やっぱり、この人だったのかと言う感じで、大久保利通登場!
今回のさかのぼり日本史は二回分をまとめた方が面白そうなので、、、
第3回「巨大官僚組織・内務省」
明治維新直後から国家運営を支えたのは内務省。これは今で言ったら、経産省、財務省、総務省、警察庁が一緒になった巨大組織で、戦後GHQに解体されるまで続いた強力な官僚組織だ。この組織を作り上げ、初代内務卿に就いたのが、大久保利通。
司馬さん(毎度の引き合いで恐縮です)は、鹿児島で行った講演の中で
『大久保利通展がやっと開催されて、そこそこ人が集まって良かった。』
と言う発言をしてる。同時代の英雄、西郷隆盛に比べて故郷の人々は大久保に冷たい、、と少し悲しく思っていたようだ。
現に西郷さんはとても愛されているけど、大久保は明治初頭「私腹を肥やしてこんな豪邸まで建ててけしからん!」と糾弾されるビラが撒かれたらしい。でも、そこに写っていたのは、生まれたばかりの中央郵便。。大久保の辛さが伺える。
何しろ、維新の大オーナーだった、薩摩や長州の殿様達ですら
「江戸城に俺はいつ入ればいいんだ?」
やら
「俺の役職は何だ?」
、、と維新の意味をしっかり理解していなかったそうだから辛い。(皮肉な事に一番分かっていたのが徳川慶喜なのかも、、)
西郷は、そんな土着の捨て去るべき遺物にも、一片の愛着を持っていたのかも知れない。判官贔屓な日本人は、最後は情に篤い西郷を愛し、眉一つ動かさず強い信念で維新を断行する大久保に、畏れと近寄り難さを感じるのだと思う。
大久保は、殖産興業を最重要課題とし、そこに掛ける予算を三年で三倍にまでする。大変な辣腕ぶりだ。当然予算が追いつかない。そこで目を付けたのが、士族に与えていた俸禄金である。これを全て停止してしまうんだから、今の政治家にはとても出来る芸当ではない。
それまで、手弁当で維新に参加した士族階級の不満は爆発する。佐賀の乱、西南戦争へと、反乱の火は広がるのだが、その最中にあっても大久保は物ともせず「内国勧業博覧会」の開催を強く推し進める。
これは全国の物産を集め、広く内外に喧伝する目的の博覧会なのだが、それまでの日本人は「博覧会」なんて聞いた事が無い。周囲も延期/中止を検討すべきではと進言したらしいが、大久保は怯まない。
及び腰しだった出品者に、送料の援助や優秀な物産はパリ博に出展させる等、優遇策を打ち出して、積極的な姿勢をアピールし続けた。
結局、三ヶ月の開催期間中に45万人を集める大成功をおさめ、約1年後、大久保は不満士族によって暗殺されてしまう。(確か紀尾井町だったのでは。。)
大久保は人に厳しいが自分にも厳しい人で、大久保亡き後、内務省の空気が緩んでしまった事に、彼の側近が嘆いている。(夕べの宴席の芸者の話やら、仲居が出入りし始めたりして、公私の区別が甘くなったとか)
無口な男で通っていたが、足繁く富岡製糸工場に視察に訪れた時は、現場のエンジニアを捕まえて、具体的な質問をし、その博識ぶりは専門家も舌を巻く程だった。今で言えば、理系エンジニア気質と言えようか。
別にこんなエピソードがある。京都嵐山に、たまたま訪れた大久保が、土地の翁に
「何故こんなに荒れているのか?これが天下の名勝なのか?」
と質問した所、翁は
「ご維新だからですわ。」
と答えた。
聞けば、それまでここを管轄していた藩主は、キチンと嵐山のメンテの為に人を雇っていたと言う。幕府が瓦解し、社会システムも変わったので、メンテをしていた人達のサラリーが保証されなくなってしまった、だから荒れ果てて当然なのだ、、と。
じっと話を聞き入っていた大久保は「大変参考になった。」と感謝したという。その後、維持する仕組みが整えられたそうだから、大久保は基本的に勉強熱心な人だったのだと思う。そんな大久保に決定的な影響を与えたのが、次回の「岩倉使節団」での体験な訳である。
第4回「岩倉使節団・近代化の出発点」
「見て来た者」と「見る事が出来無かった者」との差。
岩倉使節団の意義はこの一言に尽きるのではないかと思う。
卑小な例で恐縮であるが、職場でもよく視察や調査で海外に出張する人達が居る。写真やレポートで細かく報告してもらえるが、やはり、実体験をそのまま他者に伝えるのは限界がある。余程、表現の訓練を積んでいても、その現場で受けた感覚は、その人が獲得した固有の物であって、いくら他者へそっくり移植したいと思っても、不可能だ、、と常々思う。
維新の主要メンバーをごっそり海外使節として送る、しかも二年も(まあ、船旅なので時間はどうしてもかかってしまうのだが)。大胆で太っ腹な計画である。時々思うのだが、西郷がこの使節に加わっていたら歴史はどうあったのか、、。
彼は留守役を勤め、大久保達が居ない間、彼なりに国内の面倒を見ていたのだと思う。使節団帰国後、「征韓論」で、帰国組(大久保)と衝突して下野してしまう事件は有名だが、西洋を直に見て来た大久保にとって、隣の半島国家にお節介を焼いている場合では無いと、追い立てられる気持ちだったのだろう。
(余談ながら、司馬さんは龍馬に海外を見せてやりたかったと話している。彼なら、今で言うベンチャー起業の社長よろしく、次々と事業を興していたかも知れない。)
幕末、幕府が安易に結んだ不平等条約の改正の手がかりも掴みたい、使節団にはそんな目論見もあったが、手練な外交担当者に軽くあしらわれ、悔しさと同時に国力/文明の差を嫌という程見た旅のようだった。岩倉具視はそれまで自慢にしていた、まげと和装をシカゴでバッサリ切り捨ててしまうし、随員のメモによると大久保には円形脱毛症があったらしい。それだけ、受ける衝撃にストレスを感じていたのだろう。
米国からヨーロッパへ渡り、当時欧米では「田舎国家」と見られていたドイツが、フランスを破って一躍脚光を集めていた頃だった。老舗国家である英国や仏国には、到底及ばないと劣等感を感じていた使節団は、ドイツビスマルク首相のやり方に、新興国日本の進むべき道を見いだしたらしい。
ビスマルクは直下に官僚組織を置いて、強力な指導力を発揮してどんどん産業振興をはかっていた、この方法を大久保はそっくりコピーしたらしい。面白いと思うのは単にコピーすると言っても、それを真似出来るだけの素地が無ければきっと実は結ばないであろうという点である。
司馬さんは晩年、大前研一氏と対談をした際に
「昔から、平家、海軍、国際派はどうしても主流になれない、という諺がありますな。」
と語っている、上記に「織田信長/豊臣秀吉」を入れても恐らく良いと思うが、要は貿易と外交に力を入れ、開明的文物を積極的に取り入れる姿勢を言うのだと思うが、歴史を振り返ると、短い開明派の天下の後には、必ず、長く「内向きで土着で閉鎖的」な政権が天下を取るという事を繰り返している。
明治の初頭のパワーは、200年以上もの長きにわたり、「この河には橋を掛けるな」とか「船は一本マスト以上増やしてはならん」とか、ずっとサイドブレーキを引かれたままに留め置かれていた「エンジニアリング的欲求」が一騎にリリースされた時代だった。あの時代の遺産が今でも魅力的でキラキラしているのは、そんな時代の稀なるタイミングの賜物だからなのかなと思う。
さて、このお気に入り番組「さかのぼり日本史」が各月のテーマごとに書籍になっている模様。是非購入して読まなくては!
さかのぼり日本史(1)―戦後 経済大国の“漂流” 五百旗頭 真
さかのぼり日本史(2)―昭和 とめられなかった戦争 加藤 陽子