようなものまで、動かしてしまうんです。」
とにかく前進する事が目的化されてしまい、なぜこれを続けるのか、根本的な問いを考える事は許されず、目的よりも自動運動を維持する事に陥ってしまう。言うなれば「問題の先送り」で本当に進めなくなった所で、大組織全体が立ち枯れる。。。
何度かこのブログでも書いて来た事だが、いつまでもこの事を笑っていられないと最近はよく考えさせられる。

兵士に手帳を配る日本軍、アイスクリームを食べさせる米軍
池田信夫氏は「日本軍と日本企業の組織は不思議に似ている。」という。前回の読書会で取り上げた「失敗の本質」が今でも売れ続け「簡単解説本」も出ているそうだ。池田氏のブログアクセスも人気だそうで、私のブログですら時々過去のエントリーにアクセスがある。
会社に居ると「ああ、ここは軍隊だ。」とつくづく思うが、日本軍を詳細に見ると、まるで、双子のようだと思う。
「目的意識が希薄で、手段にこだわり、動機の純粋性に重きを置いてしまう。まるで美意識の為に生きているようだ。」
と常々、池田信夫氏は語る。この事と直接関わるかどうか定かでないが気になる事を聞いた。

今年の3月に日本国籍を取得されたドナルド・キーンさんのインタビュー(NHK100年インタビュー)をたまたま見ていた。
キーンさんは戦時中、海軍の日本語通訳として従軍した経験がある。運動が苦手で心優しき秀才のドナルド青年は16歳の時、偶然手にした「源氏物語」(英訳)によって日本文学を知り、以来ずっと日本の事を愛してくれている。
従軍時代キーン氏は、主に日本人捕虜の尋問(と言っても「ぬるい尋問官」だったそうで必要な事をさっさと聴いたら四方山話を沢山したとか)や日本人兵士が持っていた「黒い小さな手帳」をよく読んでいたそうだ。(その殆どが『遺品』として回収された物)
「日本軍は兵士全員に黒い手帳を毎年渡して日記を付けさせていた。だからそれを読めば情報が得られると米軍は考えた。米軍ではこんな物を支給して奨励するなぞ考えられない。なぜなら、そこから情報が絶対に漏洩すると考えるからだ。いかに日本人の中に『日記』を書くという習慣が根付いていたかを伺い知る事が出来る。」
とキーン氏は語る。へぇー日本軍はそんな物まで支給していたのか。とボンヤリ考えていたが「いや!まてよ。」と気が付いた。
「そういや、会社から毎年スケジュール帳を支給されてた事があった。」
今は廃止してしまったが、私の務める会社にも、昔手帳の支給があった。戦後振興の会社なのに90年代初頭まで律儀に全員新しい手帳を渡していた。私は殆ど使った事が無かったが、古参の先輩達はびっしり色々書き込んでいた。(廃止になってもしばらくは購買部で売っていたくらいだ。。いや、今も売ってるのかも!!)
「手帳の日記の殆どは、軍事機密情報など書かれていなかった。でもその記述の細やかさに心打たれた。中には巻末に自分の死を見越したのか、英文で『この手帳を拾った人は是非故郷に届けて欲しい、住所はここである』と仔細に住所まで書いてあったものがあり、私はこっそり自分の引き出しに隠して持っていたのだが、誰かが持ち物検査をしたのか、いつの間にか没収されて無くなっていた、それが今でも心残りだ。」
と98歳のキーン氏は語る。多くの戦死者が飢えで亡くなっている事を考えると「手帳よりも兵站だろう!」と突っ込みたくなるが、無い袖は振れない悲しさを思うと「せめて思いの丈をここに書けよ。」といかにも日本的帰結の現れのような気がしてならない。キーン氏は
「日本人は何よりも桜を愛するのは、その短く数日でワッと散ってしまうありさまに美意識を感じるからだと思う。」
と指摘する。多くの美しい花が日本にはあるのに、絶大な人気を誇る「桜」にこの国の人々が共有し易い「美意識」の特徴をキーン氏は鋭く指摘している。

一方、アイスクリームである。
これは、加藤陽子さんの著書にあったのだが、南洋諸島に送り込まれた守備隊が絶望的な戦況にあった時、上陸したアメリカ軍がごついマシンを続々と陸揚げしていた。
ジャングルから偵察していた日本軍は、どんな秘密兵器なのかと戦々恐々としていたが、実は「アイスクリームメーカー」だったという笑えない話。
「アイスクリームを兵士に食べさせる余裕がある国なのか、、これはとても叶わない。」
一兵卒ですら理解出来た、と証言した人が居たそうだ。

合理的で無いと下々までわかっているのに、催眠術にでもかかったように「総崩れ」を止められないこの病理は何なのか。根は深い。

本当は他にもいろいろ書きたいエピソードがあったけれど、最早長過ぎるので、今回はこれまで。はやり昭和史は奥が深い。次回の読書会は「知の巨人:南方熊楠」軍人さん続きだったので、またまた楽しみである。

2012年5月3日木曜日

アゴラ読書塾Part2第4回「山県有朋」伊藤之雄著 〜愚直な権力者の生涯〜

「椿山荘」は山県が造園プランをデザイン!庭作りの名手だった。
偶然にも、この作者(伊藤之雄氏)を直接観た事がある。昨年の「司馬遼太郎賞」の受賞者(「昭和天皇伝」が受賞)として、菜の花忌シンポジウムで受賞スピーチをされていたのだ。物好きな私は、白髪頭だらけの会場でひと際「浮きまくり」ながら、伊藤氏の話を聞いていた。
今回、お題本に取り上げられた「山県有朋」は歴史研究家としての伊藤氏が、丹念に一次資料を追いながら、山県の生涯を追った自伝である。新書なのに厚さ2cmもあって手に取った時は驚いた。
歴史研究とは、出典元を厳密に明記するのが常識らしく、この本も3分の1以上は文中の「引用」に字数を割かれている。「信用出来る文章である」と証明する為だろうが本文に引用元が書かれると、読み易さの点で確実に足を引っ張る。「※印」で本文外にまとめる方法もあるが、これもチラチラ気になって読みにくい。専門家なれば、引用を上手に飛ばしながら文意を掴むのだろうなぁと、凡才な私はノロノロと読み進めた。
この伊藤氏の地道で愚直な仕事ぶりが、そのまま「山県有朋」の人生のようで、非常に好感が持てる書物である。


怜悧な長州人で戦下手
「長州人は怜悧である。青臭い書生達が集団で奮興し、維新の原動力になったようなものだ。」
と、司馬さんは色々な所に書いている。確かに「長州」と「薩摩」はあらゆる面で対照的である。この「山県有朋」の中に印象的なエピソードがあった。
西郷隆盛が政争に破れて下野し、鹿児島で氾濫を起こした「西南戦争」で、山県は新政府軍を率いて九州へ鎮圧に向う。熊本城の手前で苦戦を強いられた時、薩摩出身の黒田清隆が別働隊を組んで背後を突き、戦局を動かした事があった。山県のすぐ脇に居た大山巌(西郷隆盛の従兄弟)も、山県は正攻法ばかりで「これじゃ埒があかない。」と思っている。(意訳)
この事で「ああ山県は戦下手(いくさべた)だなぁ。」と感じた。後に陸軍の最高位に着く男なのに、、である。これ、日本組織の典型と言えないだろうか。

この著書を読むと、西南戦争は「薩摩vs薩摩」だった印象がある。実戦では薩摩隼人の方が、戦局の変化に対する機転の利かせ方が早く、結局、新政府軍側の薩摩人達が局面を打開する働きをして、長州人は「こうるさく」計画や理屈を周囲に述べたてるので煙たがれている。。。
明らかに「官司タイプ」で、平時の運用ではアドミニ能力を発揮するだろうが、発想と実行力が必要とされる戦時では、薩摩型の方に分があった。本書を読み進めて行くと、山県の晩年にその苦悩が読み取れて来る。

少し横道に逸れるが、維新当時は「薩長」と並び称された実力藩だったのに、徐々に薩摩系は「二番手」に転落して、今や陰も形も無くとろけて消えてしまった。長州系は現在でもその系譜が残っているのにこの差は不思議だ。(戦後の岸信介/佐藤栄作、最近では安倍晋三元首相もですね。)これは、薩摩型リーダーは人工的に作られたからだ、、と、司馬さんは言う。
自分は何もわからない。だから第一人者に全て任せる。横槍が入らないように周囲から守るのが自分の仕事で、最後の責任は自分が取る。
というのが、薩摩型リーダーの典型で、今でもビジネス書では理想型とされて人気がある。そして、理想だから居るはずがないのだ。
なぜなら、「そうあれ」と意識的に育成しなければ、こんなリーダーは育たないから。。

薩摩藩では「郷中教育」と言ってある一定の年齢(ローティーンからハイティーンまで)の若者男子が地区単位で集まり、その集団が育成を担ったそうだ。西郷隆盛なぞは本来引退すべき年齢(20代中頃)になっても、後輩達に請われて永く「組かしら」を務めていた。そして、リーダーになる事を「ウドさぁになる。」と表現したらしい。「ウドの大木」のように、意識的に自分の才気を押し込め、凡庸な外見を演出せよ、、と、教え込まれる。
維新で郷中教育は跡絶え、その申し子達が明治年間までは残っていたが、在庫が切れると同時に、この型のリーダー達も消えて無くなってしまったという事らしい。

この点から考えても、日本の組織は放っておくと「凡人万歳」に自動修正する癖があるのかと思いたくなる。困った時は「薩摩的突破力」を頼みに利用するが、基本は「長州型管理力」にどうしても傾きがちだと改めて思う。


盟友伊藤博文との関係
先の受賞スピーチで著者の伊藤氏は、伊藤博文と山県有朋の事にも触れている。
『坂の上の雲』には伊藤博文や山県有朋は殆ど出てきません。でも第二巻のあとがきの冒頭で伊藤に触れています。驚いたのですが司馬さんは、伊藤への非常に高い評価をしておられます。伊藤は現実的思考をもっていた、と。本文の中でも、伊藤は理想と現実が常に調和した人物だと書いています。(中略)同じあとがきのなかで、山県についての評価もしています。それは伊藤よりも低いです。しかし否定はしておられず、それなりに好意も示しています。伊藤と同じ現実主義者で、しかし伊藤にくらべ「多分に『思想性』があった」ということを、低く見ています。具体的には、日露戦争開戦に伊藤よりも早く傾いていったということです。この部分を読んだとき、私がかなり厚い伝記で書いた伊藤と山県の像とほとんど同じではないかと驚きました。(司馬遼太郎記念館会誌「遼」第43号より) 
会報誌を読んでいて同じ人だと気が付く!新書なのにこの厚さ!
池田信夫氏も、
「伊藤博文や、西郷隆盛が国民的に人気で『表の人』とするならば、山県有朋は『裏の人』。GHQでも解体出来なかった官僚機構を作り上げたのがこの人である。」
と説く。
伊藤博文は師匠筋の吉田松陰に「周旋家(しゅうせん:なかだち、交渉)になりそうだ」と評されただけあって、明るく社交的で語学に長け、非常にリアリストであった。初代内閣総理大臣になったのも「語学(英語)が出来る」という一押しで決まり、帝国憲法の草案に尽力するなど、華々しい経歴の政治家だ。
同郷の山県とは「政党」というものに対する解釈を巡って対立する事もしばしばあったが、若い時から山県が窮地に追い込まれると、伊藤は進んで手を差し伸べ「いざとなったら協調出来る、連帯意識を共有した仲間」であったようだ。
時勢を読むのに鋭い伊藤に比べ、山県は「その点が遅い」と著者は評している。時に、世界情勢に対して的外れな解釈を開陳して、その差が「伊藤の風下に立つ」事につながったりもするが、山県はあまりに意に介していなかったようだ。
根が真面目で用心深く、コツコツと積み上げて行くから、瞬時に理解出来なくともやがて情勢を理解する。そんな人物だったようだ。「政党」に対する理解が「伊藤に比べて30年遅く到達する」と著者は称しているのが、何とも山県らしい。


政党政治は何としてでも阻止する
山県の生涯は「政党には何としてでも実権は渡さない。」に貫かれている。作者の伊藤氏は
山県にとって、政党は、素人の政党員が専門の官僚が行う行政権を拘束し、国家に実害をもたらす存在である。(335p)
山県は陸軍に対する内閣(文官)の介入を、専門家に対する素人(政党)の関与とみて嫌い(p460)
と書いている。「専門家至上主義」とでも言おうか。愚直であるが故に、思い込んでしまうと徹底していて、伊藤博文が「公式令(陸海軍の勅令に首相の副署が必要とする)」を立案すると、これを骨抜きにする「軍令(陸海軍に関する勅令は担当大臣の副署のみにてOK)」を出すなど、この部分だけを見ると「陰湿」「狡猾」と捉われる。

池田氏も「霞ヶ関のスパゲティ」と称して、複雑で専門性が高く、自律的で、排他的な現在の官僚制度の問題点を指摘している。
政治任用を許さない「高等文官制度」を作ったのも山県である事を考えると、色々な点で彼の後世に与えた影響は大きい。ただ、著者の伊藤氏は最後の章でこうも書いている。
一般的に、集団や組織の継承者がその創設者たちの精神を忘れ、あるいはそれを古いものだと否定して、勝手に行動するのは歴史上よくあることである。むしろ、新しい状況下に、創設者の精神の真の意味を再解釈しながら、集団や組織を発展させていった例の方が少ないと言ってよい。太平洋戦争への道は、山県陸軍から必然的に導きだされたのではない。むしろ、山県の死後、山県の陸軍への理想や精神を忘れた陸軍軍人たちが、山県の作った陸軍の組織や制度・権力を都合良く解釈して利用し、太平洋戦争への道を作ったのである(p462)
実質的に中心が無く、明文化されていない「元老(明治維新の功労者達)」という組織が運用面でバランスを取る前提のシステムは、「元老」の資質に左右される点で危うい仕組みである。山県の後半生で上手に後継者を育成出来ない悩みの下りを読むと、現代にも通じるものを感じる。


曲解され続けた山県像
軍と官僚を「山県閥」で徹底的に掌握し「専門家による賢い国家運営」を山県が目指したとするならば、その系譜は今でも生きていると言える。
、、がしかし、著者の伊藤氏は「山県はそれだけの人物では無かった」としている。それは、あれほど毛嫌いしていた「政党の領袖:原敬」に一目置いているからである。
自分は後継者育成にも励み、桂・寺内や清浦ら少なくない人材を育ててきたつもりであったが、結局は単なる能吏(のうり:事務処理に優れた役人)ばかりだった。真に気骨があり、頼りになる者は育成出来なかった。田中(陸相)や田健次郎(台湾総督)もそれなりの人材だが、原ほどになれるのかどうか、確信が持てない。後継者育成の点でも、結局自分は伊藤博文にはかなわなかった。(p448 注釈筆者)
原敬に関しては以前「さかのぼり日本史」のエントリーで書いた事があるが、山県ですら「敵ながらあっぱれ」と思わせる力量の持ち主だったのだろう。首相任期途中で暗殺されるという非業の死を遂げて、この訃報を聞いた山県は非常に落胆したと側近が記録している。

愚直で心配性、用心深い自身の性癖を抱えながらも、伊藤博文や薩摩型の「開けっぴろげで大胆闊達な人々」にどこか惹かれる。そんな人物だったのだとやっと理解出来た。「国を思う」点では維新の英傑達と変わらず「志半ばで倒れた仲間への責任感」と著者は表現しているが、山県の生涯を語るに相応しい。
「雑誌を作ってみたかった」とか、造園にかけた情熱を思うと、違う時代に生まれていたら、コツコツと地道に何かを「作り上げる人」だったのかも知れない。良き職人達を沢山育てあげる親方タイプを想像すると「巨悪」と称される人物とは違う一面が見える気がする。