2012年8月15日水曜日

終戦記念日に寄せて

今年はオリンピックが昨日まで開催されていて、例年よりも「夏の慰霊」の意識が薄かったなと反省。今日は終戦記念日なので、慰霊の気持ちでエントリーしたいと思う。

BSプレミアム「巨大戦艦 大和」
俳優:瀬戸康史氏がレポーター
BSプレミアムで三時間に及ぶ長時間番組が放映されていた。総合枠ではここまで時間を割けないので、かなり丁寧な作りだ。
太平洋戦争末期に「特攻出撃」を命じられた巨艦大和から、奇跡の生還を遂げた乗組員への丹念なインタビューと、再現映像/再現ドラマで構成されている。
大和には約3300人の乗組員が乗船していたが、生還出来たのはわずかに300名に足らない。死亡率9割とは恐るべき数字であるが、「同じ船に乗る」とはそれだけ「戸板一枚下は地獄」の世界なのだと改めて痛感する。
漢字カナ混じりの漢文調だがすぐに慣れてしまう。
今回の番組のベースになったと思われる「底本」を持っている。まだ半分しか読んでいないが、大和から生還した乗組員による沈没までの手記「戦艦大和ノ最後」(吉田満著)である。
番組もほぼこの手記に沿った形で構成されていたが、改めて実際に起きた事を細かに知ると、「国をあげて物狂いしたように突き進んでしまったのはなぜなのか。」と考えてしまう。
戦艦大和に関して、これまで言われている事を乱暴に挙げてみると。
  • 航空戦闘機と空母が主役の時代にあって一世代前の「艦隊決戦」思想から抜け出られなかった海軍の時代錯誤の産物。
  • 「大和ホテル/武蔵旅館」と言われ、出来上がっても出撃命令は無く、いつも見送り役ばかりで、他の巡洋艦/駆逐艦の乗組員から揶揄されていた。
  • 巨額の血税をして建造されたのは周知の事実で、その事が上層部の思考に「足枷」となった。
  • 殆ど無意味と分かっている「沖縄奪還特攻任務」に最後は「巨艦が無傷で残っていては海軍のメンツに関わる。」という情緒的理由で、帰還を期待されない「死すべし」の特攻命令になってしまった。

恐るべき成功体験
二度読んだがもう一度読みたい良書
太平洋戦争に関して、唯一のおススメ書を挙げよと言われたら、迷わず「それでも日本人は「戦争」を選んだ」(加藤陽子教授著)にしたい。
これまで、戦争がもたらす悲惨な状況はそれなりに多く見聞きして来たつもりだが、この著作によって、一つ「蒙が開かれた」体験をした。
現役の東大教授(加藤陽子教授)が高校生(栄光学園の歴史部!)に対して行った5日間の特別授業がベースになっているのだが、その内容の高度さと、分析の的確さ、講義に際し見事について行けている参加した高校生達のレベルの高さには本当に圧倒される。
この加藤教授は、海軍の「艦隊決戦思考」について、別の著書でも以下のように主張をされている。
  • 日露戦争の「日本海海戦」の成功が『栄光の海軍』の捉われになってしまった。
  • 真珠湾攻撃で自ら、航空戦闘機の威力を示してたにも関わらず、太平洋各所に設けた拠点を「飛行場」として整備する発想に乏しく、あくまで「艦隊給油港」としか認識していなかった。
  • この当時の陸海軍の中枢を担った世代は、物心つく頃に日露戦争の戦果に高揚した世代である。
子ども時代にどんな影響を受けていたのかという視点は、とても斬新で女性らしいと思う。先の BSプレミアムでも、「大和の沖縄特攻作戦」に対して海軍内部で揉めたやり取りが再現が成される。
この中で、若い世代(尉官クラス)は早くから「大和は無用の長物」に気が付いており、もっと時代に即した内容にリソースを割かなければならないと主張するが、ボス世代(将官クラス)は
「艦隊決戦という我が方に有利な状況に持って行けばいい。」
「ここまで金を掛けて、使いませんでしたでは海軍の威信に関わる。」
と自分達の都合が良い方向に思考をむけたがる傾向がよくわかる。

このやり取り、75年前のものであるが、現代でもそのままではないかと思うのは私だけだろうか?


壮絶な死線を越えて帰還した人々の悲哀
大和は沖縄に到達する事無く、米軍の日本側暗号文の正確な解読によって、十分に準備された包囲網に飛び込んでしまった。
 その時の様子を生存者達は語る。
「水平線上にぐるりと360度取り囲まれて、びっしり敵艦の姿が見えた。」
「母艦から飛び立つグラマン機が銀色に輝いていて、まるでおカイコのようだと思った。」
「大和自慢の46サンチ砲はとうとう最後まで、発射する事は無かった。照準を定めようと測距するも、すぐに飛行機が雲に隠れてしまって、そこから急降下するのだ。」

大和一艦の所を袋だたきにしているようなものだから、この証言は凄まじい。いよいよ舵が効かなくなり、浮沈艦と言われた「バラストシステム」では対応しきれず、大きく傾きだした所で「全員退避」の命令が下る。
3300人が一斉に艦上に出られる訳も無く、多くは艦もろとも沈んでしまったが、生き残った人々は、水中に吸い込まれた後、大和の弾薬庫の大爆発で水面に一気に押し出されたと証言している。海面に流れ出た重油でドロドロになりながら、辛うじて救護にやってきた巡洋艦に収容された。それでも、まだ波間には多くの人が助け求めていたが、それを置き去りにしたと言う。

証言者の多くは80歳以上の高齢で、当時は10代後半から20代半ばの若い徴用兵ばかりだ。自ら望んで軍隊に入ったのでは無く、兵役検査で入隊を強要されるのだが、それを「誉れ」とすべき重圧があったと言う。
「何度脱走したいと思ったか知れないが、それをすると郷里の両親が生きていけない。」
「国の為に死ねるのは名誉な事である。と言わなければならない空気。」
「自分と兄と同じ大和に乗っていたが、自分だけ助かって兄は戦死してしまった。だが、もし兄も生きて揃って帰還してしまったら、それはそれで問題だったろう。一緒に入隊した同じ村の仲間は、みんな戦死しているのに、我が家だけ兄弟揃って生きて帰っては申し訳無い。」
この絶句すべき証言に考え込んでしまう。日本人は「同調圧力」が強いと言われているが、我が国固有の特徴なのだろうか?
過激な応酬が繰り返される中東では「聖戦士」は名誉な事として、周囲から賞賛され母親達は息子が自爆テロで亡くなっても嘆く事を許されない。(ハマスの女達より)一方、ソウル・サバイバー・ポリシーと言って、兄弟を同じ部隊に配属させてはいけない、という規定を持つアメリカ(映画:プラベート・ライアンのストーリーの根拠となった規定)。
まだまだ不勉強なので、結論めいた事は書けないが、同国人を思いやる社会的な認識はどうしたら醸成されるのかと思わずにはいられない。


終戦記念日に読むべき代表作
終戦の聖断に至る経緯がよく判る
 最後に、今日という日を理解するのに欠かせない著書を紹介。半藤氏は多くの太平洋戦争に関する著作を残しているが、この「聖断」「日本で一番長い日」は押さえるべき代表作だろう。
「もっと早く終戦の決断が出来ていれば。」
とは、ずっと言われて来ている事だが、歴史はそうでなかった事を教えてくれており、なぜ出来無かったのかも、控えめに語っている。最後に、加藤陽子教授のあとがきから引用して終わりにしたい。

私たちは日々の時間を生きながら、自分の身のまわりで起きていることについて、その時々の評価や判断を無意識ながら下しているものです。また現在の社会状況に対する評価や判断を下す際、これまた無意識に過去の事例からの類推を行ない、さらに未来を予測するにあたっては、これまた無意識に過去と現在の事例との対比を行っています。
そのようなときに、類推され想起され対比される歴史的な事例が、若い人々の頭や心にどれだけ豊かに蓄積されファイリングされているかどうかが決定的に大事なことだと私は思います。(それでも日本人は「戦争」を選んだ あとがきより)

2012年8月12日日曜日

アゴラ読書塾Part3第5,6回スティーブン・ピンカー/サミュエル・ボールズ/ダグラス・ノース 〜人類の基底部に存在する暴力〜


先週はマシン不調の為、ブログ更新が滞りました。ですので今週は「アゴラ読書塾」の二回分をまとめてレポート。いずれも、海外の経済学者や心理学者が最近発表している学説を取り上げ、今期のテーマである「戦争する人間」を補完する構成になっています。


スティーブン・ピンカー(暴力にまつわる社会的通念)
「どうして人類は平和でいられるのか考えるべきである。」
不勉強で全く知らなかったのだが、ピンカーは世界でも有名な心理学者だそうだ。日本ではハーバード大と言えばサンデル教授が有名だが、ピンカーは心理学の教授を同大学で勤めている。大衆向けに科学書を数多く執筆しているそうだ。
そのピンカーが2007年のTED(カルフォルニアで年に一度行われる様々な分野の人がプレゼンテーションを行うカンファレンス)で行ったスピーチが「暴力にまつわる社会的通念」である。


20分程のスピーチなので、聴いて頂くのも良いが、一番肝の部分を要約すると。

「暴力は有史以来低下して来ている。」 その理由は
  1. トマス・ホッブスが正しかった(人間は自然状態では「やるか」「やられるか」で常に暴力にさらされていたとの説を取った人物。ずっとそれを続けていては共倒れなので、暴力に寄らない中央集権国家が出来、殺人による死亡率が低下した。)
  2.  人生は取るに足らないものだと思っていた価値観がテクノロジーの進化によって「意味」を成しはじめたから。(それまでは死んでしまう事に無頓着だった。)
  3. 「非ゼロサムゲーム」の浸透(どちらか一方が他方の分を丸取りするのでなく、双方に利益をもたらす為に争わない方が有利にである。ポジティブサムゲームの増加)
  4. 人間は進化によって「共感」する事が出来るようになった。(但し、スタートは「血縁」だけに限り、それが村落→一族→部族→国家→他の人種→男女へと共感の範囲を広げて行った)
「これまでは、『なぜ戦争をするのか』と問うて来たが、本当は問いが逆だったのではないか、『どうして平和を保てているのか』と問うべきではないか。他者に自分の姿を重ね合わせることで、自分の人生の立場が偶然の結果と気づかされる。そして、それは誰にでも起こりうる事だろう。『我々の間違った行い』ばかりを問うのでなく、『正しい行い』を問う事は価値ある事なのだ。
池田信夫氏に言わせれば
「いかにも、アメリカ人らしい最後は『明るい結論』ではある。」との事だが、心理学という全く畑の違うピンカーが「そもそも、人間には攻撃性が内包されている」と言い出している所が興味深い。


サミュエル・ボールス(偏狭な利他主義を唱えた人物)
ボールズは経済学者であるが、ラディカルな論をはる人物らしい。
「偏狭な利他主義」=「互恵的利他主義」(後で見返りが期待されるために、ある個体が他の個体の利益になる行為を当面の見返り無しで取る利他的行動の一種)の研究に熱心だったボールズは、
集団を守るには「単純な利他主義」の集団では、「フリーライダー」に食い物にされるだけなので、「身内のみを大事にし、他者は排除する」前提の集団での「利他主義」(偏狭的利他主義)
を唱えた。以前のブログで図解した下記の図を参照されたい。

血縁関係と偏狭な利他主義(第3回ではグループの仲間であると識別するために、言語や宗教、音楽があるという説を検証した。
 集団を維持する為に「偏狭な利他主義」という方針をとり、集団を食い物にする「フリー・ライダー」を抑制する仕組みとして
  • 恥じ
  • メンツ
 という感情を人間の脳に深く埋め込むというメカニズムを発達させた。というのがボールズの説らしい。


ダグラス・ノース(ゲーム理論の長期的関係)
ノースはノーベル経済学賞を受賞したアメリカの経済学者である。
彼はそれまで「財産権(所有権)が資本主義経済システムを支えた」と提唱していたが「Violence and Social Orders」(左図)ではその理論を覆して「暴力が社会秩序の根底にある」として大きな反響を呼んだそうだ。
ノースは90年代に「ゲーム理論」を使って、内証的に「所有権理論」を説明しようとしたが、ゲーム理論では結局「長期的関係」が唯一の解となってしまい、「全員が合理的に行動する。」事を前提としたこの制度では、集団の規模の拡大が望めない。
読書塾Part1で使ったゲーム理論の図
そこでノースは、
  1. 暴力を独占して国家を支配する階級と被支配階級とに分化して肥大化する国家(自然国家:中国が代表例)
  2.  オープンアクセス秩序を成立させた近代西洋国家
という二つの国家の有りようを定義し、「オープンアクセス秩序」の国家が成立する条件として
  • エリートの中での法の支配
  • 私的または公的な永続的組織
  • 軍事力についての統一された政治的支配
の三つの条件が必要だと定義した。池田信夫氏は、この条件を解説する時にシンガポール等の「開発独裁」を例にとりながら、
「『エリートの中での法の支配』という事はつまり、経済発展に「民主主義」は関係無いという事です。」
と、背中を後からたたかれるような、目の覚めるコメントをされた。
経済発展は人々が少しでも豊かに暮らせるように、、という正の面ばかりで無く、負の面「国家対国家が相手よりも抜きん出る為に最後は経済力に拠る。」
という、言わば「暴力」を最大限に肥大化させる為に興った事は、戦争の歴史が雄弁に物語っている。ノースは
経済力を背景にして武力を強めた国家が世界に領土を拡大し、植民地から略奪した富によってさらに経済力を拡大する・・・という正のフィードバックが起こり、資本貯蓄が進んで産業革命が興った(池田信夫メルマガより)
 と定義付けているそうだ。これは「経済的な土台が法的・文化的な上部構造を規定する」という、マルクス以来これまで語られて来た図式をひっくり返す理論らしく、これから議論が重ねられるそうだ。


中国でも西欧諸国でも無い日本
読書塾では、散々語られて来た事だが、このノースが規定している「自然国家」でも「オープンアクセス秩序」の国家でも無いというのが、日本だ。
読書塾Part1の時のマトリクス
 真に法治国家でも無く、百姓一揆の直訴と変わらないぬるい訴えからいつまでも抜け出られ無い日本の「古層」は根深い。丸山真男の講義録にはこの「日本の古層」が実によく捉えられている。。
、、、この所、毎回エンディングに池田信夫氏が辿り着く嘆き節の一節であるが、「法の支配」とは国家と言えど法の下に従う、という苛烈な厳しさを日本人はキチンと理解していない事は、昨今のグズグズな政治状況を見ればよく分かる。

という事で、今回はこれまでの内容を改めて確認する感じで感想はこれまで。
次回はいよいよ、フランシス・フクヤマの読解に入る予定。さてさて、どこまでついて行けますか。。