2011年8月13日土曜日

北海道旅行に行きました

いつもは、視聴/読書感想が主なブログですが、今日は趣向を変えて、この夏の家族北海道旅行の感想なぞ。。

旅行前から困った事
  • 価格が高い。(子どもの学校の都合で繁忙期しか日程を組めない)
  • ターゲットユーザーで無い(夫婦と子ども3人=5人家族)ので商品群(宿泊と移動手段)の層が薄い。→選択の幅が狭い
  • 訪問地とテーマのセレクションに悩む。(自然派、学究派、アクティブ派と家族の好みが様々なので)

旅行プランで押さえるべきポイント
  • たぶんこれが家族揃って旅行出来る最後のチャンス(子どもの年齢、親達の介護問題、取得可能な長期旅行のタイミング)
  • 帰省があるので、殆ど旅行らしい旅行は、5年単位でしか出来無かったので、出来るだけ遠くへ行く。(南国育ちの夫は北が好きなので今回三度目の北海道)
  • 子ども達に見せたい風景は押さえる(層雲峡とか美瑛とか)
  • 話題の旭山動物園へは是非行く。
  GWは緊縮に努めて何処にも出掛けず、プランニングと各種手配を万全にしておきました。が、、家族5人の旅行はお金が掛かる!!!旅費の大半を締める航空運賃と宿泊費をいろいろ工夫して、この枠内に納めれば、という事で締める所をかなり締めたのですが、、結果、あまりケチると質にヒビく。当たり前の事がよーく判りました。


決めたプラン
  • ANAのパックツアーで、2泊のみセットで手配してもらう。(追加で宿を手配してもらうと割高)
  • 2カ所(小樽/上富良野)は楽天トラベルから自分でネット予約
  • 1カ所(旭川)は旭山動物園の入園チケット付きプランを自分で探してネット予約
  • レンタカーも楽天トラベルから格安プランを探して自分でネット予約
  • 羽田までの移動手段も、大人数/大荷物だと大変なので、格安の長期駐車場を探して予約(羽田からちょっと離れたパーキング)

自分で手配したプランの感想
  • 楽天トラベルは検索性が良く(細かい検索設定が出来る)つい予約してしまったが、、、「弱小民宿/ホテル連合」である、、という事が、実際に利用してよく判った。宿の質という点では「あ、しまった」という感じ。(二カ所共)さすが、北海道なのでお料理はどこも美味しかったけど、一件目は猫の臭いが酷く、二件目は秋冬向きのロッジで、屋根裏の部屋は風の通りが悪くて、室温が高く、辛かった(山小屋ホテルなので空調設備無し!)
  • パックツアーのホテルはやっぱり設備が充実。(タオルが余計にあったのは嬉しい)
  • 長期駐車場/レンタカーは空港から少し離れていて、送迎バスで移動するタイプの所は何処も直結型より安い。時間をしっかりスケジューリングしておけばかなりお得でおすすめ。

旅行中困った事
  • 洗濯物。。。この一言に尽きる。北海道と言えども夏場は汗をかくのね!家族5人が1日過ごせば膨大な量の洗濯物が発生して、2日以上は溜めておけない!小樽/旭川では強力な味方コインランドリーを発見出来たけど、富良野/美瑛ではとうとう見つけられず、、。宿屋のコインランドリーをうっかり使ったら、ちっとも乾かないでかえって辛い思いをする。(旅行先まで洗濯物が乾くかの心配をしたく無いよぉ)
  • 小学校三年男子を楽しませる。「つまらない、つまらない」の大合唱で、水遊びが出来そうな噴水とか公園とかを、行程の中に織り込まねばならなかった。(連れて来た事を若干後悔。)
  まあ、いろいろ書きましたが、きっと貴重な思い出になると思います。旅行先でもスマートフォンは役立ちました。あまり、1日の予定をきっちり決めてもその通りに行動出来ないので、ある程度事前情報をスケジューラーに入れて、マップにブックマークして、おおよその移動時間を割り出して、、とこれ無しではいられませんでした。惜しむらくは、カーナビともっと連動出来ていたらなぁ。。借りた車のカーナビがイマイチで、、でも iPhoneのマップでは今ひとつGPSの追従が遅いので、「???あ!今の角で曲がるんだった!」となりがち。(あれは歩いている時向きですね。車の速度には追いつかない)
旅行業界も、まだまだ手の入れ所が沢山あって、ビジネスチャンスがあるなと思いました。最後に1800枚近く撮った写真の中から、何枚かご紹介。(さて、これからフォトブックにまとめなくちゃ)

余市 ニッカウィスキー工場見学。凄く素敵な工場でした。お昼に食べたウニ丼が最高!

札幌 モエレ沼公園。イサム・ノグチ設計。素敵なフレンチレストランも有り(入らなかったけど)車でないと行くのは難しい。











旭山動物園 手づくりの真摯な姿勢は好感。紫外線が強く日陰が少ないので、日焼け防止策は必須。

旭川 北の住まい設計社工場。廃校になった小学校校舎を使って家具の木工所が開かれている。ここの家具はシンプルながら作りがしっかりしていて、大好き。一度訪れてみたかった所。

上富良野 十勝岳 青池 最近の新しい観光スポット。宿の人に教えてもらう。砂防ダムを作った事で出来た人造湖で、水中の成分がこんな青い色をしているとの事。

帰りの機内から。本州はずっと台風の影響で前線の動きが活発だったとか。帰路もの凄い積乱雲と夕焼けという一瞬を映す事が出来た。

2011年8月11日木曜日

NHKスペシャル「原爆投下 活かされなかった極秘情報」

毎年、NHKは夏の終戦特集に力を入れていて、いい番組を作っている。「日本人なら知っておかなくちゃな」と思って殆ど見ているが、今年の、、特にこの番組は暗澹たる思いだった。
視聴していない方の為に、簡単にアウトラインをご紹介すると。
  •   日本軍も諜報活動はしていてマリアナ諸島から飛び立つB29の動きはある程度把握出来ていた。(昭和20年の春から終戦までの数ヶ月間)
  • 交信の詳細は暗号化されて解読出来なかったものの、軍の部隊が規則性を持って組まれている事から予想して、これまでと違う特殊部隊が編成されている事まで掴んでいた。
  •  広島のケースから考えて、九州地方にもまた同じ新型爆弾が落とされる、という報告が軍上層部まで上がっていた。
  • 日本でも「原子爆弾」の研究を理化学研究所で行っていた。が、、資金力、組織力の面で到底扱い切れず、「開発は不可能」という事で断念。「アメリカもきっと開発は不可能である」と理由付けをして中止をする。 (アメリカは20億ドルという予算を注ぎ込んで開発していた。東条英樹ですらアメリカでは開発が進んでいるという認識でいた。)
まあ、歴史的事実を知った立場では、いくらでも先人を攻撃する事は出来るので、子どもっぽく批難する気にもなれない。参謀本部は既に思考停止状態で、いくら情報を入れられても、何も判断出来なかったに違いない。長崎に原爆が投下された8月9日と言えば、ソ連が満州国境を破って侵攻を開始した日で、度重なる本土爆撃を受け、既に沖縄では悲惨な地上戦に巻き込まれていた。平凡に昇進を重ねただけの首脳部の頭脳では、もう処理の限界だったのだろう。メンツを重んじて、それまでの方針を撤回出来ないまま、情報は空しく価値を失って散って行く。

  まただなぁ、、。そもそも、一滴の石油も出ない国が全面禁油という制裁を受けながら、物量戦になっている二十世紀の戦争で、冷静に考えたら勝ち目は無いのにそれを見て見ないふりをして、空気に同調してしまう。カラ元気を鼓舞するかの様に、相手を過小評価する癖は、今の社会でも殆ど変わっていないじゃないか、、そう思わずにはいられない。

番組の後半、九州の大村湾に駐屯していた飛行部隊のパイロットだった本田さんの話が非常に印象的だった。氏は「紫電改」という日本に数少ない高度一万メートルを飛行出来る戦闘機のパイロットで、偶然、広島に原爆が投下された瞬間を上空で目撃したそうだ。
重い紫電改が爆風に煽られてしばらく舵が効かず、やっと体制を建て直したその瞬間、今まであった広島の街が一瞬にして消えて無くなっており、目の前に赤黒いキノコ雲を見たそうだ。
長崎へまた同じ特殊任務機が飛び立っている情報を、原爆投下5時間前に諜報部から大本営に情報が伝わっていたにも関わらず、何の出撃命令も出されなかった。本田さんは、その事実を66年経った今知って、愕然としておられた。

「B29は決して落とせない飛行機では無い。非常に難しいけれども、自分は落した事もあった。」

と語る。もし、あの原爆を搭載したB29に対峙していたら、この人の命は無かったかも知れない。。そう思うと、それはそれで居たたまれないが「何か出来たはずだ。」と心から悔しがる姿に、この88歳の老パイロットに、現代の人には見られない気迫を感じる。

番組の中で証言していた人々は、どの人も高齢だったが、みな頭脳明晰で当時の事をしっかりと順序だてて話をしている。

「現場は優秀で、指揮官は無能」

日本の典型的組織を揶揄した、悲しい諺を思い出す。日本人は先天的に「情報を判断して戦略を立てる」事が出来無いのではないか、、、そう思えて仕方無い。

2011年8月10日水曜日

さかのぼり日本史 明治”官僚国家”への道 第3回「巨大官僚組織・内務省」第4回「岩倉使節団・近代化の出発点」

やっぱり、この人だったのかと言う感じで、大久保利通登場!
今回のさかのぼり日本史は二回分をまとめた方が面白そうなので、、、

第3回「巨大官僚組織・内務省」
明治維新直後から国家運営を支えたのは内務省。これは今で言ったら、経産省、財務省、総務省、警察庁が一緒になった巨大組織で、戦後GHQに解体されるまで続いた強力な官僚組織だ。この組織を作り上げ、初代内務卿に就いたのが、大久保利通。
司馬さん(毎度の引き合いで恐縮です)は、鹿児島で行った講演の中で
『大久保利通展がやっと開催されて、そこそこ人が集まって良かった。』
と言う発言をしてる。同時代の英雄、西郷隆盛に比べて故郷の人々は大久保に冷たい、、と少し悲しく思っていたようだ。
現に西郷さんはとても愛されているけど、大久保は明治初頭「私腹を肥やしてこんな豪邸まで建ててけしからん!」と糾弾されるビラが撒かれたらしい。でも、そこに写っていたのは、生まれたばかりの中央郵便。。大久保の辛さが伺える。
何しろ、維新の大オーナーだった、薩摩や長州の殿様達ですら

「江戸城に俺はいつ入ればいいんだ?」
やら
「俺の役職は何だ?」

、、と維新の意味をしっかり理解していなかったそうだから辛い。(皮肉な事に一番分かっていたのが徳川慶喜なのかも、、)

西郷は、そんな土着の捨て去るべき遺物にも、一片の愛着を持っていたのかも知れない。判官贔屓な日本人は、最後は情に篤い西郷を愛し、眉一つ動かさず強い信念で維新を断行する大久保に、畏れと近寄り難さを感じるのだと思う。

大久保は、殖産興業を最重要課題とし、そこに掛ける予算を三年で三倍にまでする。大変な辣腕ぶりだ。当然予算が追いつかない。そこで目を付けたのが、士族に与えていた俸禄金である。これを全て停止してしまうんだから、今の政治家にはとても出来る芸当ではない。
それまで、手弁当で維新に参加した士族階級の不満は爆発する。佐賀の乱、西南戦争へと、反乱の火は広がるのだが、その最中にあっても大久保は物ともせず「内国勧業博覧会」の開催を強く推し進める。
これは全国の物産を集め、広く内外に喧伝する目的の博覧会なのだが、それまでの日本人は「博覧会」なんて聞いた事が無い。周囲も延期/中止を検討すべきではと進言したらしいが、大久保は怯まない。
及び腰しだった出品者に、送料の援助や優秀な物産はパリ博に出展させる等、優遇策を打ち出して、積極的な姿勢をアピールし続けた。
結局、三ヶ月の開催期間中に45万人を集める大成功をおさめ、約1年後、大久保は不満士族によって暗殺されてしまう。(確か紀尾井町だったのでは。。)

大久保は人に厳しいが自分にも厳しい人で、大久保亡き後、内務省の空気が緩んでしまった事に、彼の側近が嘆いている。(夕べの宴席の芸者の話やら、仲居が出入りし始めたりして、公私の区別が甘くなったとか)
無口な男で通っていたが、足繁く富岡製糸工場に視察に訪れた時は、現場のエンジニアを捕まえて、具体的な質問をし、その博識ぶりは専門家も舌を巻く程だった。今で言えば、理系エンジニア気質と言えようか。

別にこんなエピソードがある。京都嵐山に、たまたま訪れた大久保が、土地の翁に
「何故こんなに荒れているのか?これが天下の名勝なのか?」
と質問した所、翁は
「ご維新だからですわ。」
と答えた。

聞けば、それまでここを管轄していた藩主は、キチンと嵐山のメンテの為に人を雇っていたと言う。幕府が瓦解し、社会システムも変わったので、メンテをしていた人達のサラリーが保証されなくなってしまった、だから荒れ果てて当然なのだ、、と。
じっと話を聞き入っていた大久保は「大変参考になった。」と感謝したという。その後、維持する仕組みが整えられたそうだから、大久保は基本的に勉強熱心な人だったのだと思う。そんな大久保に決定的な影響を与えたのが、次回の「岩倉使節団」での体験な訳である。

第4回「岩倉使節団・近代化の出発点」
 「見て来た者」と「見る事が出来無かった者」との差。
岩倉使節団の意義はこの一言に尽きるのではないかと思う。

卑小な例で恐縮であるが、職場でもよく視察や調査で海外に出張する人達が居る。写真やレポートで細かく報告してもらえるが、やはり、実体験をそのまま他者に伝えるのは限界がある。余程、表現の訓練を積んでいても、その現場で受けた感覚は、その人が獲得した固有の物であって、いくら他者へそっくり移植したいと思っても、不可能だ、、と常々思う。

維新の主要メンバーをごっそり海外使節として送る、しかも二年も(まあ、船旅なので時間はどうしてもかかってしまうのだが)。大胆で太っ腹な計画である。時々思うのだが、西郷がこの使節に加わっていたら歴史はどうあったのか、、。
彼は留守役を勤め、大久保達が居ない間、彼なりに国内の面倒を見ていたのだと思う。使節団帰国後、「征韓論」で、帰国組(大久保)と衝突して下野してしまう事件は有名だが、西洋を直に見て来た大久保にとって、隣の半島国家にお節介を焼いている場合では無いと、追い立てられる気持ちだったのだろう。
(余談ながら、司馬さんは龍馬に海外を見せてやりたかったと話している。彼なら、今で言うベンチャー起業の社長よろしく、次々と事業を興していたかも知れない。)

幕末、幕府が安易に結んだ不平等条約の改正の手がかりも掴みたい、使節団にはそんな目論見もあったが、手練な外交担当者に軽くあしらわれ、悔しさと同時に国力/文明の差を嫌という程見た旅のようだった。岩倉具視はそれまで自慢にしていた、まげと和装をシカゴでバッサリ切り捨ててしまうし、随員のメモによると大久保には円形脱毛症があったらしい。それだけ、受ける衝撃にストレスを感じていたのだろう。

米国からヨーロッパへ渡り、当時欧米では「田舎国家」と見られていたドイツが、フランスを破って一躍脚光を集めていた頃だった。老舗国家である英国や仏国には、到底及ばないと劣等感を感じていた使節団は、ドイツビスマルク首相のやり方に、新興国日本の進むべき道を見いだしたらしい。
ビスマルクは直下に官僚組織を置いて、強力な指導力を発揮してどんどん産業振興をはかっていた、この方法を大久保はそっくりコピーしたらしい。面白いと思うのは単にコピーすると言っても、それを真似出来るだけの素地が無ければきっと実は結ばないであろうという点である。

司馬さんは晩年、大前研一氏と対談をした際に
「昔から、平家、海軍、国際派はどうしても主流になれない、という諺がありますな。」
と語っている、上記に「織田信長/豊臣秀吉」を入れても恐らく良いと思うが、要は貿易と外交に力を入れ、開明的文物を積極的に取り入れる姿勢を言うのだと思うが、歴史を振り返ると、短い開明派の天下の後には、必ず、長く「内向きで土着で閉鎖的」な政権が天下を取るという事を繰り返している。
明治の初頭のパワーは、200年以上もの長きにわたり、「この河には橋を掛けるな」とか「船は一本マスト以上増やしてはならん」とか、ずっとサイドブレーキを引かれたままに留め置かれていた「エンジニアリング的欲求」が一騎にリリースされた時代だった。あの時代の遺産が今でも魅力的でキラキラしているのは、そんな時代の稀なるタイミングの賜物だからなのかなと思う。

さて、このお気に入り番組「さかのぼり日本史」が各月のテーマごとに書籍になっている模様。是非購入して読まなくては!

さかのぼり日本史(1)―戦後 経済大国の“漂流”
さかのぼり日本史(2)―昭和 とめられなかった戦争